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只ひとり対10万

項羽の軍団は彭城を発つと、ゆるゆると動き始めた。


怒涛の進撃と表現したい所であるが、さすがに母体が馬鹿でかい為、整然と隊列を組み、歩兵の速度も(かんが)みて進まねばならない。


但しのんびり歩いている訳でもなく、歩兵部隊は小走りに進んでいる。


それにやや遅れて兵站部隊が続き、工作隊は遅れを承知でついて行く。


この時代も、岩を跳ばす投石機などは城攻めには欠かせないため、やむを得無いだろう。


勿論、城の廻りを囲む軍に投石機が無い訳ではなく、既に四方に設置されているが、念には念を入れるという事らしい。


項羽は滎陽に兵糧がもう無い頃合いを量っていたのだから、ある意味ここらで最大限の圧力を掛けて、精神的に屈服させるのが主たる目的であった。


『劉邦と今日こそ決着をつける…』


項羽はその一心で今朝を迎えた。


無論、項羽にしてみれば、劉邦のみならず、韓信の勢力もけして見過ごせない力を持ちつつある事は認識しており、甘くは観ていない。


けれども、その軍団の構成は曹参(そうしん)漢嬰(かんえい)周勃(しゅうぼつ)といったほぼ劉邦の古参の集団が絡んでおり、劉邦が存命中なら一致団結するかも知れぬが、仮に劉邦が戦死し、それに乗じて韓信が独立でもしようものなら、離散するかまたは互いに相争い始めるだろう…との計算もあって、劉邦が兵糧を補充出来ず、弱り切った今をおいて他に此れ以上の機会は巡って来ないだろうとの認識を持っていた。


叩くならば今をおいて他に在るまい。


この認識は正しく、現実的であり、そのタイミングも絶妙と言えた。


項羽もけして力だけの馬鹿では無いという事だ。


その体躯、その咆哮、他を寄せ付けぬ武力に依って、圧倒的な力だけが注目され勝ちな項羽だが、この人には武辺者としての、機会を本能的に嗅ぎ分け、それを捉える能力は在ったといえる。


それが証拠に劉邦の兵糧は既に枯渇していたし、周囲も完全に包囲して逃げ道は完全に塞いでいたのだから、普通で在ればこの作戦は巧くいったろう。


但し、彼の本能が捕食者として特化された者であるならば、劉邦の本能は、被食者として特化された者で在ったと謂えるだろう。


項羽はまだ知らないが、今回は既に劉邦の被食者としての『逃げる力』がその機会を巧く捉えて、間一髪その危機を擦り抜けたのだった。


漢軍の強みは、この劉邦という人の求心力にこそあり、それが無ければ瓦解する程のカリスマ性を秘めていた事になる。


だからこそ項羽の狙いは正しい所にあるし、劉邦もそれが判っているから、一身に逃げ出すという構図を想像出来れば、この二人が何故(なにゆえ)必死に絡み合うのかが、判るというものだ。


そして項羽の陣営も、項羽がいるからこその項羽軍であり、項羽が死んでしまえば瓦解しよう。


こちらも圧倒的なカリスマ性を持つ稀代の化け物で在った。


但し劉邦と違って、項羽を倒すのはかなり難しい…まともにやれば倒されるのはこちらの方だ。


まずは項羽の軍団の数を()がなければならないし、彼の周りを固める輩を()がさなければならない。


項羽は虎である。


しかも限り無く獰猛(どうもう)な虎だ。


こいつを倒すには、ひとりにした上で、大勢が死に物狂いで一斉に掛からねば無理だろう。


そのためには、権謀術数の限りを尽くして、そういう状況を人為的に作り出さなければならないだろう。


遠くから矢で狙い打ちしたら死ぬかも知れない劉邦を殺すのとは、訳が違うのである。


項羽はそれだけの立派な体躯を持っていたし、本人もそれを自覚しているので、常に先陣に立ち、味方をそのカリスマ性で(いざな)う。


武将には、常に陣頭指揮をする者と、後ろで控えて本陣で指揮する者との二通りのタイプがあるのだが、項羽は前者のタイプであり、劉邦は後者のタイプだったと謂えよう。


今回も項羽は御他聞に漏れず、軍団の先頭を行く。


その(まなこ)はジッと前方を睨み、遥か彼方の滎陽城を見据えていた。


一方、その頃魏豹はどうしていたかと言うと、食事を済ませて腹が満たされると、相も変わらず城壁の上から姿勢を低く保ったまま、代わる代わる四方を眺めていた。


そんな事をしても、眼下には楚兵が充満しており、蟻の這い出る隙間も無い事は判っているのだが、諦め切れない彼の心持ちが自然とそうさせるのである。


『いっそ…今のうちに開城した上で、降伏してしまおうか?』


そう想わないでもない。


どう考えても逃げられないのは自明の理だ。


しかしながら、『はいそうですか』と相手が素直に降伏を入れてくれるとも思えない理由が彼には在った。


(;^_^A…魏豹さんは項羽軍に一度ならず降伏してますし、その後裏切ってますからね…。何か似たような事をそう言えば劉邦にもやってましたな…。要するに彼は典型的な風見鶏君な訳ですよ…裏切り御免!て輩ですな。


本人もそれを痛い程、自覚してるから、降伏に素直に踏み切れない。


『今度捕まれば殺される…』


そう想っていた…いやそう想い込んでいたと言うべきかも知れない。


案外、さっさと「御免なさ~い(^^;」した方が寸なり認めて貰えたかも知れなかった。


ところが考えに考えた末に、彼は余計な事をしようと決意してしまう。


それが元君主としてのプライドなのか、ただ単に現実を受け入れられない心の有り様なのかは定かでは無かった。


単に時間稼ぎをして、1分1秒でも永く生きたかっただけかも知れなかった。


(とど)のつまりは彼の心の中では、もはや正常な判断が出来なくなっていたのだろう。


彼は何を想ったのか、すっかりやる気になってしまったのである。


通常の場合、時間稼ぎをする条件として考えられるのは、時間の経過と共に事態が急変する場合に限る。


例えば…救援がやって来るとか、仲裁をする者がやって来るとか、仕掛けが爆発するとか、天変地異が起きるとか…(^^;


この場合はどれも絶対に無いだろう。


或いは逃げ道があるなら、意趣返しに短時間だけ留まろうと考える者もいるかも知れないが、この場合はそれも無い。


(^-^;逃げ道は塞いでしまってあるからね…


つまり彼は特に何かを期待したり、求めたりしている訳でもなく、無意識に彷徨(さまよ)っていた。


そう言うべきかも知れない。


きっと変なスイッチが入ってしまったのだろう。


で無ければ、余計な事はしないだろうからね。


彼は途端に何かを閃いたらしく、フラッと立ち上がると、紀信将軍の自室として使っていた部屋に(おもむ)いた。


そして部屋中を狂った様に家捜しを始めた。


皆、着の身着のまま逃げているから、大抵の衣服や日用品などは起きっぱなしになっている。


その中から一着の軍服と兜を取り出すと、それに着替えて、自分の軍服をその上から羽織る。


兜はそのまま手に持って、再び移動を始めた。


今度はひたすら階段を降りて行くと、武器庫に到着する。


武器も最低限しか持って行けなかったせいか、それなりに残っているので、両手、両肩に弓と弓矢を持てるだけ持って、邪魔な兜は頭に被せると、そのまま城壁の上に持って上がった。


弓に弓矢をかけて、台の上に並べて行き、直ぐに射てる様にしておく。


そして被っていた兜は脱いで床に転がしておき、後は自分の短剣に毒を塗った。


恐らく自裁用なのだろうが、ここまで全く考えて動いている訳ではない。


何かに取り憑かれた様な雰囲気に見えた。


彼は朝食べた麦の鍋に改めて水を張り、薪を入れて火を点けると、煮立て始めた。


そこまで済ませると、後は諦めた様に座り込み動かなくなった。


果たして何をしようというのかハチャメチャに解らない…(^^;彼にしか理解出来ない行動であった。


いや…彼自身も理解しているのかさえもはや不明と言うべきだった。


項羽はそんな中、ようやく滎陽城に到着した。


包囲の責任を担う大司馬・曹咎(そうきゅう)が項羽を迎えた。


「特段…変化は御座いません。ここニ、三日漢軍は大人しいもので、多少の小競り合いの他は特に何も在りませぬ。但し、少々不思議な報告が上がっておりまして、余りにもつまらぬ事なので職務に精励するようにきつく言い含めてあります。」


項羽はその報告を聴くと、


「解った…交代しよう。此処は任せろ!お前は至急彭城に戻り、予定通り守備に徹せよ!」


そう言うと、肩をポンポンと叩いて送り出した。


曹咎は拝手して下がって行く。


すると彼を呼び止める者があった。


項荘である。


項羽は聞き流した様だが、項荘は慎重な男で、細かい点も見過ごさない。


戦場では特に生死を分ける理由になるからである。


「曹咎殿♪先程の不思議な報告とはどんな事だね?良かったら教えてくれぬか!」


曹咎はチラッと振り向くと、項荘が呼んでいるので無視も出来ず、(かしこ)まって報告をした。


「はっ!つまらぬ事でお耳汚しになるやも知れませぬが…昨夜の事なのです。我が包囲中の楚兵のひとりが突然騒ぎ始めまして…それを(たしな)めようと上官である前線指揮官の者が、問い詰めに近づいた所、急に逃げ出し始めたそうで、それを追い掛けた所、城壁の方へ逃げたらしいのです。上官は構わず追いかけたのですが、騒ぎに気がついた城方から矢を射掛けられたため、つまらぬ阿呆のために被害を出しては不味いと判断して、前線を下がらせ、兵を落ち着かせたそうなのですが、その阿呆の行方は未だに不明との報告で御座いました。ひょっとしたら敵方に捕らえられたか、殺されたのでしょうが、高々阿呆ひとりの命などいちいち構っていられませぬし、自業自得で御座ろう。依って不問と致しました。以上ですが…何か問題ありますでしょうか?」


確かに話を聞いてみれば、納得は行く。


その状況下での最低限の対応はした上で、兵の混乱も抑え込んだのであるから、文句のつけようは無かった。


但し、項荘は何か引っ掛かるものを感じており、少々心がざわめいているのだ。


と言うのも、昨晩彭城内で意図的に眠らされた守備兵が居たという報告を受けたのが項荘その人だったからである。


それも只の怠慢の様に見えなくもないので、叩き30回の罰を与えたが、1度に何人もの者が寝込み見張りを放棄するなど本来は在ってはならない。


各々単独での問題と捉えれば、確かに納得は行くが、そんな偶然に依る職務違反が立て続けに起こり得るものか?…項荘の引っ掛かる点はそこに在った。


『まさか連動しているのか?』


そう想わないでも無いが、彼はその直後にそれを否定した。


『考え過ぎだ…まさかそんな事は有り得ぬ。』


彭城で寝込みが多発した事で何が起こり得るかを考える時に、一番に疑わしいのは脱走か脱出だろう。


また昨夜騒ぎを起こす理由が城に接近する事だとするならば…だが、項荘はそこまで考えた時に、最も疑わしいのは『情報の漏洩か?』と一瞬感じたのだ。


しかし現実問題として、たかがひとりでそんな事をやろうとする輩が居るだろうか?…と考えた時に、余りにも無理があると判断したのである。


『戦の前で、気持ちが(たかぶ)り、少し疑いが過ぎるのやも知れぬ…』


そう思い直したのだった。


それに昨夜の寝込みの件も内々に軽い処罰で済ましたのも、戦の前で戦意低下を懸念しての事で、項羽に知らせぬ様にかなり気を配って対処したのだから、今さら自分で蒸し返してどうする?…そういう想いもあったかも知れなかった。


「解った…御苦労でした。彭城の守りを宜しくお願いします!」


項荘は曹咎を労うと、持ち場に戻った。


曹咎は『やれやれ…』といった呈で彭城に引き上げて行った。


項羽は戻って来た項荘に声を掛けた。


「どうしたのだ…何かあったか?」


「いえ…何も。杞憂だった様です!」


「そうか…では準備は良いな♪」


「ええ…いつでも!」


項荘はそう応えると、前を向いた。


彼らの面前には、無言の滎陽城が立ちはだかっている。

【後書き】


(^^;久方振りのユリウス・ケイです♪


皆様いつも御愛読有難う御座います。


久方振りとはいえ、文面の間に時々顔を出しては、ブツクサ呟いていたりしますが、此れは私の小説ならではの手法と捉えて頂ければ幸いに思います。


(^-^;けして出たがりな訳では無いのですがね…


最近この手法で頻繁に顔を出しているので、お気づきの事とは想います。


さて、私の小説の変わった点としては、只の歴史小説では無く、西夏国という完全に創作の産物を関与させている点にあります。


此れをメインにしても良いのですが、余りにも創造性が過ぎると、解り難いのでは無いか?…そう想い書き始めたのが、この韓信篇でした。


その中で割とサクサク書き進める予定が、かなり長丁場に為っており、話がなかなか先に進まない事にお気づきの諸氏もいらっしゃる事でしょう。


此れは私が途中で思いついたアイデアをその度に取り入れているからなのですが、その中でも歴史の光が当たらないけど、使ってみたら意外に面白くなるかも知れない地味な人物に焦点を当てたがる嫌いがあるからかも知れません。


今回で言うと、嫌われ者の魏豹さん♪て事になりますかね?


(^^;元々この人は簡単に始末されてお終いのキャラだったのですが、余りにも嫌われて見棄てられた時に、ついつい拾ってあげたくなってしまった訳です(笑)


最近、こんなんばっかでして、マイナーキャラほど光が当たり、話数が増えるという状況が続いています。


(^^;)元々自分が地味な人なので、『拾う』のが好きなのかも知れません。


他の小説では光の当たらない人の心の有り様をひとりの人間の生き様として、今後も書ければいいなと思っています。


なにぶん、まだ駆け出しな者で稚拙な表現も多々あるかも知れませんが、今後とも宜しくお願いします。


魏豹さんの結末に御期待下さい。

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