クロウ + シラサギ = 灰かぶり
切り立った崖の上にそびえるその城は、鋭い尖塔が連なっていて、天に刃を突き付けているように見える。ただでさえ厳めしい外観を囲むのは、行くてを阻むかのように、棘のある曲がりくねった枝を伸ばす木々で、うっそうとした森は城と相まって、まがまがしい雰囲気を醸し出していた。
堅牢な城の入り口には、見上げるような大きくて頑丈な扉があり、上部に設えた狼の顔が、来るものを威嚇するように睨んでいる。負けずに見返す勇気があれば、狼の吊り上がった赤い目が、来訪者に合わせて動くのが分かり、観察されていることを知るだろう。
だがこの扉はあって無いような物で、怪し気な城の住人は、自由に壁を抜けるどころか、空を飛び、悪業のエネルギーを求めて人間界と地底界を行き来する。
アジア地域を縄張りとするコーグレ一族の城は、日本付近の異空間に構えられ、魔王と二人の息子、そして彼らに仕える使役たちが住んでいて、場所柄、彼らは日本名を名乗っていた。
一族の長は影魔・コーグレといい、2mを超す巨体に見合わないすっきりと整った顔立ちをしている。それを引き継いだ長男の深影は言うまでもなく、まだ幼い次男の蒼夜にもその片鱗が覗き、魔族の中ではたいそう美形な一族として有名だった。
悪魔は人の心を堕落させるというが、その噂が本当なら、魔王と深影は持って生まれた麗しい顔で人間に迫り、相手に抗う気持ちを起こさせる間もなく、難なく堕とすことが可能だろう。
だが、執務室で顔をつき合わせた二人の話題は、人間への悪だくみではなく、コーグレ一族の縄張りに飛び込んできた天使についてのことだった。
話し合う二人の頭上には、真鍮の大きな輪が連なるシャンデリアがあり、蝋燭の代わりに尻尾に火を灯した火ネズミたちが、前を走る仲間の尻尾の火を大きくしようと、口から火を吐きながら、枠の上をぐるぐる回っている。
ゆらゆら揺れるシャンデリアの炎が、うす暗い部屋の陰影を、伸びたり縮めたりして、不気味さをつのらせる中、執務室に向かって廊下を走ってくる足音が近づいてきて、石壁に大きく反響した。
「ぼっちゃまお待ちください。魔王様と殿下はお話中でございます」
執事のスケルトンが、袖から骨の腕を伸ばして、魔王の末っ子の蒼夜を捕まえようとするが、寸での所で間に合わず、大扉が乱暴に開けられた。
「なぁ、お父ちゃん、お外で遊んできていいか?」
「蒼夜、また人間界に行くのではなかろうな?兄の深影を見習って、きちんと魔界の勉強をせぬか。深影が十歳のころはもう変身できたぞ」
「俺だってできるよ。ほら見てみ」
薄暗い城内のだだっぴろい広間の中央に、ボンっと一瞬、閃光と煙があがり、一羽のカラスが羽ばたいた。
「カァ~~~~(んじゃ、ちょっと行ってくる)」
「おい!蒼夜、待たぬか!もっとましなものに変身できるようになってから行け!それでは下級の魔物にだって捕らえられるぞ」
大地を揺さぶるような魔王の怒鳴り声もものともせず、崖にそそり立つ不気味な城から飛び立てば、グニャグニャ曲がりくねる枝が蔓延った森は、蒼夜の眼下へと押しやられ、黒い影絵のように遠のいていった。
城の外には、地底界と人間界との間に設けられた異空間の空が横たわっていて、二つの世界が交わらないようにするための結界の役割も果たしている。窓際に立ち、空を見上げていた兄の深影は、結界を抜け出る渦巻き状の雲の中へ、あっと言う間に消えていったカラスを見て苦笑した。
「全く、蒼夜には困ったものだ。父上、私が蒼夜を連れ戻して参ります」
「うむ、頼むぞ、深影。先ほど話に上った天使は、昇格試験を受けている最中らしい。天界の小道具で人間の望を叶え、神から進級の判定を受けるそうだ。鉢合わせて、蒼夜を諍いに巻き込ませぬよう注意せよ」
「御意。では行ってまいります」
言い終わらぬうちに、ボンと炎と煙に包まれた深影が、一瞬のうちに鷹に変わり、窓から外へと飛び出していった。
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「おっ、あれなんだ?」
都市郊外にある住宅街の窓の中、きらりと反射した光に魅せられて、カラスの蒼夜は門柱に「新出」と表札がある戸建ての庭木に降り立った。
何が光ったのか知るために覗き込めば、一階には広いリビングと洋室があり、洋室の窓際に置かれたベッドに、痩せた女性が横たわっているのが見える。その女性の娘と思われる女の子が、ベッドの傍らに跪き、身を乗り出して、母から何かを受け取っていた。
「ああ、あれが光ったんだな。クリスタルの小瓶か?」
蒼夜はカラスに変身しているせいか、キラキラ光り輝く物が気になって仕方がない。
薬瓶にしては形も優雅で、光が反射する様子から、小瓶全体にカットが施されたかなり高価なものらしい。一体何が入っていて、どんなことに使うのだろうと不思議に思い、受け取り主に視線をやると、窓越しなのではっきりしないが、歳の頃は蒼夜と同じくらいの女の子で、目がくりっと大きくて、かわいらしい顔をしているようだ。
「あんな小さな女の子に、香水瓶を渡したりはしないよな?中身は一体なんだろう?」
木から窓の上の軒に飛び移り、首を下方に伸ばして部屋を覗き込んだ途端、右斜め後ろから風が吹き、蒼夜は危うくバランスを崩して屋根から落ちそうになった。
何とか踏み留まり、風を起こした原因が何かを知ろうと振り向けば、ちょうど真っ白なサギが蒼夜の横に着地するところで、先ほどの蒼夜と同じように、庇の上から首を下方に伸ばして、部屋を覗き込んだ。
「おい、サギ野郎!クリスタルの小瓶は俺が先に狙いをつけたんだからな。横からかっさらうなよ」
いきなりカラスに威嚇されたシラサギが驚き、ぐらついて屋根から脚が離れてしまう。真っ逆さまに落ちそうになったシラサギの尾羽を、蒼夜が慌てて咥え、屋根に引き上げた。
「危ねえな。お前、鳥なら羽ばたいてバランスとれよ。いきなり落ちるなんて、びっくりするだろ!」
「助けて下さって強縮なのですが、あの小瓶は僕のものなのです。僕は天真と言って……」
「しっ!何か人間の母親が喋ってる」
蒼夜に話を遮られて、シラサギの天真は口を閉じ、カラスと一緒に軒から首を伸ばして窓を覗き込む。部屋の中では、母親が少女の手の平にクリスタルの小瓶を載せた後、震える指先を少女の頬に伸ばし、慈しむように撫でながら、掠れる声で説明を始めた。
「怜良、これはあなたの願いを叶える小瓶なの。寿命を伸ばすとか、永遠の命などを願うことはできないけれど、大抵のことは本人の努力次第で叶うそうなの。あなたの願いを教えて」
「綺麗な小瓶ね。ママ。これどうしたの?」
「怜良、あなたのことを思って毎晩お祈りしたの。昨夜、天使が夢に現れて、この小瓶を託してくれたの」
なるほど天使の小瓶か。どうりで美しかったわけだと、納得するカラスの蒼夜を、隣にいるシラサギの天真がツンツンと羽で突っついてくる。邪魔をするなと蒼夜が睨みつけるが、天真は引きもせず、ぐんと反らした胸を羽で叩いてみせた。
「何だ?悪い物でも喰って胸やけでもしたのか?あとで叩いてやるから今は静かにしろ」
不満気な天真を放っておいて、蒼夜はまた窓を覗き込み、母親の言葉に耳を傾ける。
「願いを叶えるためには努力がいるけれど、叶えられたら、その効き目は一生続いて、あなたの力になってくれるらしいの。でも、努力もせず、願いが叶わないときには、願ったことの反対の状況になってしまうの。だから気を付けて、叶えたい夢を言ってちょうだい」
「魔法の小瓶?でも、ママの病気が治ってくれたら、私は何もいらないわ」
く~~っ。泣かせるじゃないか!あの怜良って子。何ていたい気なんだ!蒼夜は片方の羽を目に当てながら、なぁ、お前もそう思うだろ?と同意を求めるように天真の背中に、反対側の羽を回した。
「怜良、ママはもうすぐ眠りにつくの。早くあなたの願いを聞かせてちょうだい」
「ママ疲れたの?大丈夫?」
青白い顔をした母親は力なく首を振り、少女の腕に縋り付くようにして答えを促す。
「すぐには思いつかないけれど、う~ん……プリンセスになりたい」
「プリンセス?あなたはまだ十歳なのよ。叶わなかったら、この先大変な人生になるわ。もっと他には?」
「他って……急に言われても分からない。やっぱり、私、シンデレラみたいに、王子様と出会って幸せな結婚をしたいな」
怜良が言い切ると、突如小瓶が小刻みに揺れ始める。菱形の蓋が浮き上がってベッドの上に転がり落ち、瓶の口からはもうもうと煙が噴きあって、部屋中に立ち込めた。視界を塞いだ煙を引き裂くように、稲妻が瓶の口から飛び出し、枝分かれした閃光の一つが少女に伸びる。他の稲妻の切っ先は、光の銛となって窓を貫き、覗き込んでいた蒼夜と天真を襲い、三人の身体を電流のようにビリビリする感覚が走り抜けた。
「キャ~ッ‼」
「うわ~っ‼」
光から受けた衝撃で、蒼夜の身体が傾き、空中に放り出されたが、しびれる羽を何とかバタつかせて墜落を免れ、芝生の上に尻もちをつく。あまりにも驚いたせいで変身が解け、頭からは2本の角、尾てい骨からは細長い尻尾、背中からは黒い羽が出てしまった。
「ヤバい!」
見られたかもしれないと焦って蒼夜が振り返ると、その先に信じられないものを発見し、一瞬にして角も尻尾も翼も引っ込んでしまった。
「お、お前。天真とか言ったな?白い羽って……ひょっとして、天使って奴か?」
蒼夜同様に衝撃を受けた天真が、やはり同じように地を出していたことに気づき、慌てて背中の白い羽と頭上の輪っかを消して、人間の姿に戻った。
「あ、あなたは何です?さっき僕と同じ羽がありましたよね?でも黒い羽って……もしかして悪魔という方ですか?」
「うん、俺は悪魔の蒼夜だ。そうだ、さっき天使の小瓶とか言っていたな。あの女の子が願いを言った途端、煙を吐いたけれど、あれはお前の仕業か?」
蒼夜の質問に我に返った天真が立ち上がり、急いで窓に駆け寄った。
「どうしよう。大変なことになってしまいました」
子供らしいふくらとした指で震える口元を覆い、窓を覗いた天真が、どうしようを繰り返しながら、庭をせわしなく歩き始める。まだ芝生の上に座り込んでいた蒼夜が腕を伸ばし、むんずと天真の白いパンツを掴んで隣に座らせた。
「目の前でうろちょろされると、苛々するから座れ!一体どうしたんだ?」
「そ、それが……普通はすぐ叶えられるような願いを言われるんです。僕の役目はそれを叶える手伝いをして終わりなのですが、彼女の願いは王子と結婚してプリンセスになることです。それまで僕は運命の管理人として彼女の側で見守らなければなりません」
「ふ~ん。ご苦労なこった。あの子は十歳だから、結婚まで先は長いな。でも、お前は天使なんだから、俺と同じで永遠の時間があるんだろ?暇つぶしで付き合えばいいじゃないか」
「できれば、一緒に付き合ってもらえると嬉しいのですが……」
「はぁ?何言ってんだ?あれはお前の持ち物で、願いの管理人はお前の仕事だろ?」
眉根を寄せた蒼夜が、天真を胡乱な目つきで見ると、天真は蒼夜の両腕をがしっと掴んで頭を下げた。
「ごめんなさい。小瓶の定める運命の管理人は、普通持ち主一人なんですが、あなたが私の背に羽を回していたから、二人とも管理人に指定されてしまったのです」
「あっ?何だって?」
その時、突然上空が陰り、羽音と共に大きな鷹が舞い降りてきて、蒼夜と天真の前で鍛えられた体躯の背の高い男性に変わった。
「くそっ、間に合わなかったか!そこの天使、願いをやり直しさせる術はないのか?」
「失礼ですが、あなたはどなたですか?」
「私は蒼夜の兄だ。弟を迎えに来た」
「僕は天真といいます。残念ながら一度交わした約束は、彼女の結婚する相手が王子であるか否かの判定が下るまで有効です。管理人は彼女の近くで見守らなければならないので、僕はこの地上で暮らすことになります」
眉を八の字に下げ、困り果てた天真が蒼夜の方を、どうしたものかと振り返った。
「えっ?俺も?俺も地上で暮らすの?そんな……兄ちゃん、どうしよう?」
「何をたわけたことを!天真と言ったな?元はお前の昇格試験が原因だろうが!蒼夜は関係ないはずだ。管理人から外せ!」
「ご、ごめんなさい。僕にはどうにもできないんです」
「何だと!?方法がないというのか?……それで、管理人はただ見ているだけで良いのか?もし、願いが叶わなくても管理人に影響はないのか?どうなんだ?」
深影が答え次第ではただではおかないというように睨みつけると、天真はぶるぶる震えながら蒼夜の影に隠れ、それでも何とか説明を始めた。
「て、天使の小瓶は、無条件に願いを叶えるものではありません。願った本人が夢に向かって努力しなければいけないのです。そのサポートをするのが管理人で、成功の度合いで昇進が決まります。もし、何もしないで放っておいたなら、職務怠慢でバツを受け、天使の資格をはく奪されてしまいます」
天真の言葉にびくんと反応した蒼夜の頭から、にょきりと角が飛び出した。羽を出すのだけは何とか抑えたが、天真の腕を掴んで揺すりながら、蒼夜は勢い込んで尋ねた。
「お前、とんでもないことに巻き込みやがったな!願いが叶わなくても、サポートさえしていればおとがめはないんだな?」
「えっと、その……降格はありますが、天使の場合なので、悪魔のあなたにどんな影響があるかは分かりません。ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げた天真を後目に、深影は腕を組んでじっと考えていたが、やがて決心をしたように顔をあげた。
「仕方がない。何か方法が見つかるまで、蒼夜は手伝うふりをしながら地上で暮らすしかあるまい。父上と相談して、お前たちが人間に化けて生活するための環境を整えてやる」
結論は出たとばかりに、今にも鷹に変身しようとした深影を引き留めようとして、蒼夜が手を伸ばした時、上空が陰り、羽音が近づいた。蒼夜が上を見上げると、オオハクチョウが舞い降りてくる。
「今度は何だよ?」
今日は厄日だと投げやりに蒼夜がつぶやくと、オオハクチョウは光のベールに包まれたように発光し、そこにぼんやりと天使たちの映像が浮かび上がる。
どうやらそこは、天国の宮殿らしく、庭にある鏡の泉に集まった天使たちが、天使の昇格試験を受けている天真を覗いて大騒ぎをしていた。
『何をやっているんだ天真は!』
『悪魔と一緒に管理人をするなんて、とんでもない!』
『神様に知られる前に、大天使ミカエルに助けてもらおう』
小さな天使たちがおたおたとしながら羽ばたいた時、薙ぎ払うような突風が吹き、天使たちが悲鳴をあげながら顔を覆う。風が止み、恐る恐る腕を外した天使たちの前に現れたのは、燦然と光り輝く長老の男だった。
『この試験は無効じゃ!悪魔の所業に良心の呵責などないゆえ、まともな管理人になるとは思えぬ。天使の純度が落ちる前に、天真を即刻呼び戻せ!』
老人の言葉にムッとした蒼夜が、何だこのジジイと呟くのを聞いて、ぎょっとした天真がこの方は神様ですと小さな声で言うと、蒼夜はこんなのが?とでも言うように、口をへの字に曲げてフンと鼻を鳴らした。
『では、あの少女はどうなるんでしょうか?願いも無効になるのでしょうか?』
小さな天使の世話役のアンジェが、前に進み出て神の御前に膝まづいて尋ねる。
『一度願をかけたなら、それは審判の日まで有効じゃ。彼女が結婚する相手によって、彼女の運命が天のように光に満ちるか、はたまた地獄の闇でもがくかは彼女次第。途方もない願などかけた彼女が悪いのじゃ。成る様に任せ、天真には戻るように伝えなさい。管理人を放棄しても今回は降格はなしじゃ』
『天真は天使の中でも真面目な子です。放棄して少女が不幸になった場合、自分を責めるかもしれません。もし、天真が最後まで見届けると言ったら、どうなるのでしょうか?』
『いくらわしらが永遠の命を持つといえど、一人の人間に長きに渡って付き合えるほど暇ではないし、わしゃ面倒くさくて、そういうのは好かん。命令をきけぬなら羽をもぐ!と伝えなさい。人間として暮らすもよし、悪魔の家族に加えてもらうもよし、勝手にすればよい」
映像を見ていた天真がたじろぐ気配が伝わり、蒼夜がちらりと横眼で見ると、顔面が蒼白になっている。何ていい加減な神だ!と文句を言いたくなったが、続くアンジェの言葉に意識が画面に引き戻された。
「では、私に地上に下る御役目をお言いつけ下さい。悪魔が悪さを働かぬように監視するのと共に、天真の魂が汚れぬよう導きながら、あの少女の行く末をも見守ります」
神は一瞬目を眇めたが、天使が己の約束を反故するのに、悪魔が残って運命を見守る事態になっては天使の名折れになると踏んで、アンジェの同行を許可した。
「ただし、あの少女が本当にプリンスと結ばれ、プリンセスになった場合、悪魔の悪行は昇華し、本来持つ力を失うだろう。人間になるかもしれないことを天真に伝えておけ」
畏まりました¦と頭を下げたアンジェと天使たち一行の前で、また突風が吹き一瞬にして神の姿は消え去った。
それと同時に映像の光のヴェールが辺りに溶けていったが、身体に受けていた光が薄れても、顔色が元に戻らず、青白いのままの蒼夜が立ち尽くす。目の前に、オオハクチョウの変身を解いた金髪の美しい女性が現れて、天真を蒼夜から引き剥がした。
「私はアンジェ。世話をかけましたが、ここは私たちに任せて立ち去ってください」
「勝手なことを……もし、蒼夜が管理人を放棄したらどうなる?天使が放棄すれば降格で、悪魔の場合は『良心のない所業』によって昇格し、一気に魔王にでもなれるのか?」
悪魔を評した神の言葉を皮肉って、深影が憎々し気に吐き捨てたが、アンジェは聞こえなかったような涼しい顔で、蒼夜をちらりと見てから、深影に視線を戻す。
「天使の仕事を手伝ったって、あなたたちに良いことはありません。悪魔のままがお嫌ならお手伝い頂いて結構ですが……」
「な、なんだと!」
深影とアンジェがにらみ合った時、うわ~んと少女怜良の泣き声が上がった。
「ママ、ママ。目をあけて!誰か助けて!」
パタパタと足音がして、怜良が庭に飛び出してくる。御影とアンジェはすぐに姿を消したが、まだ未熟な蒼夜と天真はあたふたとしている間に、怜良に見つかってしまった。
普段なら不審人物として警戒されるだろうが、余裕のない少女は、目の前にいる蒼夜と天真の腕にすがった。
「ママが……ママが急に……お医者さんを呼んで。助けて」
蒼夜と天真は顔を見合わせて頷き、少女を連れて家に入る。ベッドの上を見ると、怜良の母は天使の小瓶を握り締めたまま、息をひきとっていた。
ママを助けてと泣きじゃくる怜良の目から、大粒の涙が零れ落ち、蒼夜は真実を告げることを躊躇い、答えを求めて横をみると、天真も首を振って蒼夜の言葉を止めている。
どうしたもんかと蒼夜が部屋を見回した時、四角い箱が目に入った。蒼夜は地底界で、いずれ人間と接する機会があるときに困らないように、人間の生活や言動などを少しずつ学習している。それが今回は役に立ったようだ。
「電話。そうだ、君のパパに電話で知らせるんだ。他に誰か面倒を見てくれる人はいないのか?」
蒼夜が聞くと、怜良が庭に面する道の向こう側に建つ古いアパートを指した。
「ママの従妹の美智子おばさんがあそこに住んでるの。今日は土曜だから、おばさんはパートでいないけど、真里菜ちゃんと明菜ちゃんはお留守番していると思う。でも二人とも小六と中一で、私より二、三歳年上なだけなの」
「子供同士じゃ意味ないな。お父さんはどこにいるか分かるか?」
「お父さんは、ここから車で三十分くらい行ったところの会社で働いているわ」
「分かった。君のお父さんに連絡するんだ。一応救急車も呼んだ方がいい」
蒼夜と天真には、怜良の母を病院に連れて行っても、助からないということは分かっていた。でも、怜良に悔いを残させないように、できるだけのことをしたと思わせてやりたい気持ちからアドバイスをした蒼夜に、天真は何も言わなかった。
蒼夜と天真には、怜良の母を病院に連れて行っても、助からないということは分かっていた。でも、怜良に悔いを残させないように、手を尽くしたと思わせてやりたい気持ちから口にした蒼夜のアドバイスに、天真は何も言わなかった。
怜良に電話をさせると、母親の状態を心配していた父親の浩史が、早退して家の近くまで来ているらしい。そのまま去ってもよかったが、電話口で不安を押し殺し、一生懸命に状況を説明する怜良を放っておけなくて、蒼夜は少女の薄い肩にそっと手を置いた。大きな目に涙を一杯ためて、蒼夜を見上げる怜良に胸が締め付けられ、何とか慰めたい気にかられて、救急車か怜良の父のどちらかが来るまで、話し相手になってやろうと思った。
最初、管理する人間に姿を見られて焦った天真も、かわいそうな怜良のために役立とうとして、母親の手から小瓶を外し、ベッドに転がった蓋を締めると、優しい微笑みを浮かべながら怜良に手渡した。
「これは怜良ちゃんのママが怜良ちゃんにプレゼントしたものだから、大切にもっていてくださいね。願いが叶った時に消えてしまうものだけど、怜良ちゃんが迷った時や困った時に、ママがお願いした天使に伝わって助けてくれるかもしれないから……」
「そうなの?困った時には天使が助けてくれるの?私は一人じゃないの?」
天真だけに良いところを持っていかれまいと、蒼夜が横から口を出す。
「天使だけじゃなくて、怜良ちゃんが悪い奴に絡まれたりしたら、悪魔もそいつらをやっつけて、怜良ちゃんを守るからな」
「そうなの?悪魔は悪者じゃなくて、ヒーローなの?」
「う~んと、いつもじゃないけど、怜良ちゃんは特別。天使と悪魔の味方がついてるから、心配せずにプリンセスになる努力をするんだぞ」
「うん、分かった。怜良は勉強もダンスも語学も頑張って、お姫様になる」
「その意気だ!」
蒼夜と天真が頷いた時、救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。ほぼ同時に、駐車場に車がとまり、怜良を呼ぶ男性の声が聞こえる。その声にパッと顔を輝かせた怜良が、お父さんと叫びながら玄関に駆け出したのを機に、蒼夜と天真はカラスとシラサギに変身して、窓から空へと飛び立った。
「なぁ、天真」
「何ですか?」
「怜良ちゃんって、かわいいな。お前と一緒に、見守ってもいいかな?」
「そ、それは……僕は心強いですけど、もし願いが叶ったら、蒼夜君にとっては、まずいんじゃないですか?悪魔でいられなくなりますよ」
「じゃあさ、願いが叶いそうだと分かった時点で、お前に全部任せて、俺だけずらかるのはどうだ?」
「そうですね。それならギリギリセーフになるかも……」
「お前変わってるな。天使だったら、俺が悪魔のままでいることを良く思わないんじゃないか?なのに人間になることを心配するなんて、ほんとおかしな奴」
「ほんとだ!そういえばそうですね。でも、どうして心配したんだろ?蒼夜君が聞いている悪魔と違って、優しいからかもしれません」
天真の言葉を聞いて、突然蒼夜が飛ぶスピードを落としたので、天真も急ブレーキをかけるために身体を起こして羽を風に対して垂直に立てる。空中で羽ばたいて一点に止まった天真に、突っつくような勢いで、蒼夜がけたたましく鳴きながら抗議した。
「はぁ?お前、悪魔が悪事を働くのは、人間が俺たちに頼んだことを叶えるためだって知ってるか?自分で悪だくみをしたくせに、危なくなると、悪魔にそそのかされたと嘘の言い訳をして、神に助けを求めるのも人間だ。そのせいで俺たちは悪者扱いにされるけどな」
「そうなんですか……知りませんでした。一方の話しを聞くだけでは、ずいぶん内容が歪められることもあるのですね。手助けした内容によっては納得できないこともありますが、どっちが正しいかなんて、その立場の見かたによって、ずいぶん意味合いが変わるものなのですね」
「何難しいことをごちゃごちゃ言ってるんだ。ほら行くぞ!」
「あっ、はい。……蒼夜君は、お兄さんやお父さんが好きですか?」
「ったり前よ!」
「ですよね?じゃあ、蒼夜君が悪魔でいられるよう、途中で必ず、管理人の役目を放り出すと約束してください」
「分かった。約束する。ぶっちするのは得意だから任せとけ!」
カラスとシラサギが笑うように鳴くのを見て、鷹の深影とオオハクチョウのアンジェが、屋根の上でため息をついた。
「あってはならない同盟が結ばれたな」
「そのようですね。二人は幼過ぎて、事の重大さが分かっていないのでしょう」
「だが、我々はそれぞれの稼業に徹して、弟たちが元の姿を失くさぬよう気を配らねばならない。こちらはこちらのやり方で弟を守るゆえ、そちらのルールに従えなくても悪く思うな」
「分かっております。今は仲間意識が生まれても、しょせん混じり合うことも適わない水と油の存在です。いずれ別れがくるまで、今少しの間、戯れを許してあげましょう」
「うむ、ではこれで……」
バサッと羽を広げ鷹が大空に舞い上がる。その後を追って、カラスとシラサギが、まるでじゃれ合うように、場所をくるくる変わりながら飛んで行く。
「悪魔とて、元は天使。問題を起こしていない悪魔を、憎めという方が難しいでしょうね」
憂いを込めた眼で三羽を見上げていたオオハクチョウが、後を追うように大きな翼を広げてバサリと羽ばたき空中に舞った。小さくなりつつある三羽の影に一羽が加わり、やがて空の彼方に消えていった。