1 『そこは「違」世界』
どうか、この声を聞いてもらえないだろうか。
人生を語れるほど長く生きたつもりは毛頭無いし、もしあったとしても、それは──不遜、尊大、傲慢、自己中心。そして、独り善がり。
そうやって一蹴される未来が目に見えている。
自分より長く生きる人は幾らでも存在する。爺様婆様なんて俺の4倍以上現を生き抜く猛者の集いだ。中には大規模な戦争を経験した人だっている。比べて十代後半の人生観はきっと片腹痛いに違いない。
その程度の軽い言葉だ。
だけど、敢えて言わせてもらう。
何時だって俺は、天秤の上を歩いている。
両端には別の事柄──例えば夏の暑い日にアイスを食べるかそれともラーメンを食べるかの二つの選択肢があって、どちらにも利が有るのに対しどちらにも不利がある。
アイスを食べるとその場は冷えて良い思いをするという利に、夏バテする可能性がある不利が。
ラーメンを食えばその場は暑苦しい思いをする不利に、夏バテ対策になる利がある。
そうしたお互いの利害を加味して均衡を保っているとすれば、そこに介入するのは自分の意思だ。
最後に決めるのは自分。頭の中であっちにフラフラそっちにフラフラ、悩みに悩んでラーメンを食べるも善し、アイスを食べるも善し。
それは自身が決めた事なのだから。
やれラーメンやらアイスやら大袈裟に語るもんじゃないとは思うけど、これは極論だ。厳密に言えば選択なんざそこらじゅうに転がっている。
例えば路傍の石を拾うか拾わないか、そんな意味のあるのか理解の定かじゃないものだって、頭の中で意識した時点でそれも選択だろう。
極端な例えを提示したけど、勿論自分の生き様はそれらだけで全てを著せる訳もなく、星の数程の選択を重ねて今の俺はいる。
これは俺だけには留まらない。分かっている。世界中の、恐らく全人類が通る道。だから人は迷う、質が悪い話である。
時に何度でも迷い、或いは即断し、一度自身の重みでこちらに傾いた天秤の上は当然上り坂だ。昇るのは難しく、辛く、苦しく、その最中に待ち受けるのは決まって後悔。何故こっち──この選択肢を選んだのか、もし違う選択をとっていたらどんな未来が待っていたかを想像し、大抵は今の現状より良質な世界が合ったんだと妄想する。そんな都合の良い解釈で塗れた絵に書いたような現実が訪れるとも限らないのに、丸でそれしかなかったかのように憂いに駆られる。
当然逆もあった。この選択で良かった、ある時はこれ以上ない最善の結果だったと胸を張れた瞬間。だけど、その当時の事を俺は今、素直に喜ぶ事は出来ない。何故なら同時に押し寄せる悪玉のような後悔が『それ』を上書きして、どうしても全体的な評価が覆されてしまうから。
後悔と妄想は表裏一体だと思う。どちらも心の変動でマイナスのイメージがある言葉だけど、交わりそうで交わらない。
質が悪い。
選んだ先で何が待ち受けるのかは神のみぞ知る訳であり、当人には予測ができても現象の確定は成し得ない。
蝶の羽ばたきが何処かで巨大な風を巻き起こすと言われる『バタフライ効果』、カオス理論で扱われるカオス運動の予測困難性。それに伴い生じた初期値鋭敏性。
もしかしたら、人のふとした何気ない想像がどこがで新たな世界を創造している──かもしれない。
ならばもし、意味があるか理解の定かじゃないどうでも良いような選択が、何処かで取り返しのつかない結果を招いてしまうのかもしれない可能性が零でないとするならば。
こんなないない尽くしの言葉の羅列の中で。
俺は断言できる。
何度でも言ってやれる。
とてもとても、ああ、本当に、質が悪いな──、と。
「支離滅裂。オチが微妙。きもい。18点」
「……とりあえずその型にはまらない点数は何だよ」
「君の生きた18年分はその程度って事だ」
「上手い事言ったと思ってドヤってんなよちんちくりんめっ!」
「いだだだだだぁだだ」
coolestに黄昏た俺の思考を阻害し過小評価する女郎に正義の鉄槌を下してやる。身を以て己の業の深さを知るがいい。
場所は学校の教室。茜色の陽光が室内を横殴りに照らす、逢魔が刻を目前に控えた放課後の一時。
規則正しく並べられた縦六列横六列の机に、まっさらな何も記されていない黒板が後ろ、『You damn fool!!』と枠いっぱいにチョークで殴り書きされた黒板が前方にある。机とセットの木椅子は全て机の足の下に収まらずに座れる隙間を作って所在なさげに放り出されていた。端の二つある扉の内、前の方に視線を向けると、外──廊下側の扉の上に『3ー2』とかかれたクラスプレート。
茜色に呼応する様に同じ色で埋めつくし影を作る空間。何処か特別で、何処か異質で、そして哀愁が漂っている。個人的に嫌いじゃない雰囲気だ。放課後にありがちな他生徒の喧騒は一つも無い。教室内も、その外からも。
何せここには誰もいない。
教室中央の椅子に座る俺は、自ら断罪を喰らわすそいつを今しがた解放した。机に腰を預け背中を向ける彼女の表情は窺い知れないけれど、多分涙目になってるに違いない。両の手でこめかみを押さえプルプルと震える仕草が全てを物語っている。
やりすぎたかな? いいやそんな事はない(反語)。
「ふぐぅ……君って奴はっ、君って奴はっ」
「ざまぁ」
「5歳の時風呂場でウンチ漏らしたくせに!」
「ヤメロォッ!?」
嗚呼、しかしそれにしても。夕日とは何故こうも温かいのだろうか。これと似た光景は、夜明けにまた見れる。なのにどうもこの時にしか見られないような焦燥は、何だか今はとても度し難い。
「──だからさ、悪かったって。やり過ぎてすいませんでしたって。ほら頭こっちに近づけろ、痛くないお呪いかけてやる」
「ふん、何時までも子供扱いするんじゃない。私だってもう君の背に隠れてオドオドしていたあの頃とは違うのだ。時間の潮流とはそれ即ち成長の止めどない発露であり、人は移ろい変わりゆくというのに他ならな──えぇい頭を撫で撫でするなそんな事したって全然安らがないし嬉しくなんか無いんだからねっ」
「まず口調安定させようか」
ツンデレ乙ぅ。
ブラウンの腰まで伸びた馬の尻尾がフルフルと揺れるたび、桃のような淡い香りが鼻を擽る。優しい、何時までも記憶していたいような、そんな香り。椅子に座る自分と比べ机に座る彼女の頭は高い位置にあるけれど、撫でるのに手を伸ばす程度、全く億劫ではない。
しばらくして、唐突に涙が出そうになった。撫でていた手も止まる。
背を向けている彼女と椅子に座る俺。手の止まった俺を訝しく思い振り向いた彼女と目が合う。同時に机から降りて体を此方に、腰を曲げて目線の高さを合わせる。日本人にしては彫りの深い、ひどく端正な顔立ちが──宝石のような大きな黒い瞳が自分を見つめてきた。
いまいち掴めないその顔は、口に出さずとも疑念が見て取れる。
──時間にして数秒か、或いは数分か、もしかしてそれ以上か。確かなのは、差し込む光が全くその様相を変えていない事。
時間に置いてかれたような気分になった時、突然彼女が得心した様に頷くと、右手をゆっくり俺の頬に宛がってきた。彼女の熱が、体温が頬を通して伝わって────くる事は、無く。
我が子を慈しむ母親のような笑みを浮かべ、幼馴染は口を開く。
「……さっきの、ポエムについてだけど」
「ポエム言うな」
「何でそう思ったの?」
「そんなの」
分かってるんだろう、と続けた。
窓が開いていないのに、恰も風が入ってきたかの様にポニーテールがフワリと揺れる。
彼女の後ろ──俺の前にある『Stay with me』と書かれた黒板が目に写る。
きっと彼女は、あの英文を見る事を絶対に出来ないのだろう。それが分かってしまうから、ただ、悲しい。
彼女の艶やかな顔がすり寄るように近づいてくる。鼻と鼻がくっついて、少しでも顎を前に出せばキスなんて容易く出来るような距離まで、相互の間隔は詰められる。
ふ、と漏れる自分の吐息が、彼女の吐息と混ざり合う。頬に触れる手の感触が、溶けるように心臓を撫でる。
茜色が明暗──光の当たる部分と影を作る中で。再び、彼女から言う。
「君は……後悔してる事があるのかい? 自分の今と、今を作り出した過去の所業。それから……なんだろう、出会いとか?」
「当たり前だ。たくさん、たっくさん後悔した。後悔してないと言い切れる事もあったけど、それ以上に後悔ばっかしてる。そうじゃなきゃ」
お前と────秕と。
触れ合う事が、笑い合う事が、喧嘩する事が、歩み寄る事が。
想い慕い合う事が。
ひたすらに、今は恋しい。
「そうじゃなきゃ、俺はお前の夢を見てなんかいない」
唐突に耳嚢を叩く強烈な耳鳴り。ノイズのようなそれは誰かの絶叫の様にも聞こえる。
頬に秕の手は無い。それどころか視界に彼女自身の姿が嘘の様に消え去っていた。
そりゃそうだ、だって嘘なのだから。
一人だけになった教室。変わらず陽光降り注ぐそこを寂寥感が埋め尽くす。音の消えた世界に、絶叫の様な耳鳴りだけが木霊する。
次第に空間が震動を起こし始める。文字通り、視界が揺れ始めたのだ。地震もかくや、何もかも呑み込まんばかりの震えは世界を、目の前をあっという間に暗闇に上書きしていく。
視界が真っ黒に染まる直前、黒板に目を向ける。
そこには小さく『miss you』とだけ書かれていた。
「ああ」
自分は、なんて。
「女々しいな、くそ」
視界がぶれる。
それはいわばスライドショーのように、連続して切り替わっていく風景だ。
隣に立つ母親の太もも辺りの目線にまで縮んだ自分が、母親の手を掴んで目の前に立つ少女を見つめている。
少女は縮こまり、目もとを両手で必死に擦りながら泣いている。
視界の隅では父親が誰かに向けて何かを叫んでいた。怒号のようだ。
やがて母親は自分の手を離すと、少女を抱きしめた。
少女はそれでも泣いている。
視界がぶれる。
側には少女以外誰もいない。当の少女は酷く憔悴しきった顔を晒し、尚も目を腫らして泣き続ける。
いきなり少女の顔がグッと近くなる。どうやら抱き締めたらしい。
気付けば互いに泣いていた。大きな声で、最早外界など目もくれずに。
視界がぶれる。
少し大きくなった自分が少女と手を繋いで走り回っていた。
少女は晴れやかな笑顔を魅せてくれる。
視界がぶれる。
転がる三つの骸。一つは血塗れの男、一つは両目を見開いたままの首に痣がついた女、もう一つは同じく血塗れの年端もない娘。
両親と妹だ。
死体の中心に立ち狂ったように笑う男。両手に真っ赤な果物ナイフと注射器をそれぞれ持ち、やがて発狂した後に頭から倒れた。
リビングの角で、自分と少女はただただ身を寄せて震えていた。
視界がぶれる。
葬儀場のような場所で中学生程度の自分が制服で身を包み何かを抱えている。誰かの遺影だ。それも一人ではなく、三人が写った遺影を。視界の端で此方を見て憐れみを込めた目を向ける人達がいる。中には疎ましげな色のある目も。
隣には、少女が自分に身を寄せている。
視界がぶれる。
項垂れる自分を少女が抱きしめ泣いていた。同じ言葉を狂ったように連呼しているようにも見える。
いつの間にか自分も少女を抱き締め、二人で泣いていた。
やがて唇を重ねた。傷を舐め合うように、或いは互いの依存性を意思表示するように。
視界がぶれる。
視界ガぶれる。
視界がぶレる。
視界ガブれル。
視界ガ
早送りのように加速する背景の変化。何故今、急激に変わり始めたかは明確に理解できる。
自分が――俺が、思い出したくないからだ。
行き着く先で、それは止まる。
何処かの廃工場の倉庫にて対峙する学生服を着る自分と三人の男。傍らにいつもいた少女はいない。変わりに目の前の男らは挙って口角を上げ、当たり前のように嘲りを込めた狂喜を自分に向けていた。
唾を撒き散らし言葉をぶつける男。
声はここでは聞こえないけれど、何を言っているのかは今でも鮮明に覚えている。
視界が、ぶれる。
周囲には二つの肉の塊。どちらも元は人間なのに、どちらも首から上が螺切られたような切断部を残して喪失している。
両膝をついて見下ろす目線の先に、マウントをとられた男の顔。恐怖に震え歪みきり、表情筋を目まぐるしく変えながら何かを叫ぶ。
視界がぶれた先で、自分は拳を振り上げていた。
男が叫ぶ。
拳を更に強く握りしめる。
男が叫ぶ。
自分が言う。聞こえないけど、やはり覚えている。
死ね、そう言ったのだ。
男の口から泡が飛ぶ、それでも叫ぶ。
叫ぶ。 叫ぶ。 叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫
振り下ろす。
視界がぶれた。
▼▼▼
佐藤天谷は静かに目を開けた。
誰かに起こされるでもなく、強いて言うなら鳥に起こされた彼は普段低血圧で朝に弱い。が、今日に限り珍しく目覚めが良かった。少々ほくそ笑みつつベットから半身を持ち上げ軽く体を伸ばし、腰を捻りつつ辺りに目を配る。
「…………おおう」
変な声が漏れた。
枕の真横で目覚まし時計がぺしゃんこになっていた。記憶が全くない。
暫し釈然とせず見つめる内に見当がついた。ああまた一つ犠牲にしてしまったのだと。これで何個目だ、いいや分からない。買い換えの決意も程々に破片を集めて残骸に別れを済ましゴミ箱に放り投げた。
カーテンを開けば燦々と日の光が横殴りに顔を射す。目に染みるも甘んじて受け、一日の始まりを実感した。
双頭の小鳥を視界に入れながらもう一度小さくノビをし、机に置いた写真立てを一瞥して、部屋を出た。
台所へ向かうがリビングには誰もいない。一戸建て2LDK──天谷が居座る住宅の間取りだが、一人暮らしには些か広い故に毎朝多少の寂寥感が込み上げてくる。
だが、それも今さらだ。
"とある契機"から過去に比べて独り言が増えた気がするも、所在無さげに天谷は自己完結する。
「……材料切れてやがる」
そして冷蔵庫を開け一層寂しくなった。昨日の自分を殴りたい。仕方ないと棚に置いたカップ麺に手を伸ばす。
朝の気だるさを享受しつつ沸かしたお湯を入れたら手持ち無沙汰になる。音が無いから取り敢えずテレビを付けた。
──どこに行ってもこの時間帯はニュース一貫なのは変わらない。
内容が内容だったが。
『期せずして舞い込んだ『セレーネ消失』の報からまもなく二週間が経過しようとしていますが、その余波は未だ衰えを見せず、日本のみならず各国に影響を与え続けています』
辟易する。
これから一日が始まる。だからこそ辟易する。
二週間。この日数は昼夜同じ内容を目にした数を指す。流石に嫌気の一つだって出てくる。幾ら話題性が壮大に過ぎるとは言え、それでもだ。
『己に関係する話』なら尚更煩わしい。厄介でもある。
アナウンサーの口弁は続く。
『先日、各国の代表が一堂に会し行われた異例の緊急首脳会議にて、日本やアメリカ等では《歴史上類を見ない巨大な流星が衝突した》《セレーネ内部にある「爛魂」に蓄積した魔力が飽和し圧壊した》《強大な「pass所有者」の意図的な干渉》等が発言され、欧米諸国等では《神の報復》《世界終末の前兆》等、様々な憶測が提示されましたが、真相は定かでなく、事態の進展はまだ無いといった模様です』
聞いた当初は口に含んだモーニングコーヒーを盛大に撒き散らしていたが、今となっては慣れてしまった。
頭の堅い老獪達が各々持ち合わせた黒歴史ノートの中身を晒し合うかのようなこの所業、頭の中は思春期を拗らせた厨の方の学生さんと同じ構造なんじゃないのか。流星衝突説を唱えた諸々がまともに見える。
──以前ならそうやって腹を抱えて笑うどころか頭を抱えて漠然とした不安を抱いたはずだったのに。
どう非難したとしてもこれがこの世界の常識であった以上、天谷にはぐうの音も出ない。
(……いや、『月』が消えるって事態は何処行ったって非常識に違いないか)
白い目でテレビを見ていれば小刻みな電子音が鳴り響く。キッチンタイマーの音だ。どうやら三分経ったらしい。
そうなると意識は目の前の朝食に集中だ。最早聞き慣れた内容に枝葉が付いた程度で彼の食欲は止められない。
『尚、各国は今回の事を受け、残された番の《ルーナ》も同様に消失する可能性を危惧しており、地上と衛星両面からの観測を一層強める方針を続けています。──また、セレネ消失に伴い大気中へのマナの放出が従来の約二割を失った事で、一時的ではあるものの身体の不調を訴える患者が増大しているとされ、魔力保持量の少ない子供や老人に集中しているとの事です。これには《双星信徒》を中心とする各宗派が対策に講じています』
残さず平らげたカップ麺の容器の中身を洗い流し終わり、ゴミ箱に放り投げる。
リビングにあるクローゼットから制服を取りだして着替えていく。黒一色のアナログ学生服だ。本人はこの野暮ったさを割と気に入ってる。
準備万端、時間は──どうやらゆっくりし過ぎたらしい。
『日本は現在突出した影響を受けた報告は無いものの、同時期に領国内に飛来した隕石と思われる大規模なクレーターの関連性を調べると共に、原因の究明が急がれて――――』
テレビを消す。
前もって充電していた携帯端末の調子を確認しつつ、画面を見ればやはり時刻は変わらない。ポケットにしまい、通学用の手提げ鞄を持って玄関へ。登校に際して準備は怠らないのに次の日の朝食の買い置きを忘れた事に頭を振りつつ、足を進める。
「行ってきまーす」
返答はない。
それでも今日は始まっているんだと再認識する為の、毎朝の通過儀礼。
嫌になれば辟易もする。例えそれが自ら選んだ標であろうとも。
だが足は止まらなかった。
振り返る事はない。
▼▼▼
佐藤天谷は学生である。
佐藤天谷とは俺である。
つまり、俺は学生である。誰に何言ってんだろうな俺。
学舎へ続く通学路は我が家からだとそんなに距離はない。精々徒歩で十五分から二十分くらいで着く事が可能だ。割りと頑張って走れば1分で走破出来るんじゃないかと思う。
だが何分この体は自分の預かり知らぬ所で目覚まし時計を粉砕してしまうくらいは朝に弱い。気持ち良く目覚めてもその過程で結局時計を犠牲にしてしまうくらい朝に弱い。これもう分かんねぇな。
だから朝はゆっくりしたい、寧ろ体がゆっくりを求めている。喋る饅頭は特に求めてない。
そんな訳だから平日の朝は優雅に歩いてのんびり登校するのが俺の日課であり、極致である。例え遅刻ギリギリであったとしてもそれは曲げる事はない。だって落ち着いた朗らかな心の保持が長生きの秘訣ですってテレビで言ってた気がするし。
「──帰りたい」
色んな意味で。
どこか遠い所で『ふぇぇっ!?』って戦慄する声が聞こえた気がした。何だよ冗談だよそれくらい許してよ。
「……どこに?」
「ヌプリッ!?」
耳元を撫でるように近くから聞こえた声が俺の腰をヒュッとした。なんか語呂がおかしいな。
奇声も出たが別にアイヌ語は意識してない。
声と一緒に耳裏へ吹き掛けられた妙に艶やかな生暖かい吐息に堪らず鞄を放り投げ、両手を地面に付いて下半身を開脚した状態で前後左右に大きく振るように威力増し増しで足を回す。俗に言う旋回倒立という技、体操選手がやるアレだ。
三六〇度両足を回し、今度は腰に力を入れて上半身と下半身の位置を逆転させて開脚した足をブンブン振り回す。気分はタケコプター、空を自由に飛ぶ為なら俺は迷わず下半身を振り回す!! 変態じゃねえか! 良いぞもっとやる!
ブォンブォン風を切る音が響くが、風を切るという事は空を切ってるって事と同義で、つまりは対象に当たっていない。良く避けたなこの野郎、いや女郎。
存分に振り回したが無駄だと分かったから両手をバネにして大きく跳躍。足ではないからなんとも言えないけれども。
スタッと我ながら小気味の良い着地、この間約一秒とコンマ少し。しかしそんなので悦に入ってはいけない。バッと振り返り後ろにいるであろう見知った顔に一言物申してやる!
「びっくりするじゃないかもう!!」
「うるさい!」
「!?」
……何で俺怒られとるん? 下半身振り回したからですか? ……やっぱ変態じゃねえか!
「声かけたら蹴り飛ばそうとしてくる先輩には妥当だと思います!」
「いやいや言わせてもらいますけどね後輩ちゃん。その神出鬼没な振る舞いなんとかなんないの? 出会い頭に男心弄ばれたら堪ったもんじゃないよ」
「べ、別にそんなつもりじゃないですよ、 ………でもこれ私のアイデンティティーです。私の存在意義に関わります。つまり無理です」
要はただの確信犯じゃねえか。
溜め息を吐く。これ見よがしに気持ち悪い位気障ったらしい溜め息を月まで届く意気で放つ。目の前の女子に見せ付けるようにやってるから自重はしない。どうせこの程度で意に介するような性格ではないと知っているし、それくらいなら許される程度の付き合いはしてきたと自負している。驕りすぎだろうか?
だが彼女の方を見れば綺麗で並びの良い白い歯を晒してニシシと爽やかな笑みを見せ付けてくれやがる。予想通りだけどせめて塵芥程度で良いから意に介せやこら。
再度……今度は小さく溜め息が漏れた。
挨拶も終えて通学を再開した俺の、隣を歩く少女に目を向ける。
170後半の俺の身長よりも頭一つ分低い。女子の平均身長なんて知らないが、彼女は女子の中では少し高い程度の部類に入るのかもしれない。スラッとしたしなやかな体は陸上部を彷彿とさせるが、彼女自身は特に何らかの運動部に入っている訳ではないらしい。細身だが発育途中にしては出るところもちゃんと出ていらっしゃる。特にお尻。
眼福だ。
実は俺、尻派なんですよ。
「……何かねっとりとした視線を感じるんですが」
「そりゃ視姦してるからな。俺が」
「キモッ!」
失敬な、続行してやる。
服装はと言うと俺が来ている黒い学生服とは違い
、蛍光色のラインが入ったブレザーを羽織り胸元にリボンを付けてある。下はチェックのスカート、こちらは丈は短めで膝より幾分上でちょっと動いただけでパンツが見えそうだが、彼女曰く絶対見えない作りだと言う。なんだそれ、構造も気になるけどそれ以上に何もしなくても男心弄んでんだろ。
俺と彼女は同じ学校に通っている。なら何故俺達の制服のデザインに芋とスィートポテト程の差が出来ているのかと言う話になるが、そもそも俺達の通う学校に決まった制服がない。というか服装の指定すらされていない。端から見たら中々珍しいのだが、うちの学校はそんな校風を度外視しても可笑しいところ満載だから今はとりあえず置いとく。
「……先輩、そんなにこっち見て何かやましい事でも考えてません? ていうか考えてるでしょ絶対」
「後輩ちゃんがスィートポテトみたいで旨そうだなーって」
「何ですかそれ、プロポーズなら落第点です」
何故かダメ出しされて且つ蔑まれた。しかし続行する。
スッと細く伸びたまつ毛に健康的でニキビ一つない玉子肌、ハリのあるピンクの唇。活発そうな雰囲気が見てとれるが、その雰囲気はその類い稀な容姿と相俟って何処か背徳的かつ扇情的な────。
やめよう。
この思考は流石に卑猥だ。朝っぱらからどこのエロソムリエかっての。
二、三度呼吸を整え健全な心で改めて彼女を見つめる。
観察を始めたのにだって理由はある。俺がふと気になった彼女──俺が後輩ちゃんと呼んでいる彼女の、今まで触れていなかった髪と瞳だ。
その色は、灰色。
ショートボブで前髪を右に流した灰色の髪。そして大きな瞳の中にある虹彩は、灰色。瞳孔は少し黒よりだけれど、それでも認知できる限りでは間違いなく灰色だ。
「……なあ、後輩ちゃん」
「はい?」
「その髪って地毛?」
「当たり前じゃないですか!? この年で禿げてるからカツラとか止して下さいよ!」
「染めたりとかしてる?」
「へ? ……いやいや、してませんよ。ていうかそれ前も聞きませんでした?」
「そうだっけ?」
「そうですよ?」
何で貴女も疑問系やねん。
……まあでも、そういう事である。俺の言葉に対する彼女の反応のズレも、彼女の瞳と髪の色も。これらは決して珍しい事ではない。
寧ろ、黒髪黒目の俺が珍しい……らしい。
しかし、確固たる事実がある。
俺の知っている後輩ちゃんは間違いなく黒髪黒目だった。
「……あのー、先輩?」
「ん?」
「えっとぉ……流石に、なんと言いますか、うんと。いくらなんでも、そんなにマジマジと冗談抜きって感じで真っ直ぐ見つめられるとこっちもなんとなく恥ずかしくなってくるんですが……」
おうおう何か知らんが一丁前に顔赤くしてモジモジし出しましたけどこの子。
そんな後輩ちゃんに、俺はドキリとする事はなく。
世界が終わる刹那に愛する人へ思いを告げるような顔(主観)でゆっくりと近づいていき、戸惑いで顔を一層赤くする彼女を見据え────
「おぱんぽん」
「ていっ」
「ギャアッ!?」
的確に角膜潰しに来やがった!?
「もう、知りません! 一緒にいるのも憚る無類のキモさです! 先行ってますから一生そこで悶え死んでてください!変態! 変態役満テンゴク!」
一生悶え死ぬって何それ超やだ。矛盾して一層殺伐としてんじゃんかよ。後テンゴクって言うな!
眼球が回復した頃、辺りを見渡せば既に彼女の姿はない。今俺達が歩いていた道は学校へと続く一本道で、前に目を向けると既に目的地がここからでも視認可能だ。当然後輩ちゃんもそこに向かっていたのだけれども──。
もう一度言うが、彼女の姿は既に見当たらない。右も左も後ろも……そして前にも。
言い忘れていたが今の俺の立ち位置と学校までの距離は目算でも一キロ以上ある。一介の女の子がものの数秒で走破できる距離じゃない。そして彼女が身を潜めて俺を待ち伏せてる等と言う可能性も、この場合は無いのではないだろうか。
──だってここ、実質海の上だし。
本島と『学校』を繋ぐ全長二キロ強の幅数十メートルある巨大一本橋の真上だし。
「……にゃろ、ホントに置いてきぼりかい」
別に珍しい事ではない。
珍しくはないけれど。
俺は心中で線を引き一歩下がって、自分を棚に上げてこう言ってやりたい。
「──やっぱ『転移』って男心を擽ってくるよね」
二次元でやりやがれ、と。
まるで示し合わせたように、『学校』からゴウンゴウンと大きな鐘の音が鳴り響いた。
────やべ、予鈴なっちまった。
意識を切り替え学校に向かう。
後輩ちゃんに意趣返し出来た事にホクホクしながら。
髪の色だの目の色だの、今となっては些細な問題になってしまった事案を考えたってどうしようもないと思いながら。
※黒板の文字が英文なのは伏線だからです(鉄の意思)