籠の中の鳥
ー斉国南西・高密城ー
『では陛下段取り通りよろしく願います。行って参ります。』
斉国丞相・田黄は、斉王・田広にそう後事を託すと拝手して、高密城を後にした。
彼らは周勃や叡鞅の予想通り南下して、高密城に入った。
田黄は臨淄を出る前に三方面に伝令を発していた。
東側の対劉邦最前線には、完全に城を棄てて良いから、各城の兵を糾合しつつ、夜陰に紛れて南下し、高密城に合流せよ!と命じていた。
韓信軍に北側から攻め込まれた以上、項羽に封じ込められている東側の劉邦陣営に対する備えはもはや無駄でしかない。
そういう計算が素早く出来て、兵の糾合が得意な田黄ならではの決断である。
この方法は、項羽本隊に攻められた際にもかなり役立っていた。
削られても削られても、兵を補充するためには、斉国内・各地から微妙な均衡の基で兵を割き集める必要があったのである。
いわゆる人海戦術というやつだな。
そして西側の各城には筥城と即墨城はそのまま体制を維持して、各地から逃げて来た民が居たら収容・保護するように指示した。
この二城には、堅固な城郭と兵糧の備えが整っており、しばらくは持ちこたえられる。
燕の楽毅率いる合縦軍に最後まで立ち向かった気概がまだ民衆の間にも残っているため、抵抗心と日頃からの備えに対する気構えがあった。
田黄も鬼ではない。
民衆の事も多少は考えて置かねばならなかったのだ。
その代わりとして、西側各地にもこの二城以外には、東側同様の指示をして、兵の糾合を図る。
最後に北側方面だが、こちらは各城の判断で交戦或いは降伏を判断させる事にした。
どうせ現状援軍を送る事は出来ない。
援軍を送れる状態にあるなら、そもそも臨淄を放棄していない。
斉国は田広の父・田栄の時代に、項羽の侵略を受けており、田栄は戦死し、降伏兵は全て首をはねられて殺され、女子供達まで無意味なほど大量殺戮にあったため、元々体制が整った状態とは言えなかった。
現状田黄にもこれ以外に道は残されていなかったのである。
但し、北側にもまだ逃げられる時間が残されている城もあったため、現場の判断を優先させたという事であった。
韓信軍がほとんど無抵抗なままで、次々と城を攻略出来たのも必然であったと言える。
但しそれでも斉国には70余城もの城があるため、例え韓信軍が神懸かり的な速度で進軍しても、時は稼げたと言うべきだろう。
その間にチャチャっと兵を糾合し、交戦体制さえ整えば、まだ反撃に撃って出る可能性も構築出きる。
兵の糾合が得意な田黄ならではの計算がそこにはあった。
せっかく項羽が榮陽の劉邦と睨み合いをしている隙をついて、建て直し、復活した政権と斉国の奪還を簡単に放り出す訳にもいかない。
一見無謀な挑戦に見えなくもないが、まだ項羽と同盟さえ結べたなら、韓信や劉邦の勢力を一掃出来なくもない。
ゆえに無駄な抵抗は極力させずに、降伏させる事で、各地の民が命を損ねぬよう好きにさせた方が良いのだ。
韓信軍は無駄な殺生はしないでここまできている。
ゆえに進軍速度が速い。
事前の情報収集でそれが判っている田黄は、他力本願ではあるものの、そこに活路を見いだそうと考えていたのだ。
言わば乾坤一擲の最後のあがきなのであり、斉国の存続を賭けた国家総力戦と言うべきであった。
『後は項羽を何とか説得しなければな…。』
これが或る意味一番難しい課題と言えた。
甥の田広には、各地から集まる兵を受け入れて糾合させる手筈を任せてある。
田黄の試算だと『おそらく4万…、いや5万はいけるか?』との腹積もりだ。
『果たして項羽からどれだけの兵を引き出せるのか…。』
田黄は道中考えをまとめながら、値踏みしている。
ー彭城・宮殿内某所ー
彭城に到着した田黄御一行様は斉王・田広の使者として、西楚王・項羽に面会を求めた。
中から出て来た取次官は確認のため、荷や身体を殊更に念入りに調べ挙げると特に怪しい様子は見当たらないため、門の中に声を掛けた。
『かなり厳重な警戒だな…。』田黄はそう感じた。
すると宮殿からは案内人が慌てて出て来ると、丁重な礼をしてから『どうぞ!御案内致します。』と言って一行を中に入れてくれた。
そして長い廊下をしばらく歩くと、突き当たりのある部屋に通された。
中には温かい酒と料理が用意されている。
『これは?』と田黄が尋ねると、案内人は、
『夜半に長い距離を来られる御客人のために、我が主が用意させたものです。身体が冷えておられるでしょうから皆様で遠慮なくどうぞ…。その間に私は主人に来訪を伝えて参ります。』
そう言うと案内人は下がった。
『どうせだから遠慮なくいただこう。皆食べなさい。』
田黄は皆にそう奨めると、自分は中から書簡を出して、交渉前の最終確認に余念がない。
一行は臨淄でも余り良い物を食べていなかったせいか、豪勢な料理に驚き、夢中に舌鼓をうっている。
『しかしこのような馳走(料理)を我らのためにわざわざ用意して下さるとは、案外、項羽とはいい奴ではないか?』
田黄はそう感じながら、ふと『待てよ!』と閃いて、『お前達!待て!』と叫び、振り向くと、
何と皆次々とバタバタっとその場に倒れ込んでしまった。
『しまった!計られたか?』
そう思った時にはもはや手遅れだった。
いきなりガラガラドス~ンと、窓という窓の上からは格子が下りてきて閉ざされ、彼らは部屋の中に完全に封じ込められてしまった。
扉の外には見張りの楚兵がいつのまにか複数で警戒態勢をとっていて、田黄たちは、完全に捕獲されてしまった。
『しまった…。騙された…。』
そう思った時は後の祭りである。
田黄御一行様は完全に籠の中の鳥…で身動きが取れない。
憐れ田黄はのこのこ出向いて来たのに、自分で墓穴を掘ってしまったのである。
田黄はすぐ様、配下達の様子を確認して、飲み物や食べ物を調べると、わずかに微量だが、眠り薬が盛られているようだ。
田黄はひとまず命に別状が無い事にホッとしたものの、対抗策は思いつかない。
ただ今出来る事は相手の出方を観るしか無さそうだった。




