躊躇(ためら)い
老人はひとまず韓信主従の心を掴んだ事に満足感を覚えていた。
何を為すにしろ、相手がこちらの言葉に素直に耳を貸す姿勢が無ければ、その推進力は半減してしまうに違いないからである。
『少し強引なやり方ではあったが、彼等の懐に入る事は出来たようじゃのぅ…。』
相手がまず自分を信じる事。
それがなければ何事も始める事は出来ないからである。
『掴みはまず成功したようじゃが、ここからが本番じゃて…。』
相手にこちらを心底、信用させるためには、まず相手が求めている物を与えてやり、その原動力を最大限に発揮させるには、腹の底から納得させた上で、行動させる必要があったからである。
実際に復興の原動力と成るのは、大勢の労働力に他ならない。
そのためには、労働力となる大勢の者達に直接指示を与える者が、その本質を理解していなければならないし、その上の者はより深く理解を熟成していなければ、推進力は必ず停滞するだろうからだ。
『そのためには、まず将を得よか…。』
韓信を納得させること!それが叶えば8割方は成功と言えるかもしれない。
『さて…この御仁はかなり才能豊かな…軍事脳の持ち主らしいが、はて、どう切り出すべきかのぅ…。』
同じ話をするにしても、アプローチの仕方によっては相当に、相手の受け入れ方も変わって来ると言うものなのだ。
老人はこれ迄の経験上、その事はかなり実感していたので、少々思案していた。
『同じ武闘派でもかなり中身が違うようだ…』
実は、老人は項羽が咸陽に入った折に、今と同じで英雄と言われる男の姿を目の当たりにした事があったので、些細な言動が相手に与える影響というものに図らずも気づかざる得なかったのであった。
老人の言葉は項羽には響かなかった。
そればかりか命の危険すら感じる事になった。
『あの時は范増が居たから首がまだ繋がっておる…。』
范増とは項羽の師父であり、軍師である。
そして、老人とは昔馴染みで親しい間柄であった。
范増としては、自分が鳳鄒なら、彼の者は臥龍であり、両翼が成れば天下は思いのまま…と項羽に推挙したのであった。
だが…老人は項羽の怒りを買ってしまったために事は成らなかった。
自分の責任を痛感した范増は、項羽の怒りの矛先を巧く反らして、老人の命を救った…という訳なのであった。
その様な過去の苦い経験から、老人が思案していると、何とも良い具合に、韓信本人から助け舟を出して来たのであった。
韓信としては、今のこの良い雰囲気を壊す事なく、話の続きを実現したかった。
そのためには、この老師と二人だけで話し合いを持つ事が最善の道と判断したのであった。
韓信は、老師を自らの政務室に招き、和やかな雰囲気の中でゆっくりと寛ぎながら対峙する事を選んだのである。
これは図らずも老人にとっても願ってもない提案であった。
韓信は幕僚を一旦下げて、老師を伴い退出した。
ー宮殿内・政務室ー
韓信は政務室に戻るや上座に老師を座らせて、自分は再び膝立ちに座るや、頭を下げた。
『老師どうか非才の私にご教授をお願い致します。』
韓信はそう言って改めて拝手する。
老人は立ち上がり、韓信の手に自分の手を添えて立ち上がらせると、ニコニコ微笑みながら頷いた。
『王よ…頭をお上げ下され!不才の身では有りますが、必ず力に成りましょうぞ!』




