斉国広域戦
ー臨淄城・韓信陣営ー
韓信軍本隊(中央軍)は何と明け方には臨淄城に入場した。
時は少々遡るー
北方攻略軍は当初の予定通り、早めの夕飯を兵に摂らせると、斉国の各城の攻略に突入した。
斉国攻略に入る前の時点での韓信軍は約5万。
それに趙国の人心掌握を終えて合流して来た曹参揮下の軍1万と劉邦の軍師・張良の指令に基づき合流して来た客将・司馬信・李匠軍5千を合わせた総勢6万5千にまで達していた。
趙国攻略戦時には2万だった事を考えれば、その兵力は3倍にまで達していたのである。
韓信はその兵力を六軍に分割して、斉国を扇に見立てると、正に扇の軸に沿って、それぞれの軍が攻略を進めて行く方針を打ち出した。
攻略が済んだ軍団より随時、臨淄で落ち合う予定である。
軍団の陣容は以下の通りー。
第1軍団 中央軍 韓信・蒯通 20,000
第2軍団 左 軍 曹参 10,000
第3軍団 右 軍 漢嬰 10,000
第4軍団 後 軍 周勃 10,000
第5軍団 前 軍 李左車 10,000
第6軍団 後 軍 司馬信・李匠 5,000
韓信は当初、五軍にし、第6軍は第4軍に組み込む腹積もりをしていたのであるが、司馬信は張良から策を与えられて要るのでこれを無用として、単独攻略を買って出た。
張良の客将ではあるが、たかだか5千の兵で城攻略が可能なのかどうかと謂う議論はあったものの、周勃と曹参の格別の支持により、一軍を担う事になったのである。
実際には、明け方には韓信中央軍が臨淄城に入城出来た程、道中抵抗らしい抵抗を受ける事無く、占領が完了したのであるから、兵数の是非は余り関係が無いと謂えた。
特に突入口にあたる北方面一帯は、無駄な抵抗をする事無く、次々に白旗が掲げられた。
基よりこれは、斉王・田広の意向が早々に反映されていたからとも謂える。
それは扇の軸を進んで行くに連れて顕著になっていった。
臨淄周辺はもとより、西側一帯も限りなく空城に近い状態であるため、おそらくは皆、離脱が完了した後であり、攻め手側は、訪ね宛てるや悠々と入城し、占領が完了出来た。
但し、左軍を担った曹参軍と、その一翼を担う形になった周勃軍は、それぞれ筥城と即墨城で、多少足止めを食う形になった。
何しろ、この2城には各地から続々と民が集まって来ており、自衛していたからである。
しかもこの時点では両陣営共に城の外からしか中の様子を伺い知ることは出来ないため、果たしてどのくらいの規模の勢力が籠って要るかは判断する材料に欠けていた。
唯唯、城内から伝わる熱気に依って、かなりの兵力がそこに存在するくらいにしか、理解は及ばなかったと謂えよう。
鯔のつまりは、何の策も無く、何の躊躇いも無しに攻撃指令を出すのは命取りに成るのではないかと想わせるだけの雰囲気に満ちていたのである。
曹参も周勃も有能な将である事が却って足枷となり、依り慎重な対応に成らざる得無かった。
ある意味、春秋や戦国策など兵法を学ぶ上で、習熟して要る事がこの局面に置いては邪魔になり、正しい判断が出来なかったのだろう。
ここで判断を誤るとこの後の攻略にも響くのだから当然と謂えた。
例えば今、個々に功を焦ってガムシャラに攻撃を開始したとする。
それは見方に依れば、ごく僅かな小さな抵抗から、やがては大きな抵抗となって、大幅な時間を浪費する可能性を示唆して居た。
それはそうで在ろう。
無茶振りをするには、情報が無さ過ぎる。
おそらくは城内に籠る民も自分達の命を守る為ならば、死に物狂いで牙を剥くだろう。
正に『窮鼠、猫を噛む』というやつだ。
もし何の策も無く、手を出したならば、おそらくは攻めあぐね、或いは長期に渡る足止めを受ける原因となったで在ろう事は想像に難く無かった。
さらに謂えば、これは広域戦である。
ここでの失敗は必ずこの先の攻略にも影響を与える事になるのだ。
時間を喰うのはやむを得ないとしても、貴重な戦力を無為に失う訳にもいかなかった。
ところがである。
ここで周勃の先に掛けた保険が活きて来る。
『多少の足止めを食う形となった。』
そう先程、表現するに至った事情はソコにこそあった。
何と困り果てていた周勃の前にあの漢が颯爽と現れたのである。
それは、漢嬰の幕営以来の遭遇となった。
叡鞅その人で或る。




