Prologue『三人目』
稚拙ながらよろしくお願いします。
朧月が映える夜は気分が頗る良い。
狩りの場には最適で、何分仕事が捗り手をあぐねずにピンからキリに運べる気がする。
「…………ァ…………ガ……………………」
なんて綺麗な眼だ。
至高にして唯一、端的だからこそ映える泡沫のような心許ない光。
所謂、風前の灯火──死を前にした瞬間の眼とは、かくも狂おしい程に血沸き肉踊る。
君に請う。そんな目で此方を見ないでくれ。頼むから。ねぇ、頼むから。
致し方ない、しょうがないんだからさ。仕事だし。
やめてくれやめてくれ、そんな目をされたら、そんな目をされてしまったら。
私事に変わってしまうじゃないか。
ああああああ抑えきれない、この劣情が抑えられないよぉ。
ああ楽しいなあ楽しいなあ。
皮膚を剥がすの楽しいなあ。
髪をプチプチ抜くの楽しいなあ。
指を千切るの楽しいなあ。
脳漿啜るの楽しいなあ。
切開するの楽しいなあ。
内臓ぶよぶよしてて気持ち悪いなあ。
首がいっぱい回って可愛いなあ。
肉がプリンみたいに柔らかくて美味しいなあ。
痛いよねぇ、こんな事考える私。でも君も痛いだろう、だからイーブンだ、winwinだよ。
楽しいなあ楽しいなあキショイなあ楽しいなあ。
ああ、でもその可愛らしい目で見られるのももう終わり。他は全部『殺し』尽くして、あと残るのはその目を『殺す』だけなんだ。食後のデザートにこれ程の最適は無いよねぇ。
ごめんよ、ごめんよ。君は何も悪くないのに、君に旨味を求めてしまったばっかりに。
…………あ、でもよくよく考えてみれば君の魅力にも問題はあるんじゃないかな?
そうすると悪いのは君だね。うん、そう。
どうでもいいや、うん、どうでもいい。
それじゃ、どうでもいい君にお別れを言わないとね。
じゃあね、バイバイ、さようなら。
また会おうね…………ん、それは無理か。
もう会わないね。
ごめんね。
えいっ。
グリュッ
▼▼▼
『アアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!?』
木霊する絶叫。
丑三つ刻を迎えた喧騒が撹拌するネオン街の、末端付近の路地裏にて。
袋小路に反響した乱雑な声音は、男性特有の低い声に混ざるようにねっとりとした女性の高い声が混濁し溶解している──だけじゃなく。
まるで、ヘドロのように媚り付いてくる様相である。
『アギッ…………グ…………誰だ、誰だよッ…………!』
薄皮を全身ひん剥いた人体標本のようなヒトガタが毒を吐く。
肉の塊が無理やり人の形を象り眼球を押し込まれ泥を掘るように口を開けられた肉人形は、化物と形容するのが妥当で適当。
声の正体は彼の者だ。
原因は消えた片腕。足元に転がる肉片から『楽しみ』を拝借しようと地に着く程長い腕を向けた刹那に、根本から切り裂かれたのが発端である。
人形が痛覚に身悶える。骨格が無いのか、グネリグネリと身体を反転させて捻り狂う様は無脊椎動物を連想させる。
と、徐にもう片方の腕を足元の肉片──人間の亡骸に向けてゴムのように伸ばし、触手のように巻き取る。
そして、喰った。口を大きく横に裂き、一飲みに喰った。
直後、ブシュリと音を立てて内から這い出てきた自身の新調された腕を一別すると、肉人形は虚空をその長い腕で薙いだ。
そこには何もない。あるのはストリートアートとも呼べない稚拙な文字だらけの壁しかない。
しかし。
おかしな事に、切り裂かんばかりに迫る凶腕は、壁にぶち当たる直前で『直角に地面へ向きを変えた』
……いや、違う。
伸ばした先で何かが腕を押し潰していた。
間違いなくそこにいる。自身を透化するような奇術でも使っているのだろうか。
不可視からの攻勢を二度受け、しかし今度は悲鳴をあげることなく、肉人形は剥き出しの眼球をギョロリと一点へ注いだ。
「…………、重いんだけど。殺す?」
不快げに告げた『低い男性特有の声音』に反して、声は少量の熱を帯びている。節々に漂う狂喜は身体同様に爛れていた。
何て魅力的なんだろうか。
溢れる狂喜は、その思念から滲んでいるに違いない。
やがて姿を現す。
音は無く、浸透するかのように露になる光景にあったのは現れた事実と存在だけ。暗い背景に取って付けられた異物以上のそれは、その場の慘状には恐ろしく不釣り合いで、清々しさや白々しささえ感じられた。
それは、まごう事無き人間だった。それも、女の。
もっと言えば、彼女は少女と呼ぶに相応しい。
路地裏ゆえに僅かにしか届かないネオンの光さえ艶のある光沢に変える流麗な線の束は、染色とは程遠いナチュラルな銀色の髪。
彫りの深い端正な顔立ちは作られた違和感などなく、東洋人よりも欧米よりの容姿に近い。それを裏付けるように、染み一つない玉肌は東洋のそれよりも白い。
白のブラウスの上を黒のコルセットが包み、丈の短いフリルのスカートの下にはロングソックスが細くしなやかな御足を膝下まで覆っている。
その全貌、まさに羞月閉花。
月は恥じらい、花は閉じ、魚は深く沈み、雁も飛び方を忘れ落ちてしまう。
絶世、傾国、天香、仙姿。
人形のような、ではない。芸術的な、天災にも近いその姿は、時代が時代なら神格化され崇められていたやもしれない。
そして肉塊は身を震わせた。理由は彼女の浮世離れした美しさに──ではなく。
瞳。
何カラットの宝石にも劣らない美麗な瞳が、心底自分を侮蔑するように。生物的に嫌悪したその瞳に。
堪らなく身が震えて仕方ないのだ。
歪む。泥の仮面が愉悦に歪む。
歪む、歪む、歪む、歪む、歪む、歪む、歪む。
彼女の顔を歪めたい。
彼女の総てを余す事なく、啜りたい。
「旨そう」
全身を迸る肉欲。己の全てを組伏せる食欲。
統べる私欲全て。
あれを喰らえば、満たされるだろうか?
押し潰された腕を気にも留めずもう片方の腕を振るう。その速度も勢いも凪ぎ払わんと迫る角度も、最初の観察とは程遠い。必殺を渇望した欲望の止めどない発露をただただその一撃に込めていた。
一度当たれば人の身はおろか、コンクリートの石壁だろうと容易く砕く。それが生物共通の弱点である頭部であれば死は余りに近い。
吊るされたトマトに2トントラックが接触するようなものだ。
しかし。
一瞬、彼女がブレる。
直後、腕が細切れた。
既に剥かれた両目が更に開く。
彼女の動作が見えなかったからではない。
『切られる筈がなかったからだ』
細工を施しておいたのだ。それも、単純な強化や硬化等と言う陳腐な雑作ではなく、概念に作用するくらいの上質な細工を。
だからこそ、目の前の光景に思わず呆けた。
鎌だ。
彼女の身の丈を優に越える、路地裏で使うには恐ろしく不都合で大きすぎる、柄だけで三メートルはある巨大鎌。刀身を含めればそれ以上だ。
そんな巨大鎌の柄を中程で持ち振り抜いた姿勢でいる彼女。片腕で、虫を振り払ったかのような軽い
所作のどこにあんな膂力があったと言うのか。
あの細腕のどこに周りの壁ごとこの腕を斬る力があるのか。
いやそれよりなにより──
(あんなチンケな鎌畜生で、斬ったというのか)
哄笑。
殺意を向けられながら。
腕を斬られながら。
切っ先を突き付けられながら、化け物が笑う。
空を仰ぐ。
月が一つ、孤独を嘆くようだった。
「…………朧月が映える夜は、気分が頗る良いんだ」
詠うように。
「…………アレの輝きが忌々しくてね。今にも溶けて無くなりそうなのが堪らなく嬉しいんだ」
嘲笑う。
ピシッと、殺意の度合いが増した気がした。
それでも続ける。
開戦の狼煙をあげようと。
告げた。
「──実際、無くなっちゃったもんね?」
直後に二つの影が距離を縮める。殺意と凶喜が互いをバラバラにせんと今、闘争へ躍り出る。
ポツリと言葉が発せられた。
「本当…………、儘なる世界だ」
▼▼▼
「……………………?」
違和を感じ、衝動的に振り向いた。が、当然ながらそこには何もなく、あるのは自分の通った道だけ。
気のせいか、と少年は首を傾げる。
なんとなく空を仰いだ。
あるのは月が一つだけ。一つだけ、寂しそうにそこで自分を見下ろしていた。
ふぅ、と少年の口から嘆息が溢れる。
「…………儘ならないなぁ」
誰に向けるでもなく声が出たが、気にはしない。
切なく笑う声が聞こえた気がした。
少年は、再び歩を進める。