プロローグ
天堂 蓮は子供の頃、報われない努力なんて無いと思っていた。
心の底から悲しんでいる人はいないと思っていた。
誰しも子供のときは良くも悪くも素直だ。
天堂蓮はそういう意味では平和なところに生まれ、幸せに暮らしていた影響を強く受けた。
故に、彼にとって幸せであることは極々普通のことだったのだ。
そう思ってしまうのは仕方なかったところもあっただろう。
しかし、世の中は彼が思っているほど甘くない。
彼がそれを初めて実感したのは、父親が交通事故で死んだときだ。
それは、彼が7才の時の事だった。
▽▽▽
俺は、その日夜遅く帰ってくる父さんを待ちきれず寝てしまった。
朝になってその事に気づき、父さんを探した。
だが─どこにもいない。
仕方なくリビングにいる母さんに聞くことにした。
ひどく疲れているのか、椅子に座りながら寝ているから出来れば起こしてやりたくなかった。
起こすと母さんは目のまわりが少し腫れていて、目が真っ赤。
俺を見るなり泣き出してしまった母さんの声はガラガラで、何かがあったことは幼かった俺にも分かった。
突然泣き出した母親を見て混乱していた俺は、ふと疑問に思う。
─お母さんが泣いてるのにお父さんがこない。なんで?と。
そんな疑問にじわじわ心を蝕まれているような嫌な気持ちになり、そんな焦りを誤魔化すように俺は言ってしまった。
「お父さんは…どこ?」
きっと母さんは聞かれたくなかったのだろう。
見るととても痛ましい顔をしていた。
「蓮……お父さんはね…死んじゃったの…もう帰ってこれなくなっちゃったのよ…」
母さんはそう言うと、またポロポロ泣き出す。
俺はまだ子供だったこともあり、死ぬと言うことがどういうことなのか分からなかった。
そして、大切な人が死んでしまった人の傷が簡単には癒えないことも知らなかった。
だから俺は簡単に言ってしまう。
「ねぇ、泣かないでよ。お母さん」
俺はこの時の事をずっと後悔していくだろう。
お母さんは俺がそう言うと、涙を拭いて「そうよね、今度は私の番よね」と言い、俺の頭を撫でながら「大丈夫よ蓮、お母さん頑張るから」と、そう言って気丈に笑った。
俺の家は、正直裕福とは言いがたい。だから両親は共働きだった。
父さんの保険金やら何やらでたくさんお金を貰ったらしいが、それでも自分の仕事は続けないといけなかった母さんの心労は決して少なくなかっただろう。
まだまだ手のかかる子供もいたんだ。
7才の俺ならまだしも、妹は3才だったし。
側で支えてくれる夫は、もういない。
だからこそ俺みたいに母さんのことを心配してくれる人もいたが、母さんはもう誰かに支えてもらいたいとは思わなかったんだろう。
誰も寄せ付けず、俺たちを育てた。
そして、それから6年──
夫の後を追うように──
母さんは死んだ。
▽▽▽
「夢…か……」
汗でじっとりと濡れた服が鬱陶しい。
昨日夜遅くまでゲームやっていい気分だったのに台無しだよ。
しかし、随分懐かしい夢を見たな。
母さんが、一人で頑張った6年間。
最初はふとした時にため息を吐くことが増えたくらいだったが、次第に疲れた顔を見ることが多くなった。
誰も寄せ付けないで、独りで仕事も子育ても全てこなした。
しかし、ある日母さんは体調を崩した。
最初はただの風邪のような物だったが…
だんだん体調を崩す頻度が増えていき──
──その後は、あっという間だった。
母さんはどんどん痩せていき…
ふとした時に寝ていることが増え…
気がついたら死んでいた。
「……」
母さんは何を言っても、どんなことをしても「大丈夫よ」としか返してくれなかった。
あの時、「泣かないで」なんて言わなければよかったと…
もっと違うことを言えていたらと…
それならこんな思いはしなかった。
なんて、自分の事しか考えられない自分が憎い。
「…くそが」
まだ外は暗い。
もう少し眠ろう、嫌なことは寝て忘れるに限る。
嘆息した俺は、寝汗で濡れた服を着替え、布団に潜りきつく目を閉じた。
▽▽▽
不意に寝苦しさで目が覚める。
目を開けたら、光が眩しすぎて涙が出た。
目がショボショボする。
くそ、誰だカーテンを開けやがったのは
あぁ涙で視界が歪む。
「じーーーー」
歪んだ視界にバカが俺の口と鼻を手で塞いでるのが見えた。
……………く、苦しい。
折角、人が気持ちよく寝てたらなんだよ。
邪魔すんなよ、睡眠は人間の三大欲求のひとつなんだぞ?
バカの手をどける。
「何してるんだ?咲」
「何度起こしても起きないから永久に眠らせてあげようかと思って」
「バカか?バカなのか?バカだったのか?」
「バカは兄さんの方、高3にもなって遅刻するよ?」
こいつは俺の妹で天堂 咲と言う。
父さんと母さんのいない俺の、大切な家族だ。
身長は俺の胸ほどしかなく、腰まである黒髪のストレートでキリッっとした美人さんだ。
なんでまだ中学生なのにここまで大人びた印象を受けるのかね。
と言うより何故か今日は少し不機嫌である。
あ、ちなみに咲は貧乳どころか無にゅ!?
「…兄さん?」
「は、はい」
「遅刻するよ?」
「今から急いで準備します」
おぉ怖っ、睨み殺されるかと思ったわ。
▽▽▽
支度を終えて現在、俺は走っていた。
バカなことやってる間にも、時間が無慈悲に流れていたからだ。
……頑張ってるけど間に合わないかもしれない。
咲は俺を起こしてすぐ学校に行っちゃった。
一緒にいきたかったがそんなことしたら俺より学校が遠い咲は遅刻確定である。
俺がもっと早く起きていればいいだけなんだが、今日は嫌な夢を見たし少しナイーブだったので仕方ない。
そんな事考えてるうちに学校についた。
ギリギリセーフである。
▽▽▽
ガヤガヤと賑やかな教室の扉を開け自分の席へ向かう。
席に座ると
「ようシスコン、今日は一段と犯罪者のような顔をしてるな」
何とも不名誉なあだ名を言いながら近づいてきたのは九条 海斗、腐れ縁の友人だ。
少し長めの黒髪で背はそこそこ高く、細マッチョといった体型をしていてイケメンだ。
しかし、ロリコンと言う性癖で台無しにしている。
俺にシスコンのレッテルを貼ったクソ野郎だが、一応こんなんでも友人だ。……たぶん。
昨日も一緒にゲームしたし。
つーか遅くまで居座りやがってお陰で俺は寝不足だよ。
あぁ、こいつも寝不足っぽいな。目が少し赤い。
「なんだ昨日補導されなかったのか、ロリコン犯罪者」
そう言うとロリコン犯罪者は苦い顔をした。
「俺はロリコンじゃねぇ」
「奇遇だな俺もシスコンじゃねぇよ」
そもそも、いったい俺のどこがシスコンなのか
少し心配性なだけだろう。
「どの口が、毎日一緒に登校してくるくせによー」
そのくらい普通だ。
「だが、残念なことに今日は寝坊した」
……本当に残念だ、咲は大丈夫だろうか?
「なんだ珍しい、昨日激しくヤり過ぎたのか?」
ロリコンはさも不思議そうにそんなとこを言ってきた。
「黙れ変態」
「いーじゃねーか、こんくれぇよ」
公共の場で言うなと言うことなんだか。
「童貞が語る女ほど虚しいものはないと聞く、俺なりの気遣いが分からないのか?」
「お前も童貞だろうが」
……それを言われると言い返せない。
「つーかそれじゃ昨日の話と矛盾するだろ」
「俺が本気でいってると思ってんのか?」
「違うのか?」
「違うわ」
俺はほくそ笑み、小馬鹿にした顔で言う。
「そんな馬鹿な」
「お前からかってんのか?」
勘に触ったようだ。
「さーね、ほら先生きたし席に戻れよ」
ロリコンは不満げな顔をして席に戻っていった。
──勝った。
▽▽▽
チャイムと共に今日も今日とて学校が終わった。
素晴らしい解放感である。
とりあえずいつも咲と待ち合わせしている場所に行こう。
「行こうぜー蓮」
……まてまてまて
「何故さも当たり前のようについてくるんだ?」
「今日もお前んちでゲームすることにした」
……こいつは何をいってるんだ?
昨日来たばかりだと言うのに。
あぁ、そうか……
「すまん、お前の事を甘く見ていた」
「そう言うなよ、照れんだろ?」
「安心しろ一応友人だ。ちゃんと病院までは付き添ってやるさ」
きっと、ついに頭の方がおかしくなってしまったんだろう。
「歯をくいしばれ」
海斗はそう言って俺の肩を掴み、拳を握ってプルプルしている。
「すぐ暴力に走るなよ、野蛮だぞ?」
「いや、これは治療だ。お前の頭も叩けばテレビみたいに、少しはマシになるだろ?」
こいつのは冗談に聞こえないから怖い。
「はいはい、馬鹿なこと言ってないで行くぞ」
「言い出したのはお前だ」
海斗は少し呆れながら手を放す。
「サンキュ」
海斗は、これで結構人の機微に敏い。
ゲームの話は俺が落ち込んでるようにでも見えたのだろう。まぁ嫌な夢も見たしナイーブだったのは認めるが、慰められるほど子供じゃないつもりなんだがな。
「気にすんなよ」
あぁ、イケメンだ。
これでロリコンじゃなかったら、さぞやモテるだろう。
まぁ今でもモテるらしいが……
結局、世の中顔らしい。
死んどけくそったれが。
▽▽▽
咲の学校に着いた。
「あ、兄さん……と、海斗さん」
咲は横にいる海斗を見て驚いた顔をしている。
帰りに海斗がついてくるのは珍しいからな。
「こんちわ、咲ちゃん」
にこやかに笑う海斗がなんかムカつくので、海斗前に割り込んで立つ。
「咲、朝は一人で大丈夫だったか?」
「兄さん、私はもう子供じゃないんですよ?登校くらい一人で大丈夫です」
「世の中には万が一がある、用心するに越したことはない」
「そろそろシスコンは卒業しろよ」
「バカが!俺はシスコンじゃない、心配性なんだ」
「お前はまごうことなきシスコンだ」
「……お前も強情だな、俺は心配性なだけだと何度言えば分かる」
「心配性も度を越せばシスコンになる、そしてお前は既に変態の域だ」
「変態はお前だろ、このペドフィディアが」
「やれやれ、ペドフィディアの定義を調べ直してこい。俺はペドではない」
海斗と話してると
「兄さん?帰りますよ。」
何故か咲が怒ってしまった。
▽▽▽
咲はズンズン一人で俺達の前を歩いていく
「おい、お前のせいで咲が怒ってしまったぞ?どうしてくれる」
「どうもこうもない、シスコンならいずれ妹に嫌われる」
「なら安心だ、俺はシスコンではないからな」
「いったいどこから、そんな自信が出てくるんだ?」
「自信は必要ない、事実だからな」
「やっぱお前もう末期だわ」
こんなバカはほっといて咲に謝りに行こう。
咲に嫌われるのはごめんだ。
「とりあえず謝ってくる」
「言うと思った、行ってこい」
少し早歩きで咲に近づく
「咲、ごめん。」
「何で謝るんですか?」
とりあえず話は聞いてくれるようで安心だ。
「咲が怒ってるから?」
「別に怒ってません」
咲は好んで嘘を言うタイプじゃない。
しかし、不機嫌な事にかわりはない。
どこかで気分転換でもさせた方がいいのだろうか。
(ん?そう言えば俺、昨日咲と何か約束してなかったか?)
あーそうそう、久しぶりに二人でどこかに遊びに行く予定だったな。
でも、海斗が家に押し掛けてきておじゃんになったんだっけか。
まさか、その事で拗ねてんのか?
拗ねてるから怒ってはいないとか、屁理屈くさくね?
「なあ、昨日は結局行けなかったし、今週末一緒にどこか遊びにいかないか?」
「…………」
咲は立ち止まって、うつむいてしまった。
ありゃりゃ、ビンゴっぽいっすね。
「ダメか?」
少しすると咲は顔をあげ
「や、約束ですよ?今度こそちゃんと守って下さい。」
そう言って、そっぽを向いてしまった。
しかし、顔がにやけてるよ??
やっぱり、うちの妹は可愛い。
「つー訳で海斗、今度は追い返すぞ?」
俺はそう言って振り返った。
が、そこに海斗はいなかった。
…………は?
ここは一本道だ隠れる場所なんてない。
思えば少しおかしかった、咲に話しかけているとき何の音もしなかった。
今も気持ち悪いくらい静かだ。
……今も?
猛烈に嫌な予感がし、振り返る。
そこに
咲はいなかった。
…………は?
なんの…冗談だ?
咲も海斗も消えた?
人を2人も一瞬で消す?
それもここで?
ありえない!
そんなこと、ありえない!
反射的に叫ぶ
「咲!!ど─」
が、言い切る前に視界が突如
暗転した。