明日の月は......
月明かりが古びた洋館に射し込む。
普段は物音ひとつ聞こえない、寂しげな場所。
周りにそびえ立つ木々の笑い声だけがその場に響く。
──月が赤く輝く夜に、あの洋館には行ってはいけないよ
月が妖しく光る夜に、人形達に願ってはいけないよ──
赤い光が洋館の大広間に満ちたとき、そこにずらりと並べられた美しいオートマタ達の瞳が一瞬だけ、悲しげに瞳を揺らして光った。
これは夢か幻か。全てを嘲笑うかのようにぜんまいの音がギリギリと鳴る。
『ヨウコソ人形洋館ヘ』
そう発した人形の瞳からは、既に光が消えていた。
◆◆◆◆◆
「パパとママなんか、もう知らないっ!」
「待ちなさいっ!つぐみ!!」
つぐみと呼ばれた少女は母親の制止を振り切り、家のドアを開けて飛び出した。
手の中の五千円札をぎゅっと握りしめ、大粒の涙をぼろぼろと零しながら、ひたすらにつぐみは走り続ける。あてがある訳では無い。ただ、一刻も早くこの家から逃げたかったのだ。
(だって...だって約束したのに......)
母親は追ってきていない。つぐみはそのことに少しほっとしながら、入り組んだ道を進む。小学校の陸上クラブに入っているので走りには自信があった。
足を止めずに進み続けて、走り疲れた先に見えたのは、家から離れた場所にある人気のないバス停。いつもは無いはずのバスが止まっていることに一瞬疑問を覚えたが、とにかく遠くに行きたかったつぐみは勢いに任せてそのバスに飛び乗った。
発車したバスの中。他の乗客はいないようだ。ずっと走っていたためか、はたまた涙を流していたためか、うとうとし始めたつぐみは次第に深い夢の中に落ちていった。
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4月13日。今日はつぐみの10歳の誕生日だった。いつもは仕事で夜遅くにしか帰ってこない両親も、今日ばかりは早く帰ってくると約束してくれて、つぐみは込み上げた喜びを表すようにスキップをしながら小学校に行ったのだった。とにかく放課後が待ち遠しくて仕方がなかった。
しかし、いざ帰ってみると家に明かりは灯っておらず、テーブルの上には五千円札と帰りが遅くなるという趣旨のメモ。悲しみに飲み込まれそうなつぐみだったが『約束だよ』という両親の言葉が頭を過り、五千円でホールケーキを買って二人を待つことにした。
ケーキ屋さんに行こうと五千円札を握りしめ手をドアノブに掛けたとき、ガチャリという音がして、つぐみはぱっと顔をほころばせた。
『ママ!!おかえりなさい!』
母親が帰ってきてくれたのだと喜んだのも束の間。忙しそうに靴を脱ぎながら母親は言った。
『私は今からまた会社に行くから......。それよりつぐみ、ご飯は食べたの?宿題は?きちんとやっておきなさいね』
『また行っちゃうの...?ケーキくらい一緒に食べようよ......』
つぐみの悲しげな声に苛立ったように母親は続ける。
『もう!我儘言わないで。私とパパは忙しいのよ!!貴女にばかり構っていられないの!』
『......っ!!パパとママなんか、もう知らないっ!』
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「まもなく終点です」
まるで機械のような固く冷たい声につぐみは意識を引き戻された。ぐいっと大きく伸びをしてから重い体を起こす。
(目が腫れて痛い......)
腫れぼったくなった目をこすりながら辺りを見回してみる。窓の外はすっかり夕暮れに染まっており、青黒い空の中に僅かにオレンジが差していた。一見ありふれた景色だが、ずっと見つめ続けると吸い込まれそうな光を放っている。
──ぞっとする。まさにこの表現が当てはまるほど何故かその空は異質に思えた。
(私があんまりこの時間に外に出ないから?だから景色が変に見えるのかな......)
少し不安に思いながらも、つぐみはバスを降りようと席を立つ。運転席でお金を払おうとしたのだが、運転手はもうバスを降りてしまったのだろう、その姿はどこにも見当たらなかった。仕方がないので代金はバスに置いて降りよう、そう思って両替機に五千円を入れようとして気づく。このバスに両替機はないのだと。しかしつぐみは五千円札一枚しか持っていない。このままでは無一文になるか、無賃乗車になるかの二択だ。
「小銭に両替できないかな」
誰に言うでもなく小さく呟いてからバスを降りる。後できちんと戻ってくるのだからと、これは無賃乗車ではないのだと自分に言い聞かせながら。
バスを降りてすぐにつぐみは激しい既視感に襲われた。それもそのはず、何故ならそこは......。
「戻ってきてる......?」
そこは───つぐみが住んでいる町だったのだから。
どうやら寝ている間に元の町に戻ってきてしまっていたようだ。あんなに勢いよく飛び出したのにもかかわらず、すぐに帰ってきてしまった自分を恥ずかしく思いながらつぐみは歩き出した。
取り敢えず代金は支払わなければいけない。しかし家にはまだ帰りたくなかったので、近くのコンビニエンスストアでおにぎりでも買って小銭をつくろうと思ったのだ。
つぐみは、いつも足繁く通っている店舗を目指してこそこそと歩く。もし両親が自分のことを探しており、彼らに見つかってしまえば合わせる顔がないからだ。しばらく歩いてもそれらしき人物は現われなかったので、それも杞憂に終わりそうだが......。
いつもの曲がり角を曲がってすぐのところにお馴染みのコンビニエンスストアがあるはずだ。そう思ってつぐみは歩を進めていたのだが、目的地にそのコンビニエンスストアはなく、代わりにそびえ立っていたのは古くて大きな洋館であった。
「あれ...道間違えちゃった?こんなところで迷うはずないのに......」
洋館を見上げながらつぐみは独り言ちる。確かに此処はコンビニエンスストアだったはずだ。何故違う建物が建っているのか不思議に思いながらも、その洋館をまじまじと眺めた。古い割には庭の手入れも行き届いているように見える。建物は老朽化してしまっているが、誰かがきちんと管理しているようだ。
(私、この場所以外のコンビニは知らないんだけどなぁ...ちょっと遠いけど他のお店に行ってみよう......)
そう考えて他の店に行こうとつぐみが踵を返しかけたとき、屋敷の扉がぎしりと音を立て、奥から可愛らしい服に身を包んだ少女が現れた。服にこれでもかという程施されたフリルがとても良く似合う美少女なのだが、どこか不思議な空気を纏っている。
「あら、このお家になにか御用かしら?」
思いがけずその少女に声を掛けられたつぐみは、激しく動揺したものの、不審者ではないと必死で弁明しようと声を上げようとした。しかし、それは少女によって遮られてしまう。
「まあ!いけないわ、女の子がこんな時間にお外で一人きりだなんて......。貴女、もし宜しければ私のお家にいらっしゃらない?ひとつも 荷物を持っていないということは何か事情があるのでしょうね。だから、ひとまず美味しいお菓子と紅茶を飲んで、私にお話を聞かせてくださいな。近しい年齢の者同士、話しやすいこともあるでしょう?」
最初は呆気にとられていたが、少女に人の良さそうな笑顔で誘われて少し安心したつぐみは、言葉に甘えて屋敷に上がらせてもらうことにした。
どうぞ、と通されたのは応接室のようなところであった。洋館の古びた外観とは反対に、ロココ調の調度品でまとめられた品の良い部屋だ。
「どうぞ座って?ほら、このチョコレート美味しいわよ。紅茶はダージリンとアールグレイ、どちらがお好みかしら」
「えっと...おすすめで......」
「じゃあアールグレイのミルクティーを入れますわね」
「...ありがとう」
つぐみは言われるがままにソファーに座ると、緊張を誤魔化すようにきょろきょろと部屋を見回す。少し落ち着いてよく見ると、応接室だと思っていた部屋にはたくさんの人形が飾られていることに気がついた。西洋人形というには肌も髪の色も様々であったが、どの人形にも共通しているのは、この洋館の主であろう少女と似たフリルがたっぷりの服を着せられているということと、本物の人間と同じくらいの大きさで作られていることである。
「あの...お人形が好きなの?」
紅茶の香りに包まれながら、つぐみは恐る恐る少女に問いかける。沈黙が辛いので何か無難な会話はないかとずっと考えていたのだが、少女にはつぐみが学校で話すドラマやアイドルの話よりも、人形やドレスや紅茶の品種といった外国のお姫様みたいな話が似合うなと思っていたのだ。彼女が人形が好きなのかもしれないと知り、少しどきどきしながら少女を見やった。
「お人形......ああ!この部屋にいる子達のこと?この子達は私が作ったのですよ」
予想外の答えにつぐみは目を丸くした。自分とあまり年の離れていない少女がこんなに立派な人形を何体も作れるなんて。
「す...凄いね。じゃあお人形のドレスも作ったの?」
「ええ、私が着ているドレスも手作りなのです。そうだわ!後で貴女も着てみません?」
(見かけによらず押しが強い子だなぁ...)
つぐみは苦笑いを返したが、先程とは打って変わってきらきらとした瞳でそう提案してくる少女を見ると、本当に同じ年代の女の子なんだということが分かって安心する。今までは自分よりも随分大人びていると感じていたので尚更だった。
「ふふ、ありがとう。是非着せてもらおうかな」
一度気を許してしまえば話も弾むし、言いづらかったこともスラスラ出てくるようになる。つぐみは、ぽつりぽつりと少女に今日の出来事を話した。酷い言葉遣いに幻滅されないかと心配していたのだが、少女は驚いたような顔も見せず、静かに微笑んでつぐみを受け入れてくれた。
それから二人はミルクティーを飲みながら、たくさんの話をした。先程までの緊張が嘘のようにつぐみと少女は饒舌に語り合った。それは、つぐみの両親への悪態であったり、少女の人形の話であったり、好きなお菓子の話であったりと様々だったが、つぐみにとって少女と話す時間は今日の悲しみを吹き飛ばすほどに楽しいものになっていた。
気がつけば窓からの光は絶たれ、空は夕闇に染まりつつある。いつもなら絶対に家にいる時間。両親への怒りもだいぶ落ち着いてきていたつぐみは、だんだんと家が恋しくなっていた。
いつも帰りは遅いけれど、帰ってくると必ず頬にキスをしてくれるママ。
休みがとれた日には絶対に遊びに連れていってくれるパパ。
(あの子と話せてとても楽しかったし、そろそろ帰ろう。そしてパパとママにもきちんと謝ろうかな)
少女が話を聞いてくれたおかげで前向きになれたつぐみは彼女に暇を告げることにした。少女の家に上がってから1時間程経っていたので、そろそろ帰らなければならない時間だろう。
そう思って声をかけたのだが、少女からは意外な反応が返ってきたのだった。
「そんな......。私は全然大丈夫ですので、是非泊まっていってくださいな。それにドレスもまだ着れていないでしょう?可愛いナイトウェアも作ったの。お部屋はたくさんあるし、寂しかったら一緒に寝ればいいのよ!貴女のお父様やお母様のように貴女に悲しい思いはさせないわ」
そう引き止めてくれるのは嬉しかったが、やはり両親のことは気になる。つぐみはふるふると首を振ってから申し訳なさげに眉尻を下げた。
「ありがとう。でも私、パパとママに謝りに行かなきゃ。あなたとお話できてとっても楽しかったよ。今日は泊まれないけれど、また今度遊ぼうね」
つぐみの言葉を聞いた少女は一瞬瞳を濁らせたが、すぐに目を細めて微笑んだ。
「そう......それなら仕方がないわ。残念だけれど早く帰らないといけないんだものね。いいの、またすぐに会えるのなら寂しくなんてならないはずよ」
「うん、絶対すぐに会おうね。約束だよ!」
つぐみは少女に見送られながら洋館を後にした。
「あ。バスのお金......」
家に向かう途中、バス停を目にしたつぐみはバスの乗車料金を支払っていなかったことを思い出した。慌てて携帯電話をポケットから出してバス会社に連絡しようと指を動かす。きちんと事情を説明してお金を払えば警察沙汰にはならないはずだ。そう考えて、道端で立ち止まり電話をかけた。
『プルルルル......』
コール音が数回鳴った後、携帯電話の画面に砂嵐がザザザと音を立てて電話は切れた。それからどれだけ叩いても振ってみてもその携帯電話は真っ暗な画面のまま。この、何とも奇妙で不気味な状況に直面したつぐみはぶるりと震え上がった。あのバスを降りた時から感じていた違和感が増していく。
(いやいや、携帯電話が古くなって壊れちゃっただけだよね)
異質な空気と暗い空への不安を払拭すべく、そう自分に言い聞かせた。この言いようのない胸のざわめきは一体何なのだろう。つぐみはそわそわと辺りを警戒しながら帰路を急いだ。生ぬるい風が頬を撫ぜ、つぐみは泣きそうになりながら早足で歩く。
何かがおかしい。具体的に何かとは言えないが、異変を感じる。よくよく思えばあの洋館を出てからまだ誰にも会っていない。この時間なら、仕事終わりのサラリーマン達が歩いていてもおかしくないはずなのだ。友達のユメちゃんの家でお泊まり会をした時も、ユメちゃんパパはこの時間帯に帰ってきていた。
不安を拭いたくて、怖い気持ちを忘れたくて色々考えてみたのだが、それも逆効果にしかならなかったようだ。早くなる歩幅とは裏腹に、気持ちはどんどん焦り、落ち込んでいく。仕方がないので、何も考えずに家を目指すことだけに意識を注ぐことにした。
そうして足を進めていくと見慣れた光が目に入った。
「帰ってきてたんだ...!!」
両親への気まずさよりも家の灯りがついていたことへの安心感が勝った。やっぱりあの異質感は気のせいだった。だって、家にはパパやママがいるはずだもの。つぐみはふっと肩の力を抜いてドアノブに手をかけた。扉を開けるとそこには母親がいた。
「ママ......!ごめんなさい...私......」
気持ちが溢れて涙が止まらなくなる。親がいるという安心感とはなんと大きいものなのか、自分がいかに恵まれていたかを噛み締めながら言葉を絞り出した。......が、その全てを言い終える前に母親に遮られてしまった。
「お帰りなさい、つぐみ。お夕飯が出来ているから着替えていらっしゃい。今日はデザートのプリンもあるのよ」
つぐみは拍子抜けした。家を飛び出して門限もとっくに過ぎた時間に帰ってきたのだから、きっとすごい剣幕で怒られるだろうと覚悟していたのだ。しかし、母親は怒るでもなく問い詰めるでもなく、本当にいつも通りの対応であった。
(ママ...そんなに怒ってるのかな......)
つぐみは母親に申し訳ないと思いながらも、とりあえず着替えを済ませるべく、二階にある自分の部屋へと向かった。
ガチャリと部屋のドアを開けようとした、と同時につぐみは言いようのない不安に襲われた。安心できる我が家に帰ってきたのに。
それは、部屋の奥からいつもは感じることなんて無いはずの誰か、他人の気配がしたからであった。
(私の部屋に誰かいるの...?)
恐る恐るドアノブを捻る。
そこには─────
「......ん、ママ?ご飯が出来たの?」
「......っ!!」
振り返ったのは恐ろしい程につぐみに瓜二つな顔。二つに結っている髪の高さや、いつも付けているヘアゴムの飾り、着ている服まで全てが同じだった。
状況が理解出来ずに怯えるつぐみとは反対に、もう一人のつぐみ──彼女は一瞬引き攣ったような顔を浮かべたが直ぐに安堵した表情に変え、声を上げた。
「ママー!私の部屋に人間がいるの!汚いから早く処分してっ!」
『人間がいる』『処分して』全く言葉の意味が分からず、つぐみは混乱することしか出来なかった。
が、ただ一つ、ここにいては危険だということは分かった。
(に、逃げなきゃ!!)
そう思うが早いか、つぐみは階段を駆け下りた。急いで何処かに逃げなければ。恐怖と不安でどうにかなりそうだったが、逃げられる場所がどこかに無いか必死で考えて走った。
「あら、これは新品じゃなかったのね。良かったわぁ、今から廃品収集車を呼ぶと時間がかかるもの」
またもやつぐみには理解し難いことを言いながら、母親とそっくりな風貌だが母親ではないであろう女がつぐみの腕を強く掴んだ。ギリギリと締め上げるその手はやはり、優しく頭を撫でてくれる母親のそれではなかった。
「やだっ!離して!!」
つぐみは慌ててその恐ろしい手を振りほどこうと藻掻いた。掴まれていない方の手で奮闘するが、ビクともしない。
「きゃあ痛い!何をするの!?」
ガブリと腕に噛み付いて手を振りほどいたつぐみは、急いで玄関の扉を開けて外に飛び出した。
(どこか隠れられるところを探さないと...!)
しんと静まり返った住宅街を駆け抜ける。
この恐怖から逃げられるように。夢なら早く覚めてほしいと願いながら。
そんな願いも虚しく、後ろからパタパタと二人分の足音が聞こえた。どうやらあの二人が追ってきているようだ。
(怖い怖い怖い...!パパ、ママ助けて!!)
悪夢のような時間から逃れたくて、つぐみ必死に走り続けた。
どこかこの世界で安心できる場所はないのだろうか。
「あっ!!」
つぐみの目の前に現れたのは古びた洋館。そう、フリルのドレスを身に纏った少女と出会ったあの場所である。
「開けてっ!あの...お願いします、助けて下さい!!」
まさに藁にもすがる思いだったつぐみは、いつもは出さないような大声で、あの少女を呼んだ。
(泊まっていってっていう誘いを断っちゃった私を助けてくれるかな?)
一抹の不安が過ぎったが、あの優しい少女なら受け入れてくれるだろうとつぐみは考えを改めた。
「あら!つぐみちゃん......!どうしたんですの?やっぱりお泊まりしたくなったとか?」
ぱあっと嬉しそうに微笑むその少女につられてつぐみも笑いそうになるが、それどころではなかったことを思い出す。
「ごめんなさい!それどころじゃないの!お願い!助けて欲しいの!!」
狼狽して、支離滅裂になりながらも大体の事情を説明し終えたつぐみに少女はにこりと微笑んだ。
「もちろんよ。こちらへいらっしゃい?」
ドンドンドン!と叩かれ始めた扉に「もう、煩いわね」と呟いて鍵をかけた少女は、つぐみを奥の部屋へ案内してくれた。
軋んだ音をたてて開かれた大きな扉の先には、夕方訪れた部屋よりもたくさんの、等身大の人形達が並んでいた。先程恐ろしい思いをしたせいか、その人形達は妙に生々しく、不気味なものに感じる。
(だめだめ、これはあの子が作った大切なものなんだから)
不安を払拭しようと、そう自分に言い聞かせながら少女の後に続いて扉をくぐった。
「ねぇ、つぐみちゃん、人形劇はお好き?」
突然発せられた不可解な質問。
世間話でもするつもりなのだろうか、なんて思いながらつぐみは答える。
「人形劇かぁ......あんまり観ないけど...あ!小学校で観た白雪姫は面白かったよ!」
「白雪姫...たくさんの罪を犯してしまったお姫様ね。彼女を憎む魔女を生み出し、無責任に小人に願ったことでその命を滅ぼした...つぐみちゃん、人間って無責任だと思わない?」
そう言ってくるりと振り返った少女は、少し悲しげに見えた。
(なんの話をしようとしてるんだろう...)
全く話の意図が見えず、つぐみは疑問に思った。ただの世間話にしては難解すぎる、暗号のような会話の意味を探ろうとして、やめた。色々考えるのはもう疲れてしまった。やっと安心できたのだから、出来れば何も考えずにいたい。
「でも、それに比べてお人形は素敵だと思いません?彼らは決まった台本通りに話し、笑い、動くのですから。一人がしても意味が無いけれど、みんなでやれば素敵な世界が築けるでしょうね!」
少女は話し続けた。......やっぱり意味は分からなかったが、つぐみは何とか相槌を打ちながら聞いていた。
「安易に願ってはいけないのよ、みんな。自分の発言には責任を持たないと。そうしなければ、いつか取り返しのつかない結末になるかもしれないわ」
「......なにが、言いたいの?」
聞き役に徹するつもりだったが、遂に質問してしまった。今日はみんな、つぐみの知らないことばかり話す。つぐみはそれが少し、怖かったのだ。
「いらっしゃい。見せてあげる」
少女が指さす先には大きな本棚。どこに行くのだろうと疑問に思うつぐみの手を取り、少女はその本棚をぐいっと押し込んだ。
ギィィという音がして、本棚の先に部屋が見える。どうやら隠し扉があったようだ。
「こっちよ」
少女に手を取られたまま連れていかれたそこには────
「いやぁぁぁ!!」
そこには、粗末な服を着てぐったりと項垂れている見覚えのある人達がいたのだ。
友達のユメちゃん、サクラちゃん、2軒隣のヤマトくん。そしてその両親達も。その人達の中にはつぐみの父親もいた。
「パパ…!?」
声を上げたつぐみに、少女はにっこりと笑い話し始めた。
「貴女の街は最近作り始めたの。だから『優しいパパ』がまだいなかったでしょう?代役として貴女のお人形を配置してみたのだけれど、もうすぐ貴女があのお家で暮らすことも出来るのよ。...でも、あの子は失格ね。娘である貴女を追いかけ回したのですから」
「おにん...ぎょう......?」
震える唇から発せられた言葉は短かった。
(『優しいパパ』のお人形?代役の私?どういう意味なの…?)
得体の知れない絶望感がつぐみを支配する。恐怖ではない。ここに自分の安寧の地はないという絶望。それはつぐみが初めて感じるものだった。
「貴女のお父様とお母様は酷い方よね。自分勝手であなたをたくさん傷つけてしまったのだもの。貴女は二人のことがお嫌いなのでしょう?でも大丈夫。私が貴女の『素敵なパパとママ』を作ってあげますから。壊れたら新しいものにすればいいのですわ!」
少女は独り言のように話し続ける。もうその瞳につぐみは映っていないようだ。
「私の素敵なお人形、そろそろ起きて頂戴。貴方の可愛い娘が待っていますわよ」
虚ろな目がギギギと音を立ててつぐみを捉える。
「アア、僕ノ可愛イ娘。愛シテイルヨ」
それはまるで、本物の父親のような。だけど、やっぱり違和感があるような。そんな優しい声と表情で笑う何かも、人形だと認識してしまえば恐怖しかなかった。
「やだっ!こんなのパパじゃない!本物のパパとママはどこなの!?私を元の世界に帰してっ!!」
「つぐみちゃん、心配することなんて何もないのよ?貴女には幸せな未来が待っているの」
必死の思いでつぐみは叫んだが、少女は眉をひそめてつぐみを宥めるように声をかけるだけだった。
「ね?つぐみちゃん。新しいママも今から作ってあげますから」
そうやって少女がのばした腕をつぐみは振り払った。
「やめて!触らないで......ひっ!」
つぐみは言いかけて、悲鳴をあげた。
つぐみが少女の手を振り払った拍子にガコンという音がして、少女の、華奢で白い腕が床に転がったのだ。
「......あらあら、取れてしまいましたわね。ざぁんねん。せっかく貴女とは仲良くできそうだと思いましたのに」
よく見るとその手は人形のものと同じ、球体関節で出来ていた。少女はその手を拾い、大切そうに抱えながら笑っている。
「私...何にもしてないのに......!どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのぉ?」
恐怖が限界に達したつぐみは、遂に泣き出してしまった。ボロボロと涙を零し、己の境遇を悲観する。
「...何もしていない?貴女は願ったではありませんか」
ぽつりと少女が呟く。その目は先程とは違い、冷めきっていた。
「貴女は私に言ったでしょう?『パパとママなんて嫌いだ』って」
つぐみは青かった顔を更に青ざめさせる。
確かに、つぐみは彼女にそう愚痴を零したが、あれは子供が親に文句を言ってみたくなるような、思春期なら誰しも通る道だ。本気でそう思っているわけではない。
「私はただ、貴女の願いを叶えただけに過ぎませんわ。......まあ、それももう無意味ですが」
カタカタとつぐみの足が震える。こんなに自分の発言を後悔したのは初めてだ。
「ご...ごめんなさ───」
「廃棄しましょう」
つぐみの謝罪も虚しく、少女がそう宣言すると、今まで動かずにいた人形達がカタカタと動き出し、つぐみを捕らえようと飛びかかる。
つぐみは必死にそれらを避けると、扉を開けて外に飛び出した。もうここに自分を助けてくれる人はいない。自分の身は自分で守らなければいけないのだ。そう言い聞かせながらつぐみは逃げた。度重なる恐怖のせいで、もう頭がおかしくなってしまいそうだった。
後ろからたくさんの人形が追いかけてくる。ユメちゃんもサクラちゃんもヤマトくんもつぐみの父親も。みんなが目をあやしく光らせながらつぐみめがけて走ってくる。
全速力で走ってくる彼らとは対照に、身体的にも心理的にも疲弊していたつぐみは、走るスピードが遅くなっていった。
つぐみと人形達との距離はだんだん近づいていく。息を切らしたつぐみの肩に、人形の球体関節の腕が触れそうになった。もう駄目だ。つぐみは泣きながらそう覚悟した。
「やめなさいっ!!」
───その時だった。
懐かしい大きな声が聞こえ、つぐみは振り向いた。
そこには生身の、人間の母親がつぐみを庇うようにして立ちはだかっているではないか。
「まっ...ママ......!!」
(ママが!ママが私を助けに来てくれた...!)
嬉しくて嬉しくて、つぐみは母親に抱きつこうとした。
父親も連れて、早く帰ろう。帰って、そして、二人に謝ろう。なんて思いながら。
しかし、前に出た母親を人形達はどこから出したのか、長い刃物でグサリと刺した。
母親は崩れ落ちる。つぐみはへたりと座り込んだ。もう、限界だった。母親から流れる紅い血が、皮肉にも彼女が人間だということを証明していた。
「つ、ぐみ......。パパも、ママも...貴女のことが......ずっと、大好きよ......」
母親は涙を流しながらにこりと笑っていた。
「いや...いや......いやああああああ!!!」
つぐみの声が暗い空に響く。
その後、彼女の声が響くことはあったのか。
◆◆◆◆◆
──月が赤く輝く夜に、あの洋館には行ってはいけないよ
月が妖しく光る夜に、人形達に願ってはいけないよ──
それは昔から伝わるお伽噺。
破壊に怯えるオートマタ達の恐ろしくも悲しいお話。
迷い込んでしまった人間が助かる道はあるのかどうか。
さあ、
────明日の月は。
これは私が小学生の時に書いた話をリメイクしたものです。実は私の小説の原点はこれなんですよ。処女作はホラーという...(笑)
そんな話ですので、この訳のわからない展開について来れなかった方もいらっしゃるのではないでしょうか?
それでもここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
蒸し暑いこの時期に、この話で少しでも涼しくなっていただければ幸いです!