勝敗の行方
「漢嬰殿!御助力、忝ない♪」
韓信は中央の決戦を制すと、漢嬰に頭を下げた。
「いやなに…此れも運命ですかな!こやつには、三年前の貸しが或るのでね…けっきょくは私の手に掛かる事に為っただけの事、皮肉なもんですが、この三年、生き永らえる事が出来たのですから、あの時は、天命がまだ尽きて居なかったのでしょうな…」
漢嬰はそう応えると辺りを見回しながら、
「どうやらほぼ決着は着いたようですな…」
と付け加える様に言い放った。
「そうだな…此れからは掃討戦に移行せねば為らん…」
韓信もそう呟いた。
二人の見方は正しい。
楚軍はその殆どが、仕掛けに嵌まって、洪水の波の藻屑と消えていた。
中央から見ても、今や曹参軍が周蘭軍の生き残りと戦っているだけで、波間にはほぼ生存出来た者は見当たらない。
そしてその曹参軍も、僅かな生き残りの兵を包囲殲滅してしまった。
「どうやら勝った様だな♪」
韓信は激流が未だに流れて行く濰水の波間を眺めながら、そう呟いた。
「…そうですね!しかしながら、観ているだけでもゾッとさせられました…自分があの中に居なくて幸いだったと想わずにはいられませぬ!」
李左車は青ざめた様な顔で辺りを眺めている。
「全くだ!やむを得ぬ事とは謂え、余り目の当たりにしたくは無い光景ですな…」
漢嬰も嘆息しながら見つめていた。
「確かに…」
韓信は眼を瞑ると、濰水の波間に沈んだ多くの霊命に手を合わせる様に祈りを捧げている。
漢嬰も李左車もそれに倣った。
「さて…濰水の勢いが収まるまでは、我々も渡る事は出来まい…その間に各人は隊に戻って立て直しを頼む!河の流れが緩み次第、掃討戦に移るから、皆そのつもりでな…」
韓信は眼を開けると、皆の眼差しを見つめながら、そう命じた。
「田横を捕らえてあるが、どうする?」
漢嬰は尋ねる。
韓信は吐息を尽くと、少しの間考え込んでいたが、
「司馬信殿と李匠殿には投降した者たちを臨淄に移送して貰う様に頼んでくれ!後の掃討戦は我々のみで行う。」
"それでどうか?"そう韓信の眼は告げている。
漢嬰はフッと笑みを浮かべて、「承知した!」とだけ答えた。
濰水の戦いはこうしてほぼ決したのである。
韓信はこの戦いに勝利した事で、更にその勇名を轟かす事に成ったと謂える。
歴史は必ず指揮官を褒め称え、その手柄も彼の御手に帰す。
しかしながら、こうして見て来て判る通り、全て韓信が踏んだ段取りでも無く、彼の優秀な配下それぞれが役割を担い、時には策を巡らす事で、事を為し遂げたのだと謂えよう。
濰水は濁流となって、多くの生命を諸共に押し流してしまった。
その後も更なる命を欲する様に、流れの勢いは止まる事無く激流となって、河下に向けて墜ちて行く。
水は命の源とも言うが、使い方次第では凶器にも様替わりする。
そして言うまでもなく、時には災害すらも引き起こす。
丹精込めて育てた作物が実りを迎える前に、田畑ごと全てを押し流してしまう事さえある。
けれども、その後には豊潤な恵みの土を残してくれたりもする。
韓信はこの結果が、恒久平和に一歩でも近づく、一如になってくれればと願って止まないのであった。
『……』
態勢が定まった『濰水の戦い』であるが、他の関係者がどうなったのか、引き続き見て行きたいと思う。
まず、河上にて戦闘に加わっていた曹参と周蘭であるが、曹参は後方で待機しながら、弓隊を準備していた周勃軍営に周蘭軍を誘い込み、空を覆い尽くす程の弓の雨で周蘭軍を削り始めた。
周勃の攻撃は容赦無く、二派、三派と続き、水面には馬から投げ出されたり、倒れた兵の死体が横たわっていく。
ただでさえ、足許が不安定な水の中だ…その障害物に馬や人が躓いて、将棋倒しに巻き込まれる者まで出て来た。
周勃は曹参が陸に接近して来ると、弓兵を左右に展開させて、間を開けて迎え入れると共に、弓隊の背後で準備させていた長槍兵を左右に分けて配置した。
曹参に追い縋って来た周蘭の軍団長達は、陸に上がった瞬間に、左右から押し出された長槍に馬の足を取られたりして、投げ出された直後に包囲の中で順示、刈られていく。
指導者のいなくなった兵たちは烏合の衆と化し、武器を捨てて投降する者、無理に攻撃を仕掛けて斬られる者、長槍に突かれて息絶える者など、ほぼ何も出来ずに、死ぬか、或いは恥を忍んで投降するかの二択になった。
何とか陸に辿り着いて、選択技がある者は、まだましな方であるのは、皆様お判りの通りである。
やがて、天高く聳える様な濁流に飲まれて、後続の者達には選択の余地すら無く、遭えない最期を遂げる事になるのだ。
こうして龍且軍同様に周蘭軍も、仕掛けにきっちり嵌り込んで、大多数の者達は濰水に呑み込まれ、後日河下で無残な屍を晒す事になった。
但し、ここで少々違った点も垣間見られたのでお伝えしておこう。
それは周蘭将軍の周りで起きた変化であった。
彼は襲且将軍の檄に応えて、自軍も濰水に突入させた。
しかしながら、弓の波状攻撃を受けた事で馬や人が巻き込まれて、前衛の方では明かに大惨事が勃発している。
『此れは駄目だ…やはり一旦、引かせるほか無いか?』
彼はそう考えた末にひとつの決断をする。
この判断が彼の運命を大きく変える事に為るのだが、まだ彼自身もそんな事には気づいていなかった。
恐らく自分の託した軍団長たちは、もはや機能していまい。
下手をしたら、既に戦死しているかも知れない。
或いは、運良く生き永らえて居ても、捕縛されているだろう。
そうであれば、このまま進むと後衛も同じ憂き目に遭うだけだろう。
ならば後ろだけでも一旦引かせて、体制の立て直しを計るべきでは無いか?
…そういう事である。
『決断するなら、早い方が良い!』
彼は即座に撤退の鐘を鳴らさせると、自らもゆるゆる引き始めた。
その時に、あの濁流がやって来たのである。
周蘭軍はもっとも河上に位置していたため、河の発する轟音をいち早く耳にする事が出来た。
周蘭も直ぐに気づいたが、軍全隊の兵たちの耳にも届いたであろう。
勘の良い者はさっさと武器を捨てて、河面にバシャバシャと音を立てながら、走り出している。
それに釣られて走り出す者も居るし、恐怖にかられて、足が竦んでしまう者もいた。
周蘭もこうなっては統制を取りながら…などと言っている余裕は無く、
「水攻めが来る、逃げろ!逃げろ!とにかく走れ!」
と狂った様に叫びながら、自らもとっとと逃げ始めた。
それでも濁液は容赦無く、水面を覆い尽くす。
激しいうねりとなって、逃げ遅れた者は全て、強引に運び去ってしまった。
何とかそれに巻き込まれる事無く、陸に戻れた者は、周蘭を含めて、千人に満たなかった。
一瞬のうちに7万の兵のほとんどが、濰水の露と消えたのであった。
周蘭が陸に辿り着くと、季心が傍に近づいて来た。
「将軍!良く御無事で…今はひとまず、残存兵力の体制を立て直しております。将軍もどうぞ此方に!」
周蘭はそう言われて思わず、背後を振り返った。
濰水は完全に荒れ狂い、先程までそこに居たはずの兵たちを洗い流す様に、鵜呑みにしていた。
周蘭は地に手を付いたまま、しばらくボーッとその猛り狂った濁流を見つめるほか無かった。
何度か「将軍!将軍!」と声を掛けられて、やっと我に返った周蘭は、突然立ち上がると、 季心の胸ぐらを掴んで、「龍且は!龍且はどうしたのだ?」とやっと言葉を発した。
季心は困惑の顔を滲ませると、「誠に残念です!龍且将軍は、見事な最期を遂げられました…」と応えた。
周蘭はその瞬間、無自覚にも、目から涙がツーっと伝わって来て、頬を濡らした。
そして「そうか…」とだけようやく口にした。
『食い破ろうとして、遂に果たせなかったか…お前らしい…』
周蘭は最期のその時まで、自分流を貫き通した龍且に敬愛の念を抱いていた。
『自らを押し通した上で死んだのだ!悔いは無かろう…』と!
そして一旦、心の扉に鍵をかけると、彼は毅然とした姿勢で季心に尋ねる。
「残ったのは如何程か?」
「そうですね…私の5万と大将の2万、龍且軍5千ですかね、将軍の軍は干くらいですので、締めて7万6千ほどかな?」
「そうか…判った。今は何よりもここをいち早く撤退して、彭城に引くべきだろう。田横軍はどうやら壊滅しただろうからな。高密城にはまだ田広が顕在とは言え、もはや城を守るので手一杯だろう。斉国を奪還する等、夢のまた夢だ!つまり我々には、大義名分が失われたという事になる。ひとまず引き上げるぞ…何に、敗戦の責任は全てこの私が一手に引き受けてやるから心配するな…」
周蘭は拾った命だと言わんばかりの気概を持って、そう告げた。
「承知しました!仰せのままに。殿は私が致しましょう。将軍は兵6千と共に、大将に合流下され!」
季心も自分の不甲斐無さを感じていた。
周蘭から頼まれた田横の見張りの役目は果たせず、終わった。
また、独立遊軍としての強みも遂に発揮させる事は出来なかったからである。
季心は俯き、この敗戦を噛み締めていた。
そんな季心に、周蘭は意外な言葉を口にした。
「否、お前はなかなか良い判断をしたと想う。此れは結果論かも知れぬが、お前の温存した5万があるから、粛々と撤退が出来るのだからな。まさか25万の軍が7~8万まで減るとは此方も想ってもみなかったが、撤退するだけならば十分だろう。本来ならば、田横に釣られて、突出しても可笑しくは無かったが、よく我慢してくれた。此れはお前の手柄と言えよう。お前は約束通り、大将の項它を支えて、撤退してくれれば良い。この周蘭が6千の兵と共に殿を務めるゆえ、心配いらぬ。行くが良いぞ!!」
周蘭には無為に7万もの兵を死なせた追い目があり、また死に損った自分自身にも、蟠りがあった。
そうした気持ちの一旦が、如実に出たのだと謂えよう。
周蘭の確固たる表情には、それを覆せない気既が溢れていた。
季心は、なおも説得するのは無理なのだと感じ、素直に従う事にした。
こうして楚軍は、濰水の流れが収まる前に、撤退を始めた。
項它を先頭に、季心が続き、殿には周蘭が付いて、彭城に向けて退いていく。
『龍且よ!淋しい想いはさせぬ…私もすぐにそちらに行くだろうから、しばらくはのんびり待っていてくれ!』
周蘭はそう頭に念じながら、再び伝ってきた涙を左袖で拭うと、夕闇の朱色の空を見上げて、固く誓った。




