秘められた矜持
逃げる鼬と追う梟、否、蛇に睨まれた蛙…と謂うべきで在ろうか?
逃げる韓信を執拗に猛追する龍且の瞳には、獲物の背中しか写っていなかった。
彼は獰猛な獣と化して、本能の赴くままに、標的を目指す。
彼の瞳に写る獲物は、必死に馬の背に覆い被さり、只ひたすらに逃れようと、水飛沫を上げながら、河面を進んで行く。
『今日 遇ったが百年目よ…けして逃がしはせぬ!』
龍且は一心にそれだけを念じて韓信の背中を見つめていた。
『……』
もともと龍且も韓信も同じ楚人である。
だから本来で在れば、同じ陣営に属して居ても不思議は無い。
否、かつては同じ陣営に属していた事が在った。
韓信も楚人の血が流れているのだから、反秦の気運が高まった時に、立ち上がった楚の名門・項氏の流れを組む項梁の元に馳せ参じた。
そしてその項梁が秦の将軍・章邯に破れて敗死した後も彼の甥・項羽に引き続き従ったのだった。
けれども韓信の中には誤算がどうやら在ったらしい。
彼は此れまでも率先して自分が考えられる限りの有益な策を項羽に献じた。
ところがそのどれひとつとして採用される事は無く、彼は只ひたすらに無意に時が過ぎるのを待つほかなかった。
けっきょく彼は、項羽のもとでは郎中までしか出世する事無く、出奔する。
ここでは自分の求める居場所は無いと悟ったのだろう。
或るいは、彼の評判が頗る悪かったせいかも知れない。
彼は若き頃は極端な程の風来坊で、特に働きもせずに、人の厄介になって、飯を食わせてもらっていた。
いい若い者が、毎日ぐうたらしているだけで何もせず、食事だけは一人前以上に鱈腹食らう。
こんな人が貴方の家に寄宿していたら、どう思うだろうか?
きっと嫌な顔をするに違いない。
そして早く厄介払いしたいと想うだろう。
ここの主人は昔、韓信の父親に恩があったものだから、『仕方無い…』と感じていたが、その妻君となると、また話しは別である。
自分は何の恩義も受けていないし、そもそも食事や身の周りの世話をするのは、彼女なのだから、毎日の事となると、次第に腹も立って来る。
そこで彼女は、ある時、遂に業を煮やして、食事を出してやらなかった。
此れに韓信は即ぐに反応して、主人に恩を仇で返すのならば、もうここには居られないと、啖呵を切って飛び出してしまった。
彼は背こそヒョロッと高いが、偉丈夫であり、元々、大食漢なのだから、我慢にも限度がある。
余りにもお腹が空いていたものだから、やった事も無いのに、河に釣糸を垂れて、魚を釣る真似事まで試みた。
ところが、そもそも人の機微も判らぬせっかち者に、捕ってくれる魚などいない。
朝から始めて夕刻になっても一匹も釣れなかった。
それをたまたま眺めていた近所のおかみさんが、見るに見かねて、彼を自宅に招き入れると、質素ながらも温かい食事を提供してくれた。
彼は余程お腹が空いていたらしく、ガツガツと遠慮もせずに鱈腹食べた。
それでもおかみさんは嫌な顔ひとつ見せずに、最後まで給仕してくれた。
さすがに礼儀を弁えない韓信も、頭を下げて感謝を示した。
何しろ空腹の身で、苦しい時を過ごしたのだ。
その分、口にする物は美味しく感じただろうし、およそ人の感情があるのならば、自然と頭も下がると言うものだ。
彼は、おかみさんに、「私が将来、出世した時には、必ずこの恩に報います!」とまで口にした。
それだけ彼は、感激したのだ。
ところが、おかみさんの言葉はかなり辛辣で、冷ややかだった。
「お前さん、寝呆けてるのかい??私はあんたが余りにも憐れだと思ったから、食事を恵んでやっただけさ…お礼なんていらないし、期待してもいない。五体満足な若者が、食事を恵んで貰うなんて恥だと 思いな!温い事、言ってないで、ちゃんと働きなよ!判ったら、とっとと出ていっとくれ!」
そう言って韓信を体良く、追い立ててしまった。
韓信は、今一度、頭を垂れて、雑踏の中に消えてしまった。
こんな経験が在ったものだから、少しは考えを改める事にしたのかも知れない。
彼は渡世人の如く、困っている人が居たら、助けてやったりしながら、持ちつ持たれつの関係を築くことで、住む家や食事に困る事が無い様に、行動を改めた。
(^。^;)それはそれで微妙な気もするけどね…身を粉にしたり、弱者救済をしたりするのは良い事かと!
そんな事を繰り返すうちに、いっぱしの顔役になっていた韓信は、ある日の事、街の荒くれ者に声を掛けられた。
否、絡まれたと言った方が、いいかも知れない…。
男は韓信を睨めつけると、彼を口汚く罵った。
「貴様は背が高く、立派な剣を帯びているが、どうせ見掛け倒しの臆病者だろう?そうじゃないなら、この俺様をその剣で斬ってみろよ…嫌なら俺様の股の下を潜りな!」
男は嘲り笑う様に、韓信を侮辱した。
その様子を見ていた人々は、何と品性の悪い輩だろうと、男に腹を立てており、韓信が腹立ちまぎれに、男を斬って捨てる事を期待した。
ところが、彼は特段、困っている様子を見せる事なく、静かに無言のまま膝をを着くと、そのまま犬のように、四つん這いになって、男の股の下をゆっくりと潜ったのだ。
男は挑発に乗って来なかった韓信を殊更ポカンと眺めていたが、急に笑い始めて、「この根性無し!!」と、彼を公衆の面前で笑い者にした。
これには見ていた人々も却って呆れてしまって、蔑む目付きで韓信を見た。
その中には、当然、韓信に助けて貰った事のある人達も居たが、その有り様を観て、ガッカリしてしまったのである。
男はその様子を見届けると、『してやったり!』と頬をだらしなく緩めると、ケラケラと笑いながら去ってしまった。
韓信は、自身の行動には全く、動じていない。
彼は風来坊で過ごす日々の中で、色々な人々に迷惑を掛け、施しを受けた。
そしてその経験から、人に対しての寛容さや、堪忍を学んだのである。
彼には大志があったが、同時に未だとても小っぽけな存在である自分が嫌いだった。
だから自分の夢を実現するためには、どんな事でも我慢しようと心に決めていた。
『私は将来、必ず世の中に名が通る、ひとかどの人物に為ってみせる!』
韓信はある時、そう決意してからは、地道な努力を続けて来た。
古今の兵書を読み漁り、その研究を日々の糧として来たのである。
だからおよそ下らぬ挑発になど、付き合う気は毛頭 無かった。
『恥は一時の事、けれども志は一生の誉れだ!』
彼が泰然自若として、判断を誤らずに、素直に股を潜ったのは、そう謂う本人にしか判らぬ事情が在ったからだ。
ところが、世間はただその物事が起きた表面しか見ないし、詰まるところ、見た目で判断する。
そう言った事柄は、面白可笑しく、伝達する度に、大袈裟に揶揄されるので、言葉の端に尾ひれがついて、凄く情け無い形で噂となってしまうものだ。
恐らくこうした噂話しは、必ず軍内でも話題となるだろう。
韓信と同郷の者の間では、極めて有名な話しだからだ。
そんな噂話を聞いた者は、彼を頭から舐めて懸かるに違いない。
「こいつは股潜りの韓信だ!しかも他人に食事を喬っていた知れ者だ…(^。^;)情けない奴め!」と決めつけて掛かる。
だから彼がどんなに良い策を献じても、まともに検討してくれさえしたのかも怪しい限りだった。
謂わゆる"色眼鏡で見る"という奴だ。
彼も生身の人間であるから、どんなに自分を律して、挫けず献策を続けても、受け入れられる事が無ければ、気持ちも腐って来る。
それでも『打倒!秦』の旗の元、秦の滅亡までは、 項羽の揮下に留まって、彼なりに最善を尽したのだ。
項羽が咸陽に入り、秦を滅したのを見届けると、彼は漢中に左遷された劉邦の元に身を投じた。
韓信は元々、圧政を敷く秦国打倒のために、項梁の呼び掛けに応じて、参戦したのであるから、その義務は完全に果たしたのだと言える。
その上で、自分の夢に向けて劉邦の陣営に鞍替えしたのだから、この時代の人としては、なかなか律義な人物だろう。
誰からも後ろ指を差される理由は無い。
今で在れば転職の様なものだ。
しかしながら、人の運命とは必ずしも上手く行かない。
彼はせっかく、辿り着いた劉邦陣営でも、けして評価される事は無く、それどころか些末な罪で、首を刎ねられそうになるのである(^-^;…。
正に人生の浮き沈みを地で行く様な人であり、もはや此れまでと思われた。
ところが、『捨てる神あれば、拾う神あり』で、此れが幸運の始まりとなるのだから不思議なものだ。
韓信が処刑前に、ふと「私みたいな"玉を割る"とは漢王も見る目が無い…」と呟やいたのを、たまたまその場に居合わせた夏候嬰が、耳にして執行を止めた。
急死に一生を得た韓信は、恩人の夏侯嬰と親しく語り合う仲に為っていく。
夏侯嬰は韓信と話してみると、成る程…確かに軍事的な才能が豊かな事に関心して、これを宰相の蕭何に紹介した。
蕭何は政務を取りながら、兵站の運用も担っていたので、韓信に兵站業務を担わせながら、時折、呼んでは話し込むなど、此方も直ぐに打ち解けた。
話してみると、確かに夏侯嬰の謂う通り…否、それ以上の才能の持ち主と見極めた。
しかも兵站業務も卒無くこなし、無駄が無い。
蕭何は此れこそ正に、珠玉と讃えて、漢王に大将軍に任ずる様に推挙した。
韓信はその期待に此れまでも幾度となく応えて来たのである。
今の韓信が在るのは、蕭何のお陰と説明したのは、そのためであった。
こうして韓信は北方攻略責任者として、大いに貢献し、活躍して来たのであるから、項羽陣営にしてみれば、有能な人材の流出という事になるだろう。
異例の出世を遂げた感に見える韓信であるが、決してそんな事は無かったのだと、自らで証明したのだった。
地道に努力しながら、才能を開花させた韓信…その手腕はけして簡単に手に入れたものでは無く、彼の諦めない志と堪忍、地道な努力の賜物である。
これが『韓信の秘めたる矜持』だった。




