表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/88

猟犬と狐

さて、話を整理するためには、順を追って話を進めていかねば為らない。


当然の事ながら、田横の抜け駆けに依り、三方で一番始めに遭遇する破目になるのは、河下の両軍と為った。


田横軍と漢嬰軍である。


田横の目的は一か八か河下を最短距離で渡り切り、まずは対岸で橋頭堡(きょうとうほ)を確保する事である。


『水攻めが来る』


それは田横の(ひらめ)きに過ぎない。


けれども相手があの韓信である以上、何かやって来るに違いない。


それに何かやらなければ、3倍以上の兵力差を(くつがえ)す逆転の一手には届かないだろう。


現に韓信は趙国との戦いにおいても、背水の陣を敷いて、相手の意識を惹き付けておき、背後の城を占領する事で、敵の士気を(くじ)く策を取っている。


またその前の西魏との戦いにおいても、漢嬰に敵を惹き付けさせておき、太鼓や銅鑼を巧みに利用して兵力分散を悟られぬ様に工夫した上で、曹参や周勃に背後の城を襲わせて、占領させており、慌てた敵が城に意識を向けた途端に、漢嬰の渡岸を成功させて、(はさ)み討ちにしている。


まさに策士と謂うべきで在り、田横にも通ずるものが在った。


同じ空気間を共有出来る相手といった所か。


もし仮に彼らが同じ陳営に組していたならば、良き相談相手になれたであろう。


韓信は田横の見立てに依れば、寡兵(かへい)をものともしない戦術に長けているし、詐術を駆使した相手の意識を逸らす工夫での渡岸戦にも、十分な適応を示している。


つまりは相手の状況に応じた戦略を建てて、それを行使し、臨気応変に戦術を構築・変更出来る能力を持っていると言えた。


田横はだからこそ『韓信なら何か手を打って来る』と信じる事が出来たし、期待しているのだ。


そしてこの際、それを大いに利用してやろうと、考えているのだから、この男も一筋縄ではいかぬ策士なのである。


但し、韓信の仕掛け所が判らぬ以上、渡岸は田横にとっても大きな博打(ばくち)である。


運も伴わねば、5万の将兵を無事に渡岸させるのは、苦しいかも知れない。


田横が時間との勝負と踏んだのは、そういう意味合いが在った。


まさに"抜け駆け"に及んだ田横軍は、韓信の鼓舞に応えた漢嬰軍と、一触即発の状況に(おちい)る程に接近しており、遂に互いの先頭が鼻面(はなづら)を併せる瞬間がやって来る。


両軍共に先頭を切るのは田横であり、漢嬰である。


漢嬰は、いつもなら迷う事無く、咬み合う事を選ぶ。


一気呵成(いっきかせい)に相手の喉元(のどもと)に喰いつくだろう。


しかしながら、今回は『水攻めが来る』事が予め、判っており、相手の狙いと動きを宋中から助言された上で、罠に()める一翼も(にな)う訳だから、繊細(せんさい)な行動が求められた。


一方の田横も、『水攻め』と仮定するならば、漢嬰も接触を可能な限り避けるであろうから、大事には至らぬと踏んではいるが、万が一、龍且の様な阿呆(あほう)である場合の事も考慮に入れておかねばならない。


また可能性は、極めて低いものの、『水攻め』が無い場合の想定も予めして置く必要はあった。


互いにそんな思惑を胸に秘めながら、擦れ違う際に眼と眼が合う。


そして相手が狙い通りに、何事も無く通り過ぎてくれる様に願っていた。


田横軍は皆、田横を信じて着いて来てはいるが、そもそもは斉国各地から急ぎ集めた連中の寄せ集め部隊であり、田横という稀代の英傑(カリスマ)の存在に依って、心服し、従っているに過ぎない。


だから多少なりとも、それぞれで、心の持ち様には温度差があった。


さらに言えば、能力が在り、忠誠心篤い者達は、斉王・田広の元に極力残して、その他大勢をその手腕で(ぎょ)している田横である。


田横兵の中には、この道行きに不安を抱えている者も当然居たし、その心の有り様が、漢嬰軍と擦れ違う時に、いみじくも出たとしても不思議は無かろう。


実際、横目で不安気にチラチラと見る兵達が多く居たのである。


片や漢嬰兵の者達は、生粋の正規軍であり、長年、漢嬰と労苦を共にしているだけあって、粛々と従っており、統率も取れていた。


それに、此れから行う目的が、明確に伝えられているためか、只ひたすらに漢嬰の動きに集中し、その指示が発せられる(とき)を待っていた。


こうして、その(かも)し出す色合いの違う両軍は、何事も無く、互いに素通りして行く。


田横は、予定通り漢嬰軍が接触を避けて来たので、既に『水攻め』の罠が張られていた事には確信が在った。


そのため、(さら)に事を急がねば成らぬと感じていた。


但し、対岸に橋頭堡(きょうとうほ)を打ち立てるのを黙って眺めている程、漢軍も甘くは無いのも承知している。


態勢を整えて、迎撃の構えを敷いて来るだろうから、そこで生じる被害も想定して置かねばならない。


そして出来得る限り、その被害を最小限に(とど)める必要もあった。


漢嬰は田横軍と擦れ違い、一旦やり過ごすと、狼煙の合図を待つ事無く、宋中との約束通りに、小廻りに反転するや、今度は田横隊に沿う形で追いつくと、同じ方向に併行して戻り始めた。


当然ながら、田横軍の後衛の兵達はびっくりしているが、彼らも命が賭かっているので、そのまま先を急ぐ。


田横は当然、漢嬰軍も避難するため、どこかで反転する事は想定していたから、背後のざわめきを耳にしても動揺する事は無かった。


今はそれよりも、無事に対岸に着く事が再優先された。


こうして、田横と漢嬰が絶妙の駆け引きを演じていた頃、宋中も項襄と共に迎撃の陣の構築に余念が無かった。


項襄は、屈強の強者(つわもの)(ども)、特に胸板が厚く、腰がドッシリしていて、腕っぷしの強い連中を選抜すると、分厚い盾を持たせて、前衛に並べて、三重の陣形を敷いた。


宋中は、その後に弓矢部隊を在らん限りに敷き、弓の一斉射撃に備える。


弓矢部隊は隣接戦闘には弱いため、鉄壁の防衛は必要で、万が一、敵が弓矢隊に一矢(いっし)(むく)いる報復に出た場合に備えて、防衛の構えも必要と判断したためだった。


彼らは今か今かと迫り来る田横軍への対応準備を完了すると、その瞬間を緊張しながら待つ事になる。


この動きに併せる様に、季匠は秦軍自慢の連弩隊に重列陣を組ませる。


前列が射ち終わると、すぐに後列が射ち、その間に矢を補充した前列が次にまた射つ。


これで連射が可能となるのだ。


司馬信もその横で、火薬玉を仕込んだ重弩隊を配置している。


此方は余りにも無闇矢鱈(むやみやたら)と射ち(まく)ると、被害が甚大に為り過ぎるので、司馬信本人は、派手に撃つ事は避ける様に、黄金の騎士団には言い含めた。


「相手の士気を削ぐ程度にせよ!けして着弾させては成らない…必ず空中で弾く様に!」と…。


漢嬰は田横軍が対岸に着く瞬間を狙って、ちょっとした混乱を引き起こそうと、いきなり、幅寄せを敢行すると、動揺を誘う。


隊列の中腹に激しい体当たりを敢行された田横は、「チッ!」と呟くと、止む無くさらに河下側に逃げる様に進路を変えた。


漢嬰はそれを見てとると、「フッ」とほくそ笑みながら、田横とは此れでお別れよ!…と言わんばかりに進路をやや河上側に切り換え、ちょうど季左車軍の左手前にて(おか)に上がった。


田横軍は激しい当たりの反動から、河下側に舵取り変更を余儀無くされた分、軌道修正を必要としたので、漢嬰にやや遅れて(おか)に上がった田横と一部の将兵以外はまだ河の中で、バタバタしていた。


そこに凄じい投擲(とうてき)の音と共に、空高く舞い上がる十数個の黒い影が浮んだかと想うと、空中で拡散しながら、直角に落下して来る。


すると、着弾する前に激しく弾けて、炎の焼け()げた臭いと共に消滅した。


斉兵達は直接の損傷は無いものの、空中爆破に依る驚愕(きょうがく)から立ち直れないまま、尻餅をつく者が続出した。


そこに(さら)に追いうちをかける様に、二発目が放たれ、三発目が放たれたので、直接の損傷は全く受けていないのに、その凄じい破壊力から、大混乱に陥った。


田横も眼を見開いていたが、兵を落ち着かせようと懸命に声を掛ける。


「落ち着け!落ち着け!」と…。


しかしながら、一旦混乱に陥った軍団を立て直す事ほど容易成らざるものは無い。


そこに連弩の連射と、弓の一斉攻撃が待っていた様に降って来たなら、どうなるだろう?


容赦なく連射される弩は、当然当たった者に深手を負わせる。


当たり所が悪ければ即死である。


また雲ひとつ無い青空が、一瞬の内にどす黒く渦巻き変わる程の無数の矢が、逃げ惑う兵の頭上に、容赦無く突き刺さり、逃げ場さえも失わせた。


田横は、もはやポカ~ンと呆けていて、身動きすら出来ない。


彼の今までの常識では通用しない事が、突然目の前で起きていたのだから、然も在らんというべきか。


司馬信はもはや投擲の完了を指示しており、李匠の方を振り返ると、目配せした…。


李匠は此方(こちら)を眺めながら、コクりと頷く。


司馬信は「次は中央の背後に廻るぞ!」と黄金騎士団を引き連れると、とっとと移動を始めた。


李匠は「包囲せよ!」と叫ぶや、李良と共に配下を伴って、田横主従を囲い込む。


あの凄まじい威力の連弩を肩に担いで、狙いを定められているため、田横側は身動きが取れない。


(おか)に上がった彼らはまだ良い方で、河面(かわも)に取り残された大勢の兵達は、まだ『水攻め』も食わぬ前にほぼ戦闘不能に陥っていた。


宋中はさすがに第2派は発しないものの、いつでも狙える様に構えは解かずに、大きな声で話し掛けた。


「斉国の皆さん!勝負は決しました。諦めの悪い方はまだいらっしゃいますか?もし居るならまだ何度でも空をドス黒く染めて御覧に入れますよ♪貴殿方の頭上を矢の雨で覆う事は簡単ですが、果たして後、何回持ちこたえられますかね?運悪く亡くなった方は大変気の毒でしたが、此れはお互いの命を賭けた(いくさ)です!我々も必死でした。何しろ貴殿方の方が数は多いのですからね…文句は言わせません。知恵と団結力の差で、貴殿方は僅かに及ばなかっただけです♪今なら降伏は受け入れますが、如何しますか?自ら武装解除する方には命は保証しますので、とっとと河から出てらっしゃい。流されて死にたくなければね!此れは最後の警告ですから、聞き分けの無い方は、命を落とすでしょう…もう時間は待ってくれません…警告はしましたからね。後は貴殿方の問題です…」


宋中は悲しげにそう述べると、田横を見つめた。


その眼は降伏を促す様に訴えていた。


田横は諦めた様に大声で命じた。


「降伏せよ!此れは命令である。武装解除して直ぐに河を出るのだ!間も無く洪水が来る…」


そう命ずると、宋中を見つめた。


田横は動けぬ者をなるべく助けたいから、ひとときの自由を与えて欲しいと、切に訴えた。


「よかろう!お前を信用しよう♪」


そこには、いつの間にか漢嬰が戻って来ており、田横の瞳を見つめていた。


『この眼に嘘は無かろう…』


漢嬰はそう判断したのだ。


いずれにしても早く決断しないと、全てが水に流れる。


「感謝する…」


田横はそう礼を述べると、配下と共に河面に入っていった。


田横の命令により、動ける者は武器を捨てると、走る様に(おか)に上がって行く。


宋中や李匠は配下を指揮して、田横を手伝ってやり、可能な限りの斉兵達を救い出した。


漢嬰はこうして河下の決戦に終止符を打つ。


「宋中!後は任せる!」


漢嬰はそう告げると、騎馬隊を伴って、蹄を返すと、中央方面に転じて行った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ