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糞ったれ!!

(はなは)だ不本意な事では在るが、楚側にとっては想定外の出来事が起こって、混乱が生じていた。


何と…何の前触れも無く、田横軍が急遽動き始めて、堂々と抜け駆けに及んだのである。


山の頂の光の反射をまじまじと観ていた李心が、田横の抜け駆けを止むを得ず許したという話は先に述べた。


李心は敢えて田横を自由にしたのであるから、彼にもはや動揺は無い。


しかもわざわざ味方の動揺に備えて、けして動かぬ様にさえ、兵に言い含めているのだから、既に傍観者の如き落ち着きさえ、彼らには在った。


しかしながら、龍且は勿論の事、用心深い筈の周蘭にさえ、山の頂の合図は判らなかったのだから、彼らにしてみれば、なぜ急に田横が抜け駆けに及んだのかは全く以て判らなかった。


実はその位置関係にこそ、それは在った。


叡鞅の臥している山の頂は河上側にある。


そこから太陽の陽射しを反射させるには、太陽が西側にやや傾いて居なければならない。


韓信軍は既に昼前には配置を完了していた。


しかしながら、楚軍は田横の出撃の報を待っていたため、彭城を発した際、既に正午を(ゆう)に廻っており、ただでさえ大所帯の軍を濰水に移動させるには、時間を要した。


そのため現地に到着した時点ではまだ真上に在った太陽も、開戦の合図が来る頃にはやや西に傾きつつ在ったのである。


見方を変えれば、狼煙竹の到着にそれだけ時間を要したというべきかも知れない。


いずれにしても、ここは偶然の産物だったと言っておこう。


幾ら叡鞅でもそこまでは計算は出来ない。


此ればかりは相手も在る事なのだ。


しかも鏡の反射角など、幾らでも調節出来るのだし、要は太陽さえ出ていれば問題は無かった。


但し、この瞬間(タイミング)は楚側には不利(マイナス)に働く。


西陽(にしび)が射し込み、龍且や周蘭などは、その(まぶ)しさを避けるために、想わず顔に手を(かざ)した。


そのため、陽射しは元より、手が邪魔をして、山の手の光の反射などには気がつけなかったのだ。


それは一瞬の事で在り、気がついた李心でさえ、躊躇する程の刹那の出来事である。


龍且や周蘭が気がついた時には、田横軍は突出しており、濰水の河の中を走り出していた。


兵の動揺も半端無い。


「「「「オオォォ…」」」」


想わず、声が(こだま)してどよめいた。


「ブルルル…」「ヒッヒ~ン」


戦場の殺気なのか、はたまた怒号の(ごと)(うな)り声に反応したのかは判らぬが、馬も敏感にその(さま)を感じ取る様に(いなな)く。


兵は子供の様なものであり、一度騒ぎ始めると、統制が効くうちに静めないと、大混乱に陥る。


場合に依っては勝手に突出し始めてしまう事も有り得る。


特に馬と言うものは、乗り手の動揺に影響を受け易いので、手綱をしっかり抑えていないと危うい。


李心がいみじくも即座に兵に言い含めたのも理解出来るというものだった。


「勝手に開戦するとは…いったいどういう料簡(りょうけん)だ!」


龍且は頬を膨らませながら、赤鬼のように顔を真っ赤にして怒り狂っている。


今度顔を逢わせたら只ではおかないと、その表情が物語っていた。


周蘭は驚きの余り唖然(あぜん)としているが、すぐにハッと我に返ると、龍且を視る。


案の定、怒ってはいるものの、連られて突出はしていない。


周蘭はひとまず胸を撫で下ろすと、


「まだだぞ!そのまま…いつでも行くつもりで待機せよ!」


そう自軍を落ち着かせた。


龍且は軍団を舐めるように、ジロリと威圧して抑えている。


「それぞれにやり方は異なるが、さすがは百戦錬磨の方々だ。やるな!」


季心は感心するように眺めていた。


するとそこに、対面の岸から大きな掛け声が懸かり、中央軍を先頭に右軍、左軍とも、連動しながら、濰水の中を三方向から、突進し始めたではないか。


「「来たか!!」」


龍且も周蘭も馬上から、それを眺めていたが、急に「フッ」と龍且はほくそ笑むと、


「中央の韓信を狙い討つ!我に続け!!」


と号礼を掛けた。


「「「「ウオオォォ…」」」」


龍且将軍の、ここぞと謂う時の憤怒の如き雄叫びは、軍団全てを包み込む熱情と為って士気を最高潮に高める事が出来た、


その(たけ)り声を合図に、遂に龍且本軍も動き出す。


龍且は掛け声と共に、手綱を叩く様に押し出すと、自ら先頭を切って駆け始めた。


副官連中も兵を叱咤(しった)する。


「敵将自らお出ましだ!手柄首だぞ!行け行け!」


そう言って、次から次へと兵を送り出して行った。


龍且軍の突撃たるや壮観だ。


何しろ、10万に及ぶ軍勢が一斉に動き始めたのである。


「「「「ド駑ド駑ド駑ド駑ド駑ド」」」」


まさに山一個分が大移動しているが(ごと)(さま)である。


龍且を先頭に騎馬隊が前を行き、その後に歩兵がどんどん河の中に入って行く。


(すね)()かるくらいの流れであるから、歩行には全く支障は無いが、冬期の事ゆえ、それでも足は冷たいので、皆とにかく対岸を目指して死に物狂いで駆け抜けて行く。


周蘭は此方(こちら)側に引き付けて、囲い込む方が得策と考えないでも無かったが、龍且に却下された。


此方がその気で待っている所に、相手がのこのこ誘引(ゆういん)される訳が無いと言うのだ。


しかも、それでは無駄に(にら)み合いが続き、戦が長引く。


此方の利は圧倒的な数なのだから、勢いのまま突撃して踏み潰せば、一刻と相手は持たぬだろう。


後は、掃討戦になるから、日暮れまでには決着がつく。


何なら奴等を蹴散らした後に、そのまま斉国を占領して行っても良いと豪語した。


占領の話しは一先(ひとま)ず置くとしても、龍且の今回の決戦に向けた意気込みは(すさ)まじく、その精神も充実しており、眼は耀(かがや)きに満ちていた。


それでも、周蘭は『恐れながら…』と前置きをした上で、龍且の気持ちを逆撫でせぬ様に、その心の中に一滴(ひとしずく)の策を献じようと試みた。


此方が多勢の有利を生かして、兵を分けておき、予め対岸に()せて置く案を提案してみたのだ。


周蘭としては、龍且が独り善がりに動かぬ様に、停める役目は自分だと心得ていた。


そのため、決戦の時まで、あらゆる努力を積み重ねたが、結局それが実を結ぶ事は無かった。


案の定、周蘭の最後の策も、却下と為った。


「儂の事を一番良く知るお主が何を言う…」


自分は姑息な手段を取らずとも、堂々と相手を倒せると…。


けっきょくの所、項羽が気前良く20万もの軍を動員してくれた事が、却って仇となったかも知れない。


多少はあっても僅差の兵力ならば、龍且もまだ慎重になって、周蘭の具申に耳を傾けてくれたかも知れないのだ。


此の場合、圧倒的な兵力差が、龍且を安心させて、力で捻じ伏せる口実となった可能性が大であろう。


龍且との(せめ)ぎ合いに押し負けた周蘭ではあるが、彼とは長い付き合いであり、自軍だけ押し出さない訳には行かなかった。


そのため軍団長達に、いつも通り兵を統率させて送り出した。


周蘭は龍且の命令に応える形で、「()かれ!」と指示を下した。


対岸からは曹参軍が迫って来ており、応ずるならば今しか機会は無かった。


此れは以前にも述べた事であるが、(しょう)には単純に分けるならば、二通りのタイプがある。


自ら兵を鼓舞しながら、先頭を切って戦場を駆け巡る"武"に秀でたタイプと、自分はあくまで後ろに備えて采配をする"智"に秀でたタイプである。


前者は項羽や龍且であり、後者は項它や季心などで在ろうが、周蘭もどちらかと謂うと此方に属する。


ゆえに周蘭は先頭を切り、兵を統率する事が出来る信頼のおける軍団長を何人か抱えており、彼らに(あらかじ)め、智恵をつける事により、此れまでも戦って来た。


但し、今回は濰水という浅瀬では在るものの、河幅の広い難所を挟んでいるので、自らも後衛を率いて、後ろ備えとして河に入るほか無かった。


漢軍の先頭を切る韓信は、颯爽(さっそう)と赤い外套(マント)(ひるがえ)しながら、突き進んでいる。


馬は前蹄(まえあし)で必死に水を()きながら、(みず)飛沫(しぶき)を上げているが、その表情には迷いの色は無く、(あたか)も韓信の手綱を信じて突き進んでいる様だった。


三方向からのぶつかり合いは通常ならば、河のド真ん中 (あた)りで、激しい攻防戦になる筈だ。


恐らく李心の側からは良く見えているだろうが、普通に考えれば、いの一番に出撃した田横軍が、漢嬰軍と既に激しくぶつかり合いながら、戦いを繰り広げていてもおかしくは無い。


しかしながら、真反対に位置する周蘭の軍からは、その有り様はよく判らないので、何とも判断は出来なかった。


それに、もはや濰水の波間に身を委ねた以上、目の前の敵に集中しなければ成らないので、そんな余裕も無い。


周蘭はひたすら集中力を高めながら、曹参軍を撃破するべく、顔を上げて前方を視るほか無かった。


ある意味、それは龍且も同様で在るが、彼の場合は周蘭と違って、両翼の事など(はな)から気にも留めていない。


目の前に接近して来る韓信の姿しか、その眼には写っていなかったのだ。


もうあと少しで()り結ぶ事が叶うと想った刹那(せつな)、それは起きた。


激しく「カーン!カーン!」と鳴り響く、鐘の音が聴こえたかと想うと、韓信は何の迷いも無く、小回りにクルリと反転するや、今度はとっとと逃げ始めたではないか…。


龍且はその瞬間!「糞ったれ!!」と叫ぶや、眼を(ひん)()く様に、(たけ)りながら、鬼の形相で、韓信の背中を追い始めた。


その時の龍且には、もはや全軍の将の気概は無く、まるで長年追い掛けていた仇敵(かたき)を、ここで遭ったが百年目とばかりに、ただひたすら狩る事にしか意識は無かった。


河上に(そび)える山の手からは、いつの間にか、毒々しい程、黄色い狼煙(のろし)が上がっており、

空に立ち登って行きながら、上空の風に(さら)われる様に、端からどんどん消えていった。


山の頂には既に叡鞅の姿は無く、狼煙竹だけが、ひとり遊びをするが(ごと)くに、(たな)()いていて、後はただひたすらにその(ほむら)が消えるのを待つのみであった。

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