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一緒に獣の腹に入った男性が、元から腹にいた男性に「家へ」と指示をだすと、獣は音もなく駆けだしました。
すさまじいスピードで駆けていくのに、まったく獣の跳躍を感じさせない滑らかな走りです。
もともと獣の腹にいた男性は、一緒に獣の腹に入った男性より、だいぶん年上のようでした。
黒髪に、白いものが混ざり、目元には柔和そうなしわが刻まれています。
きっと熟練の御者なのでしょう。
御者に指示を出したということは、私が頼った男性は、やはりひとかどの人物のようです。
この獣がどのような生態なのかはわかりませんが、普通、馬のような乗り物を持っている人間は、その維持費が賄える富裕な方に限られます。
ましてや、御者を雇えるとなると、かなり富裕な方なのでしょう。
さすがタック様が「頼れ」とおっしゃった人物です。
裕福なお家の方なら、下働きをひとりくらい、増やしてくださるかもしれません。
私は、一緒に獣の腹に入った男性を「旦那さま」と呼ぶことに決めました。
これならたぶん、失礼はないはずです。
「ご主人さま」と呼ぶべきか逡巡しましたが、まだ雇ってくださるといわれたわけでもないのに「ご主人さま」などとおよびすれば、不快に思われるかもしれません。
前を見ると、全面がガラスになっているため、外の光景が見えました。
大きな建物、色とりどりの写実的な絵が飾られた壁、あちこちで光を放つ不思議な道具。
道行く人の服装は様々で、男性は旦那さまや御者の方と同じような服装をしていらっしゃる方が多いです。
シャツと、似た形の上着とズボン、首元にはひし形の紐というのが、こちらの男性の基本的な服装のようです。
女性は様々で、私が着ているのに似たシンプルなワンピースを着ている人もいます。
ただ裾は短い方が多く、ひざや、太ももまで出ている方さえいます。
私の着ている服は「ささげもの」としての礼装で、ふだん着ている巫女服とは違う上等の服です。
ですが、元の世界では、女性のスカートのすそが太ももの途中までというのは、たとえ貧しい暮らしをしていたとしても、考えられませんでした。
けれど、この世界では、そういう服装も普通なのでしょう。
誰も驚くことなく、そもそも多くの女性が同様の格好をしています。
そして、服の生地は色鮮やかで、くたびれた感じもありません。
髪飾りや首飾り、耳飾りや腕飾りといった宝飾品を身に着けていらっしゃる方も多いです。
だからきっと、彼女たちは貧しいがゆえ布地を節約しているというわけではないようです。
男性の基本形の服装によく似た格好の女性が膝が見えそうなスカートをはいているのも多く見られるので、春をひさぐ職業の方というわけでもなさそうです。
ほんとうに、ここは違う世界なのです……。
奇妙な獣や巨大な建物を見て感じた時とは違う、不思議な実感が胸にわきました。
人々は、なんて明るく、晴れ晴れとした顔をしているのでしょう。
それとも、元居た世界でも、私の知らないところでは、こんな顔をしている人がいたのでしょうか。
私は、そっと旦那様に目を向けました。
あまり不躾に見ては失礼ではないかと思いながらも、彼の動向が気になってしかたなかったのです。
旦那さまは、大柄な方なので、広々とした獣の腹の中でも、すこし窮屈そうでした。
黒いさらさらとした髪は短く整えられ、外を歩く人々よりも肌の色は浅黒いようです。
凛々しい眉と鋭い眼光は、旦那様が責任ある地位にいらっしゃる証のようです。
旦那様は、私のひそやかな視線に気づかず、胸元から小さな板のようなものを取り出しました。
あれは……!
さっき道行く人々が持っていた謎の道具です。
あの中に、小さな人が閉じ込められていたのです。
ひやりと背筋が冷たくなりました。
私は、獣の腹に座らされたとき、「安全のために」と獣の腹の中にある椅子に紐のようなものでくくりつけられたのです。
旦那様や御者さんも同じように紐で体を固定していたので、そういうものなのかと思っていました。
けれど、私は、もしかするとあの道具の中に閉じ込められるのでしょうか。
旦那様は、箱を指でちまちまとたたきました。
いつ自分が小さくなり、あの道具に吸い込まれるのか、怖くて仕方ありませんでした。
けれど私の体は小さくなることも、道具に吸い込まれることもありませんでした。
旦那様は、しばらく道具を触っていたかと思うと、それを胸元に戻しました。
「ここで、降りるよ」
旦那様がそういうと同時に、獣の腹が開きました。
獣は、いつの間にか停止していたようです。
旦那様はさっと獣の腹から出て、後ろをぐるりとまわりこみ、私が座っているほうへ歩いてきました。
……生きている。
すこしだけ、この獣の腹から出たら死んでしまうのではないかと不安だったのです。
私はほっとして、旦那様を見上げました。
「まいったな、酔った?」
酔う?
私は、お酒などいただいたことはありません。
「いいえ。酔っていません」
「ならなんで……、あぁ。シートベルトがわからないんだっけ」
旦那様は私のほうへ身をかがめ、「失礼するよ」と言いながら、腰のあたりに手を伸ばしました。
すると、私を獣の中に拘束していた紐が、びゅんと椅子に飲み込まれていきました。
「さ。出て」
手を指し伸ばされて、私は獣の腹から出ました。
足元がふるりと震えますが、私はまだ生きているようです。
「ここに、俺の家があるから。ついてきて」
旦那様は、目の前の大きな建物を示しました。
白くて、四角くて、頑丈そうな建物です。
ぽかんと見上げている私を、旦那様は苦笑して見ながら、「おいで」と再度促しました。
私は、あわてて旦那様を追いかけました。
けれど旦那様が一歩踏み出すと、目の前の巨大なガラスの扉が、触れてもいないのに左右に割れ、通り道を作ったのです……!
私は今日何度目かの悲鳴を飲み込み、私を観察するように見ている旦那様のほうへ、決然と歩みよりました。