縁結びの本様
大祐がドアを開けると、そこは本の森だった。
書斎に並び立つ本棚には、数多の本がきっちりと背表紙を見せて整列している。
「へぇー、よくもまぁここまで」
SF、ミステリー、実用書にエッセイ。純文学に哲学書、恋愛小説に写真集。そのうちの一冊、人を撲殺できそうな重さの美術書を手にとって振り返る。
「ばあちゃん、これ全部持っていくのか?」
「そう。全部お願いね。私も後で行くから」
庭へ出ていく祖母の後姿にがっくりと肩を落とし、覚悟を決めて腕まくりする。
「ま、これから何かと物入りになるしな」
推薦入試で第一志望の大学に合格し、一息ついたのは数日前。来るべき冬休みを遊んで暮らすため、お小遣いをくれるという祖母の蔵書整理を手伝いにやってきたのだ。
祖母の小夜子は、大祐が両親と暮らす家からほど近い一軒屋に住んでいる。いわゆるスープの冷めない距離というやつだが、この書斎に入ったのは初めてだった。
「お、これだけ手作りカバーつきか?」
見渡す限り本だらけの書斎だったが、片隅の机には古びた文庫本が一冊置いてあるだけ。変色したページをめくるも、何も書いていない。カバーを外すと『こころ』というタイトルが手書きされていたが、著者名や出版社名などの情報はなかった。
「あの有名な本、って訳じゃないのか」
国語の授業を思い出し、ぶるると身を震わせる。大祐にとって本とはマンガの事であり、ページいっぱいに文字が詰まっているものなど睡眠薬に等しい。
ページにかけた親指を滑らせてぱらぱらと繰る。何も書いていない文庫本に興味が失せ、机上に戻そうとしたところで手を止めた。
文字を目にしたからだ。
『君はだれだ』
最後のページに一言だけ。
「なんだこりゃ」
頭に疑問符を浮かべる大祐の前で、次の文字が現れた。
『では、質問を変えよう。先ほど小夜子と話していたな。ばあちゃん、と呼んでいたようだが。君は彼女の孫か?』
えっ、と息をのんだ。どうして祖母の名前が出てくるのか。
「まさか……うーん、まだ目がかすむような年じゃ」
大祐は目をこすり、ぎゅっと閉じてから再び開けてみる。
『君が小夜子の孫ならば、彼女が話していた客人というのは君のことかな?』
文字は消えるどころか増えていた。
「うっ……ばあちゃん、ばあちゃーん!」
慌てふためいて本を閉じ、大祐は祖母のもとへと走った。
「ばあちゃん! 変な本があるんだけど」
庭に出ると、彼女は自分で運び出した本の要不要をえり分けている作業中だった。
「あぁ、そうそう。大ちゃんにあげようと思って別にしておいたのだけど、すっかり忘れていたわ」
「くれるって言われても……俺は本なんか読まないぞ? ばあちゃんだって知ってるだろ」
祖母に文庫本を渡すと、目を細めてページをめくっている。
「ふふっ、これはあなたが読む本じゃないの。本があなたを読むのよ」
「……はぁ?」
「あら、言い間違えじゃないわよ?」
彼女はいたって真面目な顔だったが、ちらりとページを見たとたんに怒りだした。
「まぁ! 大ちゃん、あなた私がボケたと思ってるの?」
「え? あぁ、うん。二重の意味で」
「今、何で分かったのかと思ったでしょう」
「そうだけど……」
「俺はそんなに顔に出る方だったかな……いくら何でもおかしい、と思ってる」
そうだ――あまりにも的確すぎる。
思わず一歩後ろに下がると、笑みを浮かべた祖母は本を大祐に向けて突き出した。
『一体何が起こってるんだ?』
たった一行。
白いページに書かれた文章は、大祐の思考そのものだった。
「これで分かったでしょう。この本はね、人の心を読んでページに表示するの。『こころ』という名前も、そこから私がつけたのよ」
「分かったというか……なんというか」
『まぁ、驚くのも無理はない。五十年前、古本屋でわたしを見つけた小夜子もそうだった』
大祐は『こころ』を受けとり、ごくりと唾をのんだ。今正に目の前で、ページに一文字ずつ文字が現れて文章を作っていく。それこそケータイやパソコンの液晶画面のように。
『単なる本である筈の私に自我と意志を認めた小夜子は、丁重に扱ってくれた。私はその恩義に報いるべく、彼女と想い人の仲を取り持ったのだ』
「もしかして、それが死んだじいちゃんか?」
人の心が読めるのなら、恋愛においてもさぞ大活躍したことだろう。
「正解! つまり、大ちゃんが生まれたのは『こころ』のおかげでもあるのよ」
その言葉と共に『こころ』はページを曲げ、ぴょんと祖母の手に飛び移った。
「大ちゃんが前に言ってたのを思い出したの。男子校なんかに入るんじゃなかった、大学生になったら絶対彼女作るんだーってね。だからこの子にあなたを助けてくれるようお願いしたのよ」
にっこりと笑う祖母の手のひらで、文庫本は胸を張るかのようにページを開いて立った。
『恩人のたっての願い。わたしが君の元へ行くのはそういう理由からだ。よろしく頼むよ、大祐君』
人語を解し、自力で動くことも出来る文庫本、『こころ』。
彼――物言いが紳士的なのでこう呼ぶことにした――をかばんに入れて登校するようになってから数日が経っていた。
「おーい大祐、お前ヒマだろ? これからゲーセンとかどうよ」
放課後の友達の誘いに、以前なら喜んで席を立っただろう。
『っかー、一足先に遊べるなんて、推薦合格っていいねぇ!』
大祐はちらりと『こころ』のページに目を走らせ、ごくりと唾を飲み込んだ。次々と文字が浮かび、文章となってゆく。
『おーおー、合格ってデリカシー無くても出来るのか。空気読めよ』
『ったく、なんであんな奴が合格なんだ?』
無遠慮な一言に、教室の雰囲気が一気に刺々しくなる。彼はまったく気づいていないが、大祐の方はそうもいかなかった。
「悪い智樹、今日はパス。最近ばあちゃんがすっげぇ厳しくなってさ、合格したからって気を抜くなってうるさいんだ。本でも読めってがなりたてて、俺のマンガコレクションを封印したんだぜ? マンガだって本だっつーの」
適当な嘘をついてから、さもやっていられない、という風にため息をつく。
「うわ、マジかよそれ。今までだって我慢してたんだろ? 合格しても封印とかないわ」
「そう思うだろ? がっかりだよなぁ」
ページを見ないよう急いで『こころ』を閉じて、逃げるように教室を出た。人気のないところまで歩いてから、改めて話しかける。
「あのさ、こころ。悪いけど、ばあちゃんのところに帰ってくれないか?」
『何故だ? 君に協力するように、というのが小夜子の依頼なのだが』
「受験生の胸の内なんて読むもんじゃねぇな……面白そうとか思った俺がバカだった」
他人の心を覗くという行為に、後ろめたさを覚えながらもわくわくしたのは最初だけ。今はただ食傷のみである。
疲れたときには甘いもんだよな、と呟いて『こころ』をかばんにしまう。ごそごそ動くかばんを一叩きして、行きつけの喫茶店へと向かった。
「あー、今日はあの席埋まってるのか」
喫茶店の片隅、人目に触れない一番奥が大祐の指定席だった。だが、今日はそこに男性四人組が座っている。
「ま、ここでもいっか。知ってる奴が来れば分かるし」
指定席の隣のテーブルに荷物を置く。男がスイーツにうっとりしているところなど、知り合いに見られたいものではない。
苦みばしったコーヒーと季節の果物を使ったタルトがこの店の売りで、甘党の大祐には最高の癒しスポットだった。高校生の財布にはいささか厳しい値段なのだが、先日の労働で懐は暖かい。
財布を取り出そうとかばんを開けたら、いきなり『こころ』が飛び出してきて大祐の顔にぶつかった。
「ぶわっ、ちょ」
『人をいきなり閉じ込めるとは何事だ!』
「こ、こら! 静かにしろ」
暴れる『こころ』を押さえつけながら、大祐は人目を気にして小さな声になった。『こころ』が声を出せなくてよかった、と一息つく。
文庫本を手に持ったままコーヒーとタルトを買い、席に戻る。
『まったく君という奴は……小夜子の頼みだから力を貸してやっているのに』
「なら、ばあちゃんのところに帰ってくれよ。さっきだってそう頼んだじゃないか」
『何故だ? きちんと役目は果たしているのに、何が不満なのだ』
「不満っていうか、人の心を読んだっていい事ないって分かっただけだよ。ばあちゃんは何だって俺にくれたんだろ。大体、しゃべって動く本なんてどう考えてもおかしいし……」
『キサマァァ! 言うに事欠いてこの私を役立たずと抜かすか! 何たる愚弄、何たる屈辱! おのれ、表に出ろォ!』
「おい、ちょっとっ!」
どうやら彼の逆鱗に触れてしまったらしく、文庫本の見開きいっぱい、怒涛のごとく文字が現れては消える。というか、前のそれが消えるのも待たず次の文字が押し入り、『表に出ろォ!』の後は何を言っているのかさっぱり分からない。
暴れる『こころ』を押さえていると、隣席の男性たちに殺気のこもった目で睨まれた。
「す、すみません。俺、声に出して読んじゃう癖があって」
慌ててごまかすと、ぶつぶつ言いながらも彼らは視線を戻した。しかし、その後も時折ちらりとこちらに目をやってくるのが分かり、どうも落ち着かない。
(何だよまったく。別にそんなうるさくなかっただろ!)
何の気なしに、横目で隣のテーブルを見る。
広げられているのは何枚かの書類と写真だ。写っているのは近くの宝石店らしく、ペンで書き込みがされた地図もある。何を話しているのか気にはなるが、隣席といえど多少の距離とガラスの間仕切りがあるので、内緒話は判然としない。
(……何かイヤーなにおいがするなぁ。うちに空き巣が入った時もこんな感じだったっけ)
コーヒーを飲み、ブルーベリーのタルトを一口。至福の香りでも消せない、奇妙な感触だ。
「こころ、こころ。どうかな、お前さえよければ力を貸してもらいたいんだけど」
『人を閉じ込めたり押さえつけたりしておいて、今さら何の用だ。それに君は、私を小夜子のもとへ帰すのではなかったか?』
「ごめん、俺が悪かったよ。でも、お前なら分かるんだろ? 隣の四人組が何を話してるかぐらい」
彼が心を読むことができるのは、持ち主に限らない。範囲は限られるものの、周囲の人間の秘密も丸見えになることを、大祐はここ数日で嫌というほど味わっていた。
『無論だが……なぜだ? 先ほど君は言っていたではないか。他人の心を読んだところでいい事などないと』
「そう、なんだけど……さ」
タルトをフォークで刺す。最後の一口をじっくりと味わった。
「人の心を読んだっていいことなんかない。本当にそう思うよ。けど、今回は証明しないと安心できないんだ。ドラマの見すぎ、考えすぎだった、俺がバカだったって」
『何を証明するというのだ?』
「初対面の時みたいに、俺の心を読めばいいさ。それで理由は分かるだろう」
カップを傾けて、最後のコーヒーを飲み干す。しばらくして、白いページに小さく『君の心配は分かった』と文字が現れ、その下にパソコンのチャットの様に会話が表示された。
『男1 いいか? 俺達二人が陽動、お前ら二人が本命。仕事に使える時間は十五分だけだ。さっさと終らせろよ』
『男2 分かってるさ。そっちこそ頑張って警察をかき回すんだな』
大祐はここで一旦『こころ』を閉じ、席を立つ。カップと皿を片付けてから店のトイレに篭った。後はゆっくり会話を読むだけだ。
『男4 換金役にモノを渡す場所は?』
『男3 あーあ、しっかりして下さいよ。ここの橋の上から、僕に戦利品を落とす手はずになっていたじゃないですか』
『男1 今さら面子を変えるわけにはいかない。決行は三日後、速やかに換金して取り分の受け渡しは一週間後だ』
その後も数行会話が表示してから、ページは白く戻った。
『それで? 君はこれからどうするつもりだ?』
ページに浮かぶ問いかけに、開きかけた携帯を閉じてトイレを出る。
「物証はないし、お前のこと聞かれるのも面倒だ。公衆電話で匿名の通報ってことにしとくよ」
きっかり三日後。強盗計画を実行に移そうとしていた四人組の逮捕が報じられ、ほっと一安心の大祐である。
「考えてみれば、こういう使い方もありだよな、お前の力。ちっとも思いつかなかった」
『そうか? 小夜子も似たようなことをしていたぞ』
学校の帰り道、かばんから『こころ』を出して広げる。
スリに痴漢やひったくり、その他諸々。人目を引かぬよう注意するであろう犯人も、心の内までは隠しようがない。そして大祐も、知ってしまった以上は見過ごせなかった。
もちろん警察官でもない一般人に出来ることはたかが知れていて、大事にならぬようこっそり立ち回るしかないのだが。
「似たような事って何だよ?」
『気に入らない奴の弱みを握って黙らせたり、攻撃を避けたりする事はもちろん、人心の掌握も実にうまいものだった』
「うわー、すました顔で何やってんだあのババァ」
祖母の新たな一面を目にして、少なからぬダメージを受けた大祐である。
『おい、大祐君。あの老人はただならぬ顔色ではないか? 胸の内も不安と焦りでぐちゃぐちゃだ』
「お? あぁ、分かった」
進行方向から、杖をついた老人が歩いてくる。
「すみません、お顔の色が優れないようですが、どこかでお休みになった方がよろしいのでは?」
「え? いや、大丈夫ですから。お構いなく」
会釈して通り過ぎようとする老人。ちらりと『こころ』に目をやると、『早く……早く示談金を振り込まねば』とある。
(振り込め詐欺じゃねーか!)
「だ、ダメですよ! 失礼ながら、ちっとも大丈夫そうに見えません! すぐそこに交番がありますから、お巡りさんに助けてもらいましょう。俺のばあちゃんも大丈夫って言ってて、去年倒れたんです」
適当な嘘をつきながら、老人を交番へ連れて行って通報。後は警察官が来る前にとっとと逃げるに限る。
「すみません、俺は用事があるので失礼します。絶対に振り込んじゃ駄目ですよ!」
こっそり人助けをする身にとっては、人のいない交番は実にありがたいものなのだ。
「おーい大祐、もうすぐ正月だってのにお前最近つきあい悪ぃよなー……って顔色も悪くね? 腹でも壊したか?」
「あー、そうなんだ。ごめん智樹。この頃ちょっと腹の調子が悪くてさ。先に帰るわ」
放課後の教室。ギスギスした空気は相変わらずで、他の奴にも早く春が来ますように、と思いつつ席を立つ。
『たまには人助けを休んだらどうだ? もう一月くらいになるか、君はほぼ毎日駆け回ってきた。このままでは体がもたないぞ、バランスを考えたまえ』
いつものように開いた文庫本には、大祐の体調を気づかう一行がある。
『協力しておいてなんだが、君のような若人にはいささかきついのではないかね? 痴漢や盗撮魔やら下着泥棒やら、卑劣漢の心を読むなど。まだ達観できるような年でもないだろう』
「い、いや? 別にそんなことないさ」
『そうかね? 疲れ果てているように見えるが』
言い返す気力も無くなって、『こころ』をかばんにしまう。やっとの思いで駅にたどり着き、ベンチに倒れこむように座った。心も体もくたびれているが、目は夕方のホームに集まる人々をざっと眺めている。
なんとなく、惰性で怪しい奴を探してしまっているのだ。――幸いにもいなかったが。
(そりゃあ俺も男だから、気持ちは分かるよ。可愛い女の子とか、綺麗なお姉さんにはお近づきになりたいさ。だけど、あんなに気色わりぃもんだったとはなぁ。同じ男から見てもあれはねぇぜ)
男たちの胸中もそうだが、被害にあった女性たちの顔に浮かぶ恐怖と嫌悪、冷たい蔑みの視線には震え上がった。
無実の身ながら、「男に生まれてごめんなさい!」と叫びたくなったくらいだ。
その点で『こころ』の指摘は実に正鵠を射ており、もはや大祐はいっぱいいっぱいなのだった。
「よし、決めた。今日は何もしないで帰るぞ。帰ったらゲームやりまくってやる」
ホームにアナウンスが流れ、電光掲示板に『電車がまいります』の文字が赤く点滅する。大祐がベンチから立ち上がると、その脇をスーツ姿の中年男性が通り過ぎた。
「なんだ、あれ」
その男性からは、おおよそ表情というものが感じられなかった。大祐がすっかり慣れてしまった『イヤーなにおい』がするのにも関わらず、今までのおぞましい輩とはまったく違う顔つきでふらふら歩いてゆくのだ。
『おかしいな……あの男性には言語化できる思考が存在しないぞ。こんな人間はそうそう居るものではないのだが』
「だから、要するにどういう事なんだよ?」
『彼の頭にあるのは、まっすぐ前に進む事だけだ』
その一行を見ても、すぐには分からなかった。
電車に乗ろうと客が列を作っているホーム。大祐の隣でベンチに座っていた人達もその列に加わり、駅員は電車が来ますと声を張り上げている。
大祐がページから顔を上げた時、男性は列から外れた場所をホームの端へと進んでいた。冬の冷気がふるえ、金属がきしむブレーキ音が迫る。
「だめだーっ!」
理解すると同時に体が動き、列車のすべり込む線路にあと一歩のところで男性を引きずり倒した。大祐の顔のすぐ傍を車両が通り過ぎて、風に髪があおられた。
「どうして……あと少しだったのに! なぜ邪魔をするんだ!」
「誰がやらすかこのボケっ! 目の前で死なれちゃ迷惑なんだよ!」
啖呵を切ったついでに拳を固めて殴る。少しすっきりした。
「ふぅ」
「すごいじゃないか、君!」
息をついて立ち上がると、肩をばんばんと叩かれた。振り向くと笑顔の駅員がいる。
「自殺しようとしていた人を助けたんだ。なかなか出来ない、素晴らしいことだよ!」
拍手をし始めた駅員に誘われるように、周りの客にも拍手が広がってゆく。
笑顔と口笛に囲まれて、大祐は冷や汗と頭をかいた。突然の救出劇にわくホームからは、いつものように人知れず姿を消すなど出来そうにない。
(あーあ。今日は早く帰ろうと思ってたのに)
何とか笑顔を作ってぺこりとお辞儀をする。
ゲームはしばらくおあずけになりそうだった。
あの救出劇からこっち、大祐の顔と名前はそれなりに知られるようになった。
「あ、あの! あの時駅であなたの事見てました! これ、私が作ったクッキーなんです。よかったら食べてください!」
「あ、ありがとう」
学校からの帰り道。固まっている大祐の前で、お辞儀をした女子高生が脱兎のごとく去ってゆく。
救出劇をやらかしたのは、通勤通学客でごったがえす夕方の駅である。客の中には当然年頃の乙女もいたわけで、制服だけで大祐の身元を突き止めるのは簡単ではないが、不可能というわけでもない。結果として、見知らぬ少女に声をかけられることが増えた。
地元紙の取材を受けたり、大祐が今まで助けてきた人々が「自分を救ってくれたのはあの少年だった」と言い出したりしたこともあって、母などは鼻高々で会う人会う人に事の顛末を話しまくる始末である。
駅前のベンチ座り、先ほどの女子高生がくれたクッキーをほおばった。
「こころ、本当にありがとう! 人生でこんなにも……こんなにも女の子と話せる時が来るなんて! 俺は幸せだ!」
『喜んでもらえて何よりだ。私も君の力になれて嬉しいよ』
小さな包みのクッキーを食べ終えて、満足感と共に立ち上がる。『こころ』をしまおうとして、ページに新しい一行を見つけた。
『この先右手、百メートルほど行ったところにガラの悪い連中がたむろしているな。君の事を良く思っていないようだ』
「そっか、ありがとう。じゃ今日はちょっと遠回りして帰るか」
女性と知り合う機会が増えたのはいいが、絡まれたり、取材と称してつけまわされたりする事も多くなった。顔が売れてしまったせいで人助けがしづらくなり、しなければしないで世間の目というモノがある。
「お、智樹からか」
歩き始めてすぐメールに気づき、ぱちんと携帯を開く。
『巷でいろいろ言われてるみたいだけど、女子の人気急上昇のお前は気にしてるヒマねぇよな? っていうか可愛い子いたら紹介しろ。いえすみませんでした大祐さん紹介してください! 頼むから! お願いだから!』
液晶画面の文字にぶふっ、と吹き出して携帯を閉じる。
『どうした? 何かあったのか』
「いや、なんでもない。……そういや、ばあちゃんも絡まれたりした事あったのか?」
歩きながら『こころ』に問う。
『そうだな。小夜子も、他のどの持ち主も、私を手にしたことで人生が変わってしまったようだ。良くも悪くも、な』
「げ、やっぱり」
『でも、小夜子は転んでもタダでは起きなかったぞ? 最終的には自分の望みを叶えて、好いた男と結ばれたのだ』
「そうだったっけ。でも、死んだじいちゃんがお前のこと知ったらなんて言うかな」
『勘違いしてくれるなよ? 私がしたのは助言だけ。幸せを手に入れるため、努力したのは小夜子自身だ』
「分かった分かった、それで俺にも努力を惜しむなって言うんだろ。彼女がいるバラ色大学生活のためなら、何だってしてやるさ」
拳を固めたところで北風に吹かれ、ぶるっと震えた。コートの襟を立て、手に息を吐きかける。
「という訳で、これからもよろしくな、『こころ』。頼りにしてるぞ」
『まかせておけ。私に出来ることなら、何でも力になろう』
その一行を読み終えてから『こころ』をかばんにしまう。空を見上げる顔が、何故かにやついてしょうがなかった。
自宅の玄関扉を開けた大祐を、見知らぬ靴が出迎えた。奥から母と誰かが話している声もする。
「客でも来てんのか? 今さら取材って話もないだろうし……ただいま!」
靴を脱ぎながら声を上げると、お帰りという返事と共に母が出てくる。客について聞いても何も言わず、どうしてか満面の笑みを浮かべて手を引っぱるばかりだ。
「こんにちは。あなたが地井大祐さんでいらっしゃいますか?」
「そうですけど……えっと、どちらさまで?」
茶の間にいたのは少女が一人。大祐の知識が正しければ、彼女が着ているのは有名なお嬢様学校の制服のはずだ。背に流れ落ちる黒い髪が、お辞儀をした拍子にさらりと揺れた。
「わたし、先日あなた様に父を助けて頂きました高橋沙織と申します。その節は本当にお世話になりました。母はまだ入院中の父につきっきりなので、また後でお伺いする事になると思います。どうしてもお礼を申し上げたくて、本日はわたしだけお邪魔致しました」
桜色の唇が柔らかく微笑み、もう一度お辞儀をした。
「お恥ずかしいことに、父が自殺を考えるほど苦しんでいたなんてちっとも気づかなくて。あの日父を助けて頂いて、本当にありがとうございました。もし父が亡くなっていたらと思うと……」
黒目がちの目に涙があふれ、ぽろりと零れ落ちる。
「いや、そ、そんな大した事はしていませんよ! それに、困った時はお互い様って言いますし!」
面接の時にしか使わなかった敬語も、ポケットから出したハンカチを渡す動作もなんとかやりとげた。横目で母を見ると、『がんばれ』と口が動くのが分かる。
その後の茶飲み話で、彼女が自分と同い年で、しかも同じ大学に進学すると知り、大祐は神という神全てに感謝した。もうこれ以上はないというくらい真面目に。
「それで、あの……不躾なお願いなのですが、大祐さんさえよろしければ、わたしとお友達になって頂けませんか?」
「よ、よろこんで!」
ブシツケという日本語がどういう意味なのかは分からなかったが、メールアドレスの交換も無事終了。
帰る彼女を駅まで見送ってからトイレに飛び込み、鼻息も荒く『こころ』を開く。
「おい、こころ! 沙織さんが俺のことどう思っていたか教えてくれよ!」
『いやいや、男女の間に部外者が入るなど無粋と思わないかね? そういう事は自分で聞きたまえ』
「なんでだよ? お前、俺が彼女作れるようにって頼まれて来てくれたんだろ! じいちゃんとばあちゃんをくっつけたっていう話は嘘だったのか?」
大祐の言葉に、沈黙を表す記号でページは埋め尽くされた。次の文章が表示されたのはたっぷり時間をおいた後――しかも、カタツムリの這うがごとき速度である。
『いやその、言い忘れていたのだが……私は女性の心を読むことは苦手なのだ。先ほども試したがうまくいかなかった。第一、女性の心はころころ移り変わりが激しすぎるし、非論理的でよくわからん。小夜子の時は相手が男性だからよかったのだが』
「……はぁ? 今さら何言ってんだ、ざけんなよてめぇ、この役立たずの古本が! 流してやる! ページ破ってケツ拭いて、トイレに流してやるからな!」
大声の独り言が聞こえる個室が不審に思われ、駅員にノックされたのは十分後のことだった。