撤退の道中
さて、一方の劉邦たちはどうなったのか…此れも簡単に述べて置かねば為るまい。
彼らは1km半に及ぶ洞穴を無事に抜けると、ひとまず森の中を次々に抜けて行き、間道に出た所で合流すると、整然と並んで行く。そして部隊毎に整列が終わり次第、漢中に向けて撤退を始めた。
その撤退を劉邦を始め、陳平や紀信、樅公などはその場に待機しながら見送っている。
彼らは張良を此処で待つ意味合いもあるのだが、御史大夫の周苛が蕭何の派遣してくれた増援部隊から馬を調達して来るのを待って居るのだ。
そして周苛は増援部隊の長である夏候嬰と相談して、彼らが撤退し終わった後に、増援部隊組も静々と引き上げさせるための伝令役も担っている。
(^^;)もはや城に誰も居ないのだから、彼らの役目も此処までといった所で在ろう。
夏侯嬰は周苛の面会を受けると直ぐに、馬車を用意させた。
無論、馬も自軍より供出して揃えると、ひとまず副官にその場を任せて、周苛と共に劉邦の元へ馳せ参じた。
「陛下ご無事でしたか…心配しておりましたぞ。」
夏侯嬰は劉邦の顔を間近に見るとようやく安堵の表情をみせた。
「おぉ!夏侯嬰♪お主も無事で何よりじゃ…長きに渡り、陣を張って圧力を掛けてくれたお陰で何とか無事でおる。苦労を掛けたのぅ…それも間も無く終わりよ♪」
劉邦は信頼する夏侯嬰に再会出来て、此方も安堵している様だった。
「さぁ…何はともあれ早速馬車にお乗り下され!少しは寒さが和らぎましょう♪」
夏侯嬰はそう言うと、部下に指示して馬車を持って来させた。
馬車には劉邦を始め、太子と公主、そして家宰が乗り込んで行く。
そして馬には陳平を始め、紀信と樅公が跨がった。
その時、ようやく張良も合流を果たして、馬に跨がる。
劉邦は馬車から顔を出すと張良に労いの言葉を掛けた。
こうして皆揃って漢中に向けて撤退を始めたのである。
此れを受けて部隊に戻った夏侯嬰も増援部隊の撤退を指示して、楚兵に気づかれぬ様に静かに撤退を始めた。
漢軍は夜が白み始めた頃には、遥か彼方に去って、無事に漢中に引き上げる事になる。
全ては危険を省みず、一報をもたらしてくれた稟笥という命知らずの男がいたからであるが、後の歴史は伝える事は無い。
そして張良の叡知と陳平の暗躍、互いに切磋琢磨して来た実行力と和解に拠る連携力が相まって、ゆるゆると漢中に引き上げる事が出来た漢軍は、再び攻勢を盛り返す機会を得る事が可能と為ったのである。
『……』
さて、彼らが去りほぼ無人と化した滎陽城はどう為ったので在ろうか?
楚兵に気づかれる事の無い様に、松明や篝火はそのままになっているが、此れは時間と共に消えてしまう事だろう。
薪などを継ぎ足したりする者はもういない。
例え風で火が消えようとも、点け直す者も無い。
漢軍の赤や黄色の旗はまだ城壁に棚引いて居る。
そして良く観なければ判らないが、所々に案山子が軍服を着こんで、槍を持って立ってはいた。
そして城の中の扉には閉まらぬ様に全て歯止めが掛けられていて、時折、流れて来る廻廊を流れる風の悪戯で、戸がバタンバタンと閉じようとしては戻ったりしながら、音を出しており、それが外まで伝わるかは判らないが、人の蠢く生活感を醸し出す一躍を担っているのだった。
此れは元々庵に雌伏していた事のある、張良ならではの作戦である。
彼は皆が退去するにあたって、それを徹底させた。
何らかの音がする事に依って、人は必ず注意をせねばならない警戒心を持つのだ、という心理的な側面を見事に突いた手法なのだった。
滎陽城はこうして無人化された後も、時折奇妙な音をたてながら、絶えず活性化されている気配を残す事になる。
それが何処まで効を奏するのかは判らない。
ただ漢軍の無事な撤退には一役買った事は間違い無かった。
『……』
やがて東の空からは朝日が登って来て、辺り一面に陽が射す様になると、城を囲む兵たちも段々と起きて来て、皆寝惚け眼の中、交代で朝の身支度に入る。
そして朝飯の当番たちは、川から水を汲んで来て、大鍋に入れ、薪に火を入れて、水煙を立て始める。
本来で在れば、滎陽城の城手側も朝の支度をする時分であるから、水煙があちらこちらから立ち始めるのが普通であるが、当然の事ながらそんな事は起きようが無い。
(^^;)『誰も居ないからね…』
当初の陳平の『身代わり』策で在れば、それは回避出来たのであるが、さすがの張良もそこまでの擬態策は持ち合わせて居なかった。
そのためだけに誰かを犠牲にする事は出来ない。
それにそもそも皆で逃げ切る事が肝要なのであって、後に残された城は項羽に明け渡すつもりのトンズラだから、どうでも良かったのだ。
ところが此処に唯ひとり、どうでも良く無い男が居た。
そう…魏豹さんである(^^;…
彼はその日の朝は、すこぶる気持ち良く目が覚めた。
夜間に叩き起こされる事もなく、朝までスッキリ寝られたのは久方ぶりの事の様に感じていた。
(^^;)大抵寝てましたが…本人の感じ方と周りの人の感じ方が得てして違うのは、古今東西同じの様で…。
それはともかくとして、彼は目覚めると、食事を運ばせようと、配下の副官を呼んだが、全く返事が無い。
日頃あれほど文句を言っているのに、何足る態度だと、魏豹は腹を立てながら、何度も怒鳴り散らす様に声を掛けたが、うんとも寸とも応える事は無かった。
彼はせっかく朝の目覚めが良かったのが、途端に不意になった事に少なからず怒りが込み上げて来た。
(^^;)そらぁ皆嫌だったんでしょうな…要は彼は部下にも見捨てられた憐れな男だと未だ自覚が無いのです…さて、どうなる事やら。
彼は直ぐに部屋の扉を開けて、廻廊に飛び出すと、直ぐに目の前に何かが積んであって、その上にわざわざ竹簡が乗せてある。
魏豹はいったい何の冗談かと半信半疑ではあるものの、無造作にその書簡を手に取り、結び目をほどくと、カタカタと小気味良い音をさせながら読み進めていった。
そこには次の様に記されていたのである。
********************
魏豹殿
お目覚めになったかね?
おはよう(^.^)♪
良く眠っておいでだったから、さぞかし今朝は目覚めが良い事で在ろうな…熟睡出来るとは羨ましい限りだよ、堪能したかね?
此処でひとつ悪い知らせと良い知らせがある。
(´▽`*)どっちがお好みかは判らぬが、申し伝えておこう。
此れは今まで寝食を共にして来た我々の最低限の良心だと想ってくれてよい。
本来ならこんな助言もする気は無かったのだが、せめてもの贈る言葉だとお考え頂きたい。
では本題に入る。
我々は城方全員撤退済みである。
無論、我々にも人情はあるからして、お主を何度も起こして差し上げたが、貴方は起きなかった。
つまりこの有り様は全て貴方が望んだ結果という事に他ならない。
そこをよくお汲み取り頂きたい。
つまり貴方は今この城で唯一の人であり、鯔のつまりは、貴方は遂に自分の望みを達成されたのだ。
滎陽城の主にして自分の国の再興に成功したのだよ♪
おめでとう!見事に目標達成だな(´▽`)♪
もはや貴方に逆らう者は居ないし、貴方の好き勝手に出来よう…無論配下は誰も居ないがね、その代わり、貴方に反抗する者も居ない(笑)
此れが良き事だ。
次に悪い知らせだ。
貴方は当然ながら部下にも見捨てられた。
彼らには当然ながら、身の振り方は確認したが、皆我々に着いて来る事を選んだ…つまり貴方は見捨てられたのだ。
そこで我々も彼らの意志を尊重する事にしたと言う訳だ。
判ったかね?
此れは貴方自身の日頃の行いが招いた事なのだから、その事実をそのまま感受するしか在るまい。
誰も貴方に手を差しのべないとは気の毒な事だが、それが貴方の自業自得である事も明白だ。
唯、何も知らずに居るのも可哀想な気がして来てな…忙しい合間を縫って、わざわざ此れを書いている私の良心に感謝して貰おうか。
では貴方の知らない事実を伝える。
良く読んでおけ!
読まないと後で後悔するぞ…(´▽`)♪
本日昼頃になれば、恐らく項羽が自らやって来る。
城に人が居ないと判れば、あやつの事だ…大激怒しよう!
先ずは時間稼ぎの方法を教える。
朝に城方から水煙が上がらないのは不自然だろう。
城に人が居ないと判れば、直ぐに楚兵が雪崩れ込んで来よう。
それを阻止するには何本かでも水煙を上げておく必要はあるだろう。
まぁ此れも貴方が朝起きれたら…という縛りはあるだろうけどな(*^^*)♪
目覚めが良い事を願っているよ。
そしてその材料という訳でもないが、三食分だけ炊飯出来る様に麦を残しておく。
此れを使って3本水煙を上げるも良し、三食に分けて食べるも良しだが、果たして三食食べれる保証も無いがね…。
後は貴方の知恵次第だ。
助言はしたし、食も与えた。
此れは私の最後の情けである。
後は貴方が城主だからな…自分で考えてくれたまえ!
検討を祈る(o≧▽゜)o♪
陳平より
********************
(^^;「何だ…此れは何かの冗談か?」
魏豹はそう想ったものの、自分でも多少の自覚はあったものだから、急に心の中に衝撃が走った。
そこで無駄だとは少なからず想っていたものの、城の端から端まで走る様に捜してみたものの、陳平の記した通り、何処にも誰も居なかった…。
(゜Д゜≡゜Д゜)゛? …魏豹は慄然としてその場に呆けてしまって、ドサッと崩れ堕ちると、四股を床についてうなだれた。
今までこんなに後悔した事はない程…打ちのめされた。
もはや怒りを通り越して、身体が震えて来て居たのである。
大抵の場合、我儘で好き勝手に振る舞い、人に怒りをぶつける輩は芯が強くない。
本来的には弱い人なのである。
真に強い心の持ち主とは、優しくおおらかであって、その優しさで他人を包み込む事の出来る人の事をいう。
自己が確立しており、他人の痛みを自分に置き換えて考える事が出来るからである。
そういった意味では魏豹は弱い心の持ち主であったというべきで在ろう。
かつては戦国最強だった『魏』の君主の子として生まれて、サラブレッドの血を受け継いだ生粋の男は、時代が時代ならば、君主として振る舞えたであろうに、生きた時代が悪かったと言うべきであり、時代の流れに対応出来なかった最悪の例と言うべきであった。
それでも多少は君主の血が流れていた…と言うべきか、彼はうなだれている間にやらなければならない事を自覚した様に、やがて立ち上がると、素早く、そして静かに城壁に登って四方を確認した。
頭をそ~っと壁から突き出し、下を眺めると、楚の陣営からはたくさんの水煙が上がっている。
Σ(*゜д゜ノ)ノ『こりゃ大変だ!!』
魏豹はそう自覚すると、慌てて自室まで引き上げた。
気がせいて走りながらもいまいち身体がついて来ない。
何度かスッ転びながらも、自室の前まで辿り着くと、麦を抱えて、城壁に戻り、鍋に水を張ると、薪に火をつけて行く。
そして鍋があるだけ火をくべると、六つの鍋からやがて水煙が次々に上がり始めた。
その中のひとつに麦を全て放り込んで、炊飯する。
腹に何かを入れなければこの先持たないと意識のどこかで感じている咄嗟の行動であり、謂わば反射神経が為せる技であった。
ほかの鍋は水だけしか入っていないが、よくよく考えてみれば、それだけでも水煙は上がるので、結果オーライというべきだろう。
伊達に戦場で生きて来た訳では無いというべきかも知れない。
此れは彼にしては正解の行動で在っただろう。
その後、しばらくの間は楚側に怪しまれる事なく済んだのであるから、そのタイミングも絶妙であった。
但し、此処から先は本人で考えなければならないのだから、彼の資質に自分の命を賭ける事になる。
彼は煮立った麦をよそいながら、口に運んでいるが、特に何も此れといった名案は浮かばないのだった。
運命は全て項羽に委ねられる事になったのである。
【文節の訂正】
(^^;)大抵寝てましたが…本人の感じ方と周りの人の感じ方が得てして違うのは、古今東西同じの様で…。
✕周り人の
○周りの人の
『の』が抜けていたので追加。




