気が付くと暗闇の中にいて
――暗い。
深い闇の中に、無数の青白い光が浮いている。
ごくん、と口内に残っていたコーヒーを飲み込んだ。
星もない。人家の灯りも見えない。
空を舞う蛍のような光は、数だけは多いが周囲を照らすにはあまりにも頼りなかった。
「え!? な、なんだ、これ……?」
不安を振り払おうと口にした言葉が、空しく闇に溶けていく。
そもそも、なぜ自分がこんな場所にいるのかすら分からない。
気が付けばこうして暗闇に立ち尽くしていたのだが、ここに至るまでの記憶は……職場の休憩所で遅い昼食を食べていた時に呼ばれて立ち上がったら眩暈がして……後は、思い出せない。
自分の手のひらさえ満足に見えない闇の中、恐る恐る両手を伸ばして、周囲を探ってみる。
近くに壁はない。足元は砂地のようだ。多少は風が吹いているから、屋外ではあるのだろう。
物音は……特には、聞こえない。
必死で五感を総動員しても、受け取れる情報はそれくらいだった。どこであるにせよ、明らかに職場やその近辺ではない。
「もしかして、死後の世界……とか?」
闇に向かって問いかけてみるが、答は返ってこなかった。
「はあ……」
ため息しか出てこない。
だが、あのまま倒れて死んでしまったというなら、それはそれで諦めもつく。
――我ながら、面白みのない人生だった。
他人と目を合わせられない。視線が怖い。幼い頃のトラウマに端を発する性分だ。
目を見て会話できないせいで対人関係に壁を作ってしまい、親しい友人もできず、両親を見送ってからは親戚とも疎遠だ。趣味といえばネット辞書を巡ることくらいだし、現世に心残りも薄い。
死んだのが職場ならすぐに誰かが気付くだろうし、アパートで孤独死して腐り果てるまで発見されないよりはましだろう。
江崎輝、享年三十歳。死因は過労。仕事中に倒れて意識を失い、救急搬送されるも、そのまま――
「……って、そんなわけないか」
脳をよぎった考えに首を振る。意識ははっきりしているし、心臓だってちゃんと動いている。これが死後の世界というなら、あまりにも生前と変わらない。
となると……考えにくいが、生きたまま闇の世界に飛ばされてしまったとみなすのが妥当だろうか。突拍子もないが、そうした物語は古今東西枚挙にいとまがない。
「これがゲームやマンガだったら、ステータス見えたりチート能力もらったりできそうなんだけど。神様とかいないか?」
一縷の望みを込めて呟いてみるが、反応は一切ない。もしこの世界に神様がいたとしても、チュートリアルをしてくれるほど親切ではないようだ。
「ふう……しかし、意外と慌てないもんだな……」
人間、あまりに異様な状況に置かれるとパニックを通り越して冷静になると聞いたことがあるが、まさに今の自分がそんな状況だった。
ただまあ、落ち着いていようといまいと、暗闇に放置されたこの状況は厳しすぎる。
はあ、と何度目かのため息をついて空を見上げる。
深い闇に舞う無数の光は、何かの映像で見たマリンスノーを思い出す。こんな状況でなかったらいつまでも見ていたいくらい、幻想的な光景だ。
「……よし! 切り替えていこう! 今が夜ならそのうち明るくなるさ」
大声に出して空元気を盛り上げる。
不幸中の幸いというか、暇さえあればネット辞書を読んでいたおかげで雑学にだけは自信がある。こんな時はサバイバル知識の出番だ。
「寒くも暑くもないから、そこは運がよかったと思っておくか」
足元こそ砂地だが、もし砂漠だとしたら夜には凍死するほど気温が下がっていてもおかしくはない。現状でそうなっていないということは、少なくとも昼夜の寒暖差はそれほど大きくないはずだ。
「そういやスマホがないなー……あったら懐中電灯にできたのにな」
ついさっきまでテーブルに置いたスマホを見ながら弁当を食べていたから、置き去りにしてしまったのだろう。現に、服はスーツのままだし割り箸は手に持ったままだ。自分に直接触れていたものだけが今ここにある、ということだろうか。
手を伸ばして、飛び交う小さな光に触れてみる。
何も感じない。蛍か何かかと思ったが、生物ではないようだ。
熱も重さもなく、せいぜい指先がちょっと明るくなるくらいの仄かな光。多少かき集めたとしても懐中電灯の代わりにはなりそうにない。
「……はぁ。もっと明るくならないかな……」
天を仰ぎながら、軽くぼやいた。
――その瞬間。
何の前触れもなく、朝が来た。
「なっ……!?」
そうとしか表現できない。
真っ暗だった世界が、一瞬にして光に満たされていた。
あまりにも唐突だ。闇に慣れた目には眩しすぎた。驚きながらも、瞬きをして少しずつ目を慣らしていく。
しばらくそうして落ち着いてみれば、ほどよい明るさだった。感覚的にはオフィス照明くらいだろうか。
だが……。
「……これは……何だ……?」
視界は開けた。
そして同時に、目に入ってきた世界に絶句した。
月面に似たモノクロームの大地が、全ての方向に広がっている。
どの方向にも果ては見えない。
地面の大半は真っ白な砂に覆われ、あちこちに顔を出す岩もまた、黒や灰色ばかりだ。
そして、何よりも異常なのは空だった。
いや。
空は、ない。
その代わりに――天井があった。