我が道を行く
良く晴れた日だった。
空には細長い白い雲が途切れ途切れに流れているものの、一面の青空で、観ているだけで心が澄み渡る。
しかしながら、地上では此れから血生臭いやり取りが行われるのだ…。
李心は想わず吐息を尽いた。
『いかんいかん…』
彼は即座に、気を引き締めるや、改めて田横の背中に眼を戻す。
田横はどうやらゆっくりと我彼の状況を視野に入れながら、俯瞰する様に戦場全体を眺めている。
『さすがだな…巧く立ち回ろうという訳か。』
李心は周蘭から田横という人物の人となりを予めキツく言い含められているので、油断ならぬ輩と理解していた。
いつまでも厭戦気分でいる訳にもいかない。
そこで益々集中力を切らさぬよう自分に葉っぱをかけた。
するとちょうどその時に、田横が濰水の川上にある山の頂の方を指差しながら、副官に突如言い含める様な仕草をした。
李心も慌ててその指の方を見上げると、山の頂の上から光の光線の様なものが反射している。
彼は始めは何か金物に光が当たって反射しているのかと、想ったのだが、田横はそう観ていなかったらしく、軍全体に声を掛けると、躊躇なく真っ直ぐ濰水に向けて走り出したではないか?
李心はこのまま追うか、留まるか、突如として、その二択に迫られる事になり、躊躇してしまった。
と言うのも、その瞬間に周蘭将軍の言葉が頭を過ったからである。
『お前は独立遊軍で自由が効く…上柱国様を頼む…』
よくよく考えてみれば、田横にこのまま追い縋れば、田横の動きは逐一把握出来ようが、一旦渡岸してしまえば、上柱国様をお守りしながら撤退する事など叶わなくなる。
無論、まだ負ける戦と決まった訳では無く、数の論理でいけば、こちらに勝機はあるのだから、負けないならば、本陣が脅かされる事はまず無い。
ゆえにここは大将の事は気にせず、田横をそのまま追い掛ける方が利に叶った行動で在ろう。
しかしながら、独立遊軍の決め手は、中盤以降の流れを変える事にこそあるのも承知している。
だから、このまま田横軍に着いていって、その運命を共にするか、ここはまだ留まり、『その時』を待つかの判断に迫られたと謂える。
結果、李心は田横に自由を与える選択をした。
独立遊軍の将として、展開を見極める事に徹する事に決めたのである。
濰水が浅瀬の河と言えども、その河幅はとてつもなく広い。
先行する田横の部隊の動きを追うという事は、必然的に運命共同体になる。
田横の動きに依っては、共倒れとなる危険が伴うだろう。
それだけ河の中というのは、身動きが取りづらいものなのだ。
自分の頑固足る信念の元に行動するのならば、それも良いが、瞬間の判断を迫られた時に、彼にはその自信が無かった。
即時判断は、相手の動きに流されてしまう場合が多々有り、後々後悔してもその時には遅いのだ。
彼は抗えぬ誘惑に打ち勝ち、その場に踏み留まった。
自分に与えられた兵は自分に命を預けているのだから、自分の咄嗟の判断の過ちで無碍に死なせる訳にもいくまい。
そう決断して田横を自由にした。
いや結果として自由にしたというべきかも知れない。
その田横軍はみるみるうちに濰水の中に溶け込む様に見えなくなって行く。
すると、その動きとは別に相手の軍団も、三方向から一斉に突き進み始めたでは無いか…。
河幅が広いため、対岸の動きは見え辛いが、それでも豆粒ほどに見える軍が三つ間違いなく動き出した事には違いない。それは確かだった。
李心はそれを観た瞬間に、あの光線が敵の合図で在った事、それを田横がいち早く認めて、いの一番に動き出した事を知る。
『何て奴だ…周蘭殿の言う通り、ただ者ではない。』
李心はそれを間近に観ていて、その判断の速さと、実行力に、度肝を抜かれてしまっていた。
田横はかつて項羽の隙を突いて、占領されていた斉国を楚の手から取り戻した事があった。
『油断のならない輩…』
いみじくも項羽がそう評した男である。
現時点で、李心がそもそも対等に渡り合うには、相手が悪過ぎる。
しかも咄嗟の判断では、余りにも歩が悪く、気の毒というものである。
むしろ、その動きに惑わされる事無く、踏み留まった事にこそ、李心の中に芽生える才能の片鱗を感じさせた。
『仕方在るまい…しばし高みの見物とするか、そうだ!』
李心は突然閃くと、皆を見回して口をついた。
「我々はしばらく動かぬゆえ、そう心得よ!私が指示するまでは決して動いては成らぬ。転機が必ず訪れるから、皆も落ち着いて行動するのだ。そしていざとなったら、どんなに理解し難い命令であっても必ず私の指示通り、躊躇無く行動せよ!良いな!」
彼は異見は聴かぬという気概で皆にそう告げた。
『……』
さて、話を少し戻そう。
田横の動きに視点を映して話を進める事にする。
彼は李心が語っていた様に、戦場を俯瞰してのんびりと眺めていた。
田横は自身が前から想い描いている通りに、韓信という人物が軍神と呼ばれる程の男であるならば、必ず何か準備をした上で事に臨むと考えていた。
でなければ、そもそも6万~7万対25万の戦いである。
幾らだだっ広い河を挟んでの戦いとはいえ、平地戦での結末など誰もが理解出来るほどこちらに歩がある事は、相手も承知している事だろう。
あの韓信がそんな事も弁えずに、そのまま向かって来るとは想えなかった。
『何かある…』
そう考えるのが自然だ。
楚側もそう観ているのではないかと、鎌をかけてみたものの、全くそんな事は考えている素振りも無い。
『こいつらは阿呆の集まりか?』
田横はそう想いほくそ笑んだ。
だが、龍且将軍の反応でそれは理解せずには要られない事も承知した。
『項羽といい、龍且といい、こ奴等は頭の中身も筋肉で出来ているのだ…』
それが彼の一種独特の発想であり、結論だった。
そもそも彼が危険を冒してまでも、彭城に赴き、楚を取り込んだのも、楚を引き入れておけば、圧倒的に自軍が有利になる事。また、その楚に大きな損害を与える事が出来るかも知れないと踏んだからである。
それは前にも述べた事であるが、なぜかと問われるならば、楚も斉にとってはつまる所、敵だからであった。
敵側の韓信はかなり出来る奴だと評判である。
ならばこの際、その韓信を利用して、楚に大損害を負わせておけば、恨みを晴らせるし、体制を建て直すのに時間が掛かろう。
一番良い結果は、韓信と楚が互いに喰い合い、共倒れとなってくれる事だが、そこまで巧く事が運ぶともなかなか想われないから、多少我々が後日有利に立ち回れる様に為ればめっけもの…そのくらいで在れば、あり得るだろうし、こちらも助かるというものだ。
田横の計算はそこまでは建っていた。
後は彼の計算以上に上手く事が運べば、これに優る幸運は無い。
そう踏んでいたので、韓信には何かやってくれなければ困る…という期待感を抱いていたのであった。
『いや…彼ならやるさ!』
田横は想う。
彼は韓信が趙国との戦いで見せたという手間暇をかけた作戦を調べあげていた。
何故か?
韓信軍は趙国戦でも河を挟んで、20万を越える相手と戦い、勝利していたからである。
その時にも、今と大して違いの無い戦力で勝利した筈である。
だからこそ今回も韓信に期待している。
そういう訳だった。
因みに趙国戦は、韓信の名前を大きく知らしめた一戦で『背水の陣』として有名である。
相手の趙国にはあくまでも平地戦と想わせておき、韓信は河を渡岸した後に船を焼き捨て、背水の陣を取る事で、敢えて逃げ道を無くし、味方の鼓舞をして究極まで士気を高めた。
覚悟を決めた信念の下、趙国の大軍と対峙したのだ。
ところが一方で、韓信はそんな素振りも見せずに、別動隊に趙国の本丸であった城を直接背後から襲わせたのだ。
幾ら大軍であっても、自分たちの城がいつの間にか掠め盗られて、漢軍の旗がたなびいたならば、浮き足立つ。
そうした上で、背水の陣で死に物狂いになった韓信軍の突撃を受ければ、浮き足立った趙軍は、もはや烏合の衆も同然だった。
韓信軍の圧勝と為った訳であるが、田横はその結末を知った時に、韓信という男に気味の悪さを感じて、戦慄を憶えたという事のようだった。
『今度も必ず逆転の秘策が在るに違いない…』
田横はそう判断して事に臨んでいたのだ。
だからこそ、濰水の傍に聳える山の頂から陽の光が反射した瞬間に、『やはり…』と自分の判断が正しかった事を確信したのである。
『此れは渡岸の速さが勝負を分けるに違いない…』
この場合の勝負の別れ目とは、連合軍にという意味では無い。
あくまでも斉国軍にとって…という意味合いであった。
光の反射を見た瞬間から彼の頭の中枢神経は、これまで経験をした事が無い程に素速く回転を始めて、どんな対応策が考えられるのかを相手の身になって計算し始めた。
そしてひとつの結論に達した。
間違っている可能性も在ったが、彼が出した咄嗟の結論は、『水攻め』だった。
という事は必ず間を置かずに、韓信軍の突撃が始まり、こちら側を河に誘い込む筈…阿呆の集まりである楚側は必ずやその罠に墜ちる。
そうなった時に、我々も巻き込まれては目も当てられぬ…。
(;^_^A『阿呆どもと一緒に見殺しになっては御免だ!』
田横の恐ろしさが究極まで発揮された結論だった。
彼は直ぐに副官に手短に状況を説明した。
此れは罠だ!水攻めが来るから、その前に渡岸してしまおうと!
副官はかなり驚き呆れたが、城を出る前にキツく田黄に言い含められた事であるから、厭とは言えない。
…細分漏らさす我の明確な指示に反応する事。一瞬の躊躇が全てを台無しにする所以、ゆめゆめ行動には支障をきたさぬ事…。
此れが重要である。
そう言って「判ったな!」と閣下は言った。
我々は「判りました!」とそれに応えた…。
副官は今まさにその命令が下ったのだと悟った。
だから各軍団長に直ぐ渡岸の指示を下した。
その瞬間には既に田横が先行していたので、皆、この号令に躊躇無く従ったのである。
田横には、斉軍が急に抜け駆けを果たせば、それに釣られた形で、楚軍も渡岸を始めるに違いないという計算も働いていた。
まず巻き込まれる事無く、渡岸する事。
対岸から突撃して来るで在ろう、漢嬰軍の横をいかに巧く抜けて、ぶつかり合わぬ様に擦り抜けるか…それが最も重要な事であった。
『我が道を行く』
田横の先手必勝の必死の抜け駆けである。
さて、この後の展開がどのように動くのかは、また次回…という事になる。




