昭和百年
令和七年の今年は、ちょうど昭和百年の年でもある。
昭和は1926年12月25日に始まり、1989年1月7日に終わった。
長すぎた昭和の時代。
今生きている人間の大半は、戦後生まれ。
なわけだが、戦争も含めての昭和である。
戦争は数えきれない怪物、妖怪をこの社会に産み落とした。
圧倒的な暴力の時代を駆け抜けた人々が持つ価値観と倫理観。
そして、戦後のぬるま湯だけで育ってきた人間たちが持つそれ。
そこに大きな乖離があることは当然のことともいえる。
戦争という「絶対的な体験」は、誰しもが大きな問いを抱え、可塑性の高い変質を余儀なくされた。大きく善性に目覚めた者もいれば、暴力こそが正しく秩序を保ち得ると真剣に信じる人間が多く生まれてしまったというのも、理解には難くない。
そういった人々が作り上げてきた戦後の日本社会。
それが今、大きな節目に迎えている。
「昭和の悪しき習慣との断絶」
それ自体は素晴らしいことだが、それ以上に「昭和の遺産の放棄」の方が最近気になって仕方がない。
いわゆる美徳・善性の放棄ぶりが目に余るのが「現代の世相」のように、筆者にはどうしても映ってしまうからだ。これは日本に限った話でなく、長らく戦争を経験していない国全般に言えることのようにも思える。
実際に経験がないから仕方がない。
だが、わざわざ望んで経験するようなものでも絶対にない。
そういった教訓は、歴史から学べば良いわけだが、歴史が人間に教えてくれるのは「民衆は歴史からは何も学ばない」という虚しい歴史の積み重ねである。
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戦争とは本来、究極的な経済活動である。
なので、現代の日本を取り巻く環境なら、攻守共に戦争は起こり得ないとずっと考え、筆者は安心して生きてきた。しかし、ひょっとすると今の「集団ヒステリー社会」でなら、或いは政府すらも意図せぬ埒外の暴発が、民間レベルの「何らかの勘違い」から起こりうるのではないのか、とここ1~2年で急速に考えるように筆者はなってきた。
長らく続いた不況社会とはいえ(=株価なんて投資家以外の国民の生活にはほとんど関係ない)、デフレに近い状態も長かった。
しかし、コロナ渦の反動から、いよいよインフレ社会へと一気に針が振れ始め、国民レベルでのヒステリーの増大ぶりが顕著となってきている現在。
下流だけならまだしも、自分はずっとまだ中流の人間だと信じて踏ん張って来た者たちまで、いよいよ下流の渦に飲み込まれ始め、パニックがそこかしこで起こり始めている。
そういった社会状況になってくると、ちょっとした放火だけで、社会は大炎上を起こす。独裁国家ならば、それは革命の炎ともなり得るわけだが、与えられた民主主義のこの国では、次はどのようなことが起り得るのだろうか?
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過度のストレスとヒステリーからくる顕著な社会的思考力の低下。そして劣化。
昔は、少しは頭が回ると思っていた言論人(気取り)たちのここ数年の、顕著な老害化ぶり(主に団塊ジュニア世代なのかな)。彼らは「自分たちの思考に油が乗り切ってきた」という自負と絶対感からなのか、他人の声になかなか耳を傾けなくなってきたように映る。過度の自信と自負から来る「柔軟性の喪失」。これこそが老害化の病巣であり、逆にいえば、柔軟性こそが若さの象徴とも言える。
極端なバカの旗振りにすら、簡単に乗っかるお調子者の知性ゼロたちが巻き起こす、連鎖的ネットテロともいえるデマゴーグの氾濫。さすがにここまで来ると危険水域とも言える状況か。
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「人を騙すのは簡単」である。
多くの部分で正しい情報の中に、嘘の部分もほんの少しずつ混ぜ、その「嘘自体も正しい情報」であると刷り込んでいく。9割が事実の情報の中に1割の嘘が混ぜられていても、ひとは9割が正しいことなので、残り1割の憶測(=意図的な嘘)もおそらくは正しいのだろうと簡単に誤認する。
よく「ネットリテラシー」という言葉と「情弱」という言葉はセットとして語られるが「詐欺は騙されないと思っている人間」ほど騙されやすく、情報強者気取りほど「デマに触れる機会」も必然的に多くなる。
人間は「偶然、目にした情報」ほど「真実の情報」と思い込みやすく、その心理を利用したネット広告や情報誘導が日常的に行われているということには、自身の見識を過信し、あまり注視しない人間が、非常に多い傾向にある。自称・情報強者たちほど。
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筆者は、YouTubeでつく謎の政治系スポット動画などには必ず「広告主」をチェックする習慣がある。「いったい何者が広告費を払ってまで世論をどの方向へと誘導したがっているのか?」という部分が気になるからだ。
金を払ってまで、世論を一定の方向へと誘導しようとする意図には、必ず後ろ暗い部分があるので、そういった動画が応援する対象は、逆に「限りなくクロに近い位置にいる存在」と警戒するようにも気を付けている ―― 視聴者の後ろ暗い「被害者意識」を煽る文言から始まる動画は、宗教洗脳とまったく同じ手口なので、要警戒である。
「偶然、目にする情報」と「リスティング広告的な情報」との親和性の高さ。今のインターネット世界における広告情報は、完璧に個々人に向けカスタマイズされた「必然の広告」が99%の時代なのだから(すなわち、アナタ自身のネットでの行動様式から、そういった広告に誘導されやすい、ちょろい標的と判断されていることを意味する)。
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今の時代を正確に判断したいのならば「すべてを疑え」である。
ありとあらゆる情報を「その都度判断する」。
そして「自分自身」も疑い、日々考えと判断をアップデートしていくこと。
皮膚感覚で「何らかの気分の悪さ」を感じる情報には、情報発信者の「悪意と指向性」が必ず働いている。特にその誘導先で「正義を気取っている者たち」こそが「悪意の根源」に近い位置にいる存在である。「悪意と指向性」の発信者は「マッチポンプ」を仕掛けていると言い換えても構わない。
「正しい」「間違っている」の二元論で物事を捉えないこと。
間違っていることの反対側が、常に正しいなんてことは、現実ではありえない。
どちらが「より間違っているか」を競い合っているのが、現代社会なのだから。
ならば「間違いがマシな方」にBETした方が無難である(そういえば、イーロン・マスクがトランプを支持した理由も、このへんのスタンスだと自分で言っていたな)。
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おそらく今年と来年は、世界的にも大きな大きな転換期となる年となることだろう。どう転んでも地獄なら、まだマシな地獄であって欲しいところだが、ヒステリー社会が下す判断は、かならず「感情論」で間違った方に針が振れてしまうというのも、すでに歴史が証明していることなのかもしれない。
踏みとどまるなら、今が正念場だ。
現代人はもう少し「許す心」を持つべきである。
怒りに任せて、暴発するのは、さらなる地獄を呼ぶだけだ。
感情的な人間たちには、もうお腹いっぱいなんだよ、実際。
「昭和百年」をテーマに書き始めたら、何だかえらい話になったな。なんだ、これ。