序章 虫の夢
また、あの日の夢を見た。
彼らは…互いを見つめあっている。
川に足を浸したまま立ち上がり、舜を見上げる椿。
その整った横顔。
瞳にかかった髪をそっとどける舜。
椿の手からポチャリと何かが落ちた。
椿の小さなあごに舜の手がかかり、ぐっと上に向けた。
舜が顔を近づけた。
舜の口が動いた。何か言ったようだ。
そして、舜は僕の方を向いた。
椿は…
その後の事を思い出すのが恐ろしくて、ここで目覚める。
ささやかな抵抗なのだろうか。
夢から逃げようと、眼に焼き付いて離れない。
今日のようによく晴れた日だった。
椿と舜と僕。14歳だった。
大人たちが隠しているものを見に行ってやろう。
そんな気持ちだけだった。
なぜ、ああなってしまったんだろう。
大切に思っていたのは確かなのに。
背の高い深緑の木が生い茂っていた。
木漏れ日がわずかに届く程度で、空気はひんやりとしている。
目的地はまだ遠い。
先頭に舜、続いて椿。
僕は最後で、地図を見ながら木に印をつけていく。
こういう作業は僕の仕事だ。
舜はいつでもまっ先に進んでいく。
そこらの枝を次々折りながら進む。
道を知らないはずだが、今のところあっている。
彼はいつもそうだ。
間違えたときは僕が軌道修正すればいい。
椿は、ただ黙々と舜についてゆく。
彼女が何を考えているのか、未だにつかめない。
ただ、時々涼しい顔で振り返る。
さっき前に向き直る瞬間、少しほほ笑んだように見えた。
彼女なりに楽しんでいるらしい。
森に入ってから、どれくらい歩いただろう。
目の前に小川が現れた。
舜は腹が減ったのか、魚を取ると言い出した。
椿を上流に立たせ、自分は少し下流で小刀を構えている。
僕らは皆、護身用に小刀を持ってきていた。
漁は二人に任せ、僕は地図の載った本を確かめる。
目線は本に、しかし彼らの会話は風に乗って聞こえてくる。
「お前は合図しろよ、俺が仕留める」
「ん」
偉そうな舜に、素直にうなづく椿。
彼女は僕の話は全然聞かないくせに、奴にはえらくあっさりと従う。
僕は本に戻る。
表紙には「古文書解読本」。読解法とやらの本の貞操だ。
でもこれは、元の表紙の上に重ねたものだったのだ。
1ページ目は地図。読解法らしき記述はない。
僕の父の部屋から、舜が盗んできたものだ。
表紙と中身の違う本。
派手に水の跳ねる音。
「おい、これ違うぞ!枯れ葉じゃねぇか」
「そう」
舜がでかい声でまくし立て、椿はさらりと流す。
これもいつものことだ。
地図の右のほう、赤く塗られている場所。
そこが僕らの目的地だ。
「サンガ」と書いてある。
父たちが敵とか野蛮人、とか呼ぶ人々の住む地域だ。
また派手に水音がする。
「お前、今でかいの来たぞ!どこみてんだ!」
「…」
「おい!」
「黙ってて。カニがいたのよ。ほら、この岩の…」
やかましい舜の声と対照的に、静かに話す椿の声は風に流され消えていく。
ページを進めると、「サンガ」の住人の絵。
彼らは、皆、体に虫を住まわせているらしい。
ある男は手からものすごい数の虫が出てきている。
黒光りする虫だらけで、もとの手は見えないくらいだ。
虫が住む、とはこういう事なんだろうか。
父たちが戦うべき敵とは、こんな姿なのか。
随分静かだ。
ちょっと目をやると、今度は二人して岩かげを探っている。
魚はどうした?結局は椿のペースか。
彼らは同じところを見ている。何も言わずに。
本に意識を集中しようとするが、うまくいかない。
二人のことなんて気にせず、眠ってしまえれば。
それとも、二人を置いて引き返せたら。
それはそれで、奴らは困るだろう。
慎重にばれないような工作をするのは誰だ?
逃げ道の確保は?
僕がいなければ…いや、必要に迫られた舜がうまくやるのだろうか。
虫を住まわす野蛮人で、父たちの敵、「サンガ」の住人。
一目彼らを見てやろう、これが元々の目的だ。
でももし見つかったり、相対してしまったら。
舜はきっと真正面から向かっていくだろう。
僕は…
とにかくこの本を解読することにしよう。
奴らはその体に宿った虫を操る、とある。
今度は両手が虫だらけの女の絵。
黒々と光る虫。腹は赤味を帯びている。
やはり静かだ。
また彼らに目をやってしまった。
彼らは…見つめあっている。
川に足を浸したまま立ち上がり、舜を見上げる椿。
その整った横顔。
瞳にかかった髪をそっとどける舜。
椿の手からポチャリと何かが落ちた。
椿の小さなあごに舜の手がかかり、ぐっと上に向けた。
舜が顔を近づけた。
舜の口が動いた。何か言ったようだ。
そして、彼は僕の方を向いた。
「ちょっと見てやれ。目に…」
こちらへ向く椿。
舜の言葉はもう聞こえなかった。
横顔からその正面に向き合う瞬間。
彼女は、別の生き物になった。
左の眼に、黒々とうごめいている。
虫だ。
あの絵と同じ。
息が止まった。
何も感じないのか、椿はこちらへ近づいてくる。
虫がいる。
どんどん、増えていく。
それらが僕に近づいてくる。
「来るな…」
ほとんど声にならなかった。
虫の塊がさらに大きくなった。
「来るな、来るな!虫がいる!」
やっと声が出た。
「え?」
すぐ目の前に、虫に侵された顔。
声は椿だ。
「何、そんなに…」
虫の塊が、一気に膨れ上がった。
「来るな!」
虫を。
虫を殺さなければ。
その瞬間、小刀を振り切っていた。
無意識だった。
「秋!」
遠くで舜が僕の名を叫んだ。
目の前で、虫の塊がぶわっと散った。
一瞬、目の前が見えなくなった。
無数の羽根の音と、暖かい空気。
不快な感触はない。
漂うような感覚。
「椿!」
舜だ。
椿を支えている。
椿は…片目をおさえている。
その手は真っ赤に染まっている。
そうだ、僕は。
この手で…。
その時、小刀に黒いものがついた。
みるみる、増えていく。
虫だ。
それが僕の手に這い上がってくる。
来るな。
来るな。
来るな…。
「何してんだ!しっかりしろ!」
ものすごい力で手を押さえられた。
舜だ。
そして、僕の手から小刀をむしり取った。
僕は左手に小刀を持ちかえていた。
「虫…が…」
「そんなもんいねぇ!しっかりしろ!」
いない?
確かに右手に…もう見当たらない。
代わりに、手先から肩まで赤く染まっていた。
虫はいない。
その瞬間、激痛が走った。
立っていられなくなった。
右手を抱えてその場に崩れた。
痛い。熱い。
でもそれよりも。
僕は…何をした?
目の前に、ゆっくりとかがんだのは椿だ。
舜に、しっかりと支えられている。
「お前…」
舜の言葉を遮って、椿が僕に言った。
「もう、いない。大丈夫。」
真っ赤な手で自分の眼を押さえながら。