よくある政略結婚
「エド」
「おや、どうなさいました兄上」
ノーザンラントの第二王子エドワードとその妃の暮らす離宮に、王太子ウィリアムが現れたのは、秋も深まる月の夜だった。
「先週の礼だ」
「仕事です。礼など不要ですよ、兄上」
「だが助かった。お陰でこちらから先手を打てる」
弟王子が困ったように笑うのを片手で制し、王太子は椅子へと腰をおろした。夜光が金の髪に跳ね、鱗粉のように踊る。
ごく普通な容姿を持って生まれたエドワードに対して、ウィリアムは、若い娘ならずとも誰しもが夢中になるような、完璧な容貌の持ち主だった。黄金そのものの色をした柔らかで豊かな巻き毛に、天上の青を閉じ込めた瞳、華やかさの中に知性と勇敢さを滲ませる顔立ち、すらりと伸びた背に長い手足。物語の主人公たる王子とはこうでなければ、という見目なのである。あまりにも似ていない、光と影どころか天使と農夫くらいは違う、と誰しもが口にしたが、本人たちは全く気になどしていなかった。曰く――母親が違うのだから当然である、と。
傾国の一歩手前まで行った美しい正妃の子、それが王太子である。既に婚約者があった彼女のあまりの美しさに、王が略奪した王妃。それに彼は生き写しであった。そしてエドワードはというと、見目はごくごく平凡ながら、賢妃と呼ばれる第二妃の子であった。
「お前は本当に、人から何かを聞き出すのが上手い」
「どなたも私を警戒なさいませんからね」
楽しげに笑う弟の、平凡な瞳の奥底に潜む狡猾なほどの知性に、親しくない人間は気づかないのだ。平凡さを利用する者がいるなど、誰も考えない。平凡な見た目だが凡人ではないのだ。つくづく敵に回したくない男だと、王太子は肩をすくめる。
そこで、こんこん、と扉が鳴った。眉間を寄せた兄に微笑みをひとつ投げて、弟が声をあげる。
「どうした?」
「お夜食はいかが、旦那様?」
親しい者への軽口らしい口調にエドワードが、もらおう、と応えれば、扉が開く。しとやかな仕草で頭をたれて、現れたのは第二王子の妻、メアリだった。
「エド、王太子様とおしゃべりなさいますのでしょう。サンドウィッチなど用意させました。王太子殿下が、良いワインを下賜くださいましたし」
「ありがとうメイ」
エドワードは慣れ親しむものへの笑みを向けた。メアリははにかんだように微笑む。
彼女は他国の王家から嫁いできた姫だった。恋物語ならば美姫が嫁いでくるものだが、彼女はどこにでもいそうなごく平凡な顔立ちの娘である。しかし、見た目において特筆する点のない夫と並ぶと、まるで長年の夫婦のように見えた。とはいえ彼らの結婚生活は実のところ、まだ半年にも満たない。
「ご兄弟でのご歓談、お邪魔いたしまして申し訳ございません。ようこそ、殿下」
極普通の見目を持つ娘は微笑んで、バスケットを片手に歩み寄る。
「お前の妃は気が利くな」
「ええ、自慢の妻ですよ」
「惚気も大概にしろ」
軽口を叩く王太子に笑みを見せ、メアリは兄弟の座るテーブルに、ワインとサンドウィッチを並べる。それからかごのそこからブランケットを取り出して、夫と義兄に差し出した。
「そろそろ雪の季節でございましょう。暖かになさって、お風邪など召されませんよう」
「気をつけよう」
「お前も暖かくして休みなさい」
「では、先に休ませていただきますわ。でもエド、ご無理はなさいませんように。王太子殿下も、ご自愛くださいませ」
メアリは夫の頬に当然のようなくちづけを落とし、己の頬でも受け止めると、それではおやすみなさいませ、と扉の向こうに消えた。王太子が息をつく。
「手馴れていたな」
「出先などで時々、ふたりで夜食を摂るのですよ。もちろん、女官たちには内緒で」
「……仲の宜しいことだ」
いわゆる政略結婚だろうに。つぶやけば、弟は苦笑を滲ませる。
自分も政略で妃を迎えたウィリアムだが、夫婦仲は良いとは言えなかった。王太子妃はノーザンラント国内随一の公爵家の第二子で、ウィリアムに並び立っても劣らない美貌の持ち主である。しかし、それは災いでもあった。王太子夫妻はお互いに――美しすぎたのである。
妻も夫もそれぞれに、人目を引かずにはいられない美貌である。年若い時分から、自らの美しさを、人を虜にして自らの願いを叶えることに利用してきた。自然、その身を取り巻く噂は放埒なものが多くなる。王太子もその妻も、自分が美貌であるからして、相手の美しさには頓着しない。相手への評価から見目を除いてしまえば、互いの印象はそう良いものではない。
月と太陽のように美しさの相乗効果を狙えればよかったが、この二人の場合は二つ太陽があるようなものだった。そのせいで、いつのまにやらすっかり『好敵手』としか言えない存在になった王太子とその妃である。
「妻には共犯者でいてもらわなければなりませんから。仲が良いに越したことはないでしょう」
「照れ隠しなのは分かっているぞ」
「兄上は手厳しい」
エドワードは微かに頬を染め、それから小さく息を吐いた。
「……しかし義姉上と兄上も、うまくすれば共犯者になれそうなものですがね」
*
わたくしの名はシャーロット。シャーロット・アンナ・ミリアム・オーガスタス。
ノーザンラントの現宰相である父・オーガスタス公爵の長女として、生まれたその日から婚約者であったウィリアム王太子殿下に、二年ほど前に嫁ぎました。
生まれた日から定められた婚約者、つまりは政略結婚です。父の政治的発言権を確固たるものにするため、王家の国内の地位をより安定させるため、新興の成り上がり貴族を牽制するため……などなど。諸々の利点のある、まあ、よい結婚相手だったと言えましょう。
殿下とわたくしの夫婦関係も、よくある政略結婚らしい、付かず離れずのものです。恋愛感情はありませんが、王太子と王太子妃としては、外交や社交においてうまく協力できているのではないでしょうか。王太子殿下はノーザンラント貴族随一と言われる美貌の男性として名高く、お若い頃にはそれなりの浮名を流していらっしゃいましたし、わたくしも嫁ぐまでは『社交界の華』などと大袈裟な呼称を頂いていましたから、その手の物事を処理することは得意だというわけです。
今のところは愛人問題なども起きておりませんし、あとはわたくしが身籠れば完璧なのですが、そればかりは神のみぞ知る、というものですから仕方がありませんね。それ以外はこれといって不満もありません。
……と、思っていたのですが。
最近、殿下の様子がおかしいのです。
公務中はいつも通り、完璧なほほ笑みを浮かべ、そつのないやりとりをされていらっしゃるのですが、晩餐も湯浴みも終え、寝室であとは眠るのみの自由時間を過ごしている時が、妙なのです。
窓の外をぼんやり眺めていたり。刺繍をするわたくしの手元をじっと睨んでいたり。なにやら書き付けては書き損じ、暖炉に紙片を放り込んだり。妙に深々としたため息をつかれたり。寝付きが悪いのか、何度も何度も寝返りを打たれたり。そんな仕草が、もう何日も続いているのです。
婚礼からこちら二年、眠る前のこの時間は殿下も、ご自身の趣味や読み物に没頭しておられました。空き時間を無為に過ごすような方ではなかったのです。
一体殿下はどうなさったのでしょう。これはまるで、恋する乙女のようではありませんか。ついに愛人でも出来たのでしょうか。側室を入れる時の正妃のお作法は、どのようなものだったかしら?
とはいえ、殿下は遠出もなさいません。毎晩寝室でお休みになられますし、何日かに一度はわたくしの肌に触れられます。想う方が他所にいるとしたら、いつ時間を作っているというのでしょう。今の殿下は、浮名を流されていた数年前が嘘のように、夫として誠実な態度なのです。
……あら、今日も。
読書をするわたくしの手元を、じっと睨みつけていらっしゃいます。
「あの、殿下?」
意を決して声をかけてみたものの、お返事はありません。わたくしの声に気づいていらっしゃらないのでしょう。
「殿下?」
あまり睨まれると、読書に集中できなくなりますから、やめていただきたいのですが。
「殿下!」
ああもう、そんなに眉間にしわを寄せて。お綺麗なお顔立ちの無駄遣いですわ。
「王太子殿下!」
「あ……ああ、なんだ」
「なんだ、ではございません。なにかありましたか?」
「いや? なにもないが……貴女こそ何かあったのか?」
わたくしは呆れる他ありませんでした。殿下ときたら、ご自身の挙動不審さに、お気づきではないのでしょうか。
人に睨まれるのは、居心地の悪いものです。殿下のような美貌の殿方となればなおのこと。探るような目つきではないとはいえ、外交行事や議会でもないのに、そのような思いをしたくなどありません。わたくしにとって寝室は、くつろぐためにあるのですから!
自分の環境は自分で守らねばなりません。そして、わたくしはそれほど気が長い方でもなければ、諾々と殿方に従うような性格でもありません。不快はさっさと取り除かねば。
「わたくしは何もございません。——それより殿下、最近なにかお悩みではございませんこと?」
殿下の綺麗な眉が、更にぎゅうと寄りました。お心当たりはあるようです。
「なにゆえそう思う?」
「秋の園遊会の後から、殿下のお仕草がおかしいのですわ。ご自覚はありませんの?」
「……おかしいか?」
「ええ。ため息をつかれたり、お庭を見つめたり——まるで恋する娘のようですわ。園遊会で、どなたか意中の方でも見つけました?」
「……まさか!」
ぱっちりと、殿下が瞳を見開かれました。冬の空のようなお綺麗な青ですが、呆然、といった風情です。わたくしは近々考えていたことを聞いてみることにいたしました。
「それに、先週殿下がエドワード様の離宮にご挨拶に行かれてから、なんだかわたくし、殿下に睨まれてばかりです。……ひょっとしてメアリ様がお気に召しましたの? 弟殿下から略奪愛は冗談になりませんわ」
「私が略奪愛などするはずがないだろう!」
殿下が声を荒らげられ、わたくしは慌てて口をつぐみました。殿下にとって『略奪愛』は禁句で、一歩間違えば逆鱗であることを、うっかりと失念していたのです。
王太子殿下のお母様——陛下の正妃様は、殿下が6つの歳に亡くなられました。心労が重なって病が篤くなり、花が散るように世を去られたそうです。わたくしは5つでしたから、残念ながら何も覚えておりません。
この正妃様は、大変にお美しい方だったそうです。殿下のお美しさは正妃様譲りなのですね。お若い時の肖像画を拝見するに、人ならざる者のような美貌であったようです。蝶よ花よと褒めそやされていても、わたくしなど足元にも及びません。溜息を付くのもおこがましい程なのですから。
けれど、正妃様にとってその女神のようなご容貌は、あまり喜ばしいものではなかったようです。幼い頃からの婚約者との結婚まであと半年、という時になって、正妃様は陛下に見初められ……お相手の元から奪われるようにして、花嫁になられたのだといいます。
元々の結婚も、政略結婚ではありましたでしょう。けれど正妃さまは、その方に嫁ぐのだと幼い頃から心に決めて、その方に添うようにと己を磨き、その方のお心に寄り添おうとなさっていらっしゃったのです。しかし、王命に逆らうことはお出来にならなかったのですね。
何を申し上げたいか、といいますと、正妃様がお心を痛められ、お早くに亡くはなったのは陛下の『略奪愛』のせいであると、殿下は信じておられる、ということです。本来正妃になるはずだった第二妃さま——才媛と名高い、エドワード殿下のお母上ですが——を母と仰ぎながら、父のような振る舞いはすまい、と堅く誓っておいででした。今までに流された浮名も、お相手のいないご令嬢か未亡人に限定しておられましたし、その思いは並々ならぬものがあったのでしょう。
「申し訳ございません、言葉が過ぎました」
「……声を荒らげて悪かった」
謝罪を受け取っていただけて、わたくしはほっと安堵の息をつきました。明日も昼には外つ国からの使者の方々との懇親会があるのですから、ギスギスとした空気でいるわけにはいかないのです。
「女性関係ではないのですね」
「無論だ」
「エドワード様となにかございましたか?」
「いいや」
「では、エドワード様のお仕事でなにか? 園遊会にお越しの方で、不審なことでもございましたか。それとも明日の懇親会が問題ですの? もしくは週末の夜会で何か?」
「そちらも特に問題はない」
「では、わたくし自身でしょうか。園遊会で、わたくし何かしでかしましたかしら?」
「そんなことはなかったが……私の態度はそんなにおかしいか?」
苦笑しても麗しく見えるとは、美男子は得ですね。
はい、と答えたわたくしは、殿下をじいと睨んでみました。わたくしだけが居心地の悪い思いをするのは豪腹ですからね。
殿下は深く、息をつかれました。そして寝椅子に座り直すと、嫌味なほどに長い脚を組んで、わたくしを見遣りました。
……やっぱりわたくし、なにかしましたかしら?
「エドワードが婚姻してから、あいつの離宮へは行ったか?」
「……ええ、メアリ様のお茶会に二度ほど」
突然なんの話、と首をかしげるわたくしに、殿下は薄く微笑まれました。
「あのふたりの評判について、最近何か聞いたことはあるか?」
「おふたりの……?」
はて、とわたくしは首を傾げました。
殿下の異母弟である第二王子エドワード様の妃、メアリ様は、隣国の第三王女。今年の夏至の祭りの日に輿入れされたばかりの、まだ19歳の姫君です。お美しいと言われるような見目の方ではありませんが、聡明で淑やか、そして凛として物静かと、わたくしとは対極の娘さんです。王家の姫君として、これ程の方もないでしょう。
年に似合わず、穏やかで落ち着かれたご容貌のエドワード様のお隣にいらっしゃると、まるで長年連れ添ったご夫婦のようだと、年若い新婚のご夫婦にとっては褒め言葉なのやら揶揄なのやら、微妙な評判が立っているとか。
「大変、仲睦まじくていらっしゃると、お伺いしていますけれど。他に特に変わったお噂は耳にしておりません」
正直にそう申し上げると、殿下も小さく頷かれます。何事だろうとわたくしが首を傾げると、殿下はこうおっしゃいました。
「明日の懇親会の後、弟のところで夜会に関する打ち合わせをする予定だ。貴女も来てもらえないだろうか」
*
「お待ちしていましたよ、兄上。そして、ようこそいらっしゃいました義姉上。こちらにいらっしゃるのはお久しぶりですね」
晩餐の後、殿下に従って離宮へ向かうと、エドワード殿下は笑みを浮かべて、殿下とわたくしをお待ちでいらっしゃいました。
栗色の髪に淡い青の瞳。ノーザンラントで最も一般的な色合いと顔立ちのエドワード殿下と、豪奢な金の髪に濃い青の瞳を持つ、国内随一の美貌を誇る王太子殿下。並ばれると、あまりに雰囲気が異なるものですから、わたくしは不敬にも、まあ本当に同じ父を持つ兄弟なのかしらと不思議に思ってしまうのです。
殿下はまばゆい程にお美しいあまりに、影を許さぬと言わんばかりの、どこか苛烈な風情をお持ちです。それに比べてエドワード殿下は、日なたでも日陰でも気にせずにすくすく育つ野の植物のような、親しみやすさをお持ちです。太陽と月のよう、と例えるよりは、最早別種のいきもののようにさえ思えます。
「本来私からお伺いすべきだというのに申し訳ありません、兄上」
「こちらでと言ったのは私だ。気にするな。それに、あちらはどこに耳があるか分からんからな」
勝手知ったる他人の部屋。殿下はエドワード殿下の居間で上席に腰を下ろし、苦笑するエドワード殿下を座らせると、わたくしをご自身の隣に座らせました。エドワード殿下の隣りの椅子は空っぽです。
「そうだエド、お前の妃はどうした」
殿下も気付かれたようで、首をひねっておられます。エドワード殿下はまた苦笑して、目を細められました。
「メイなら恐らくは厨房です。おふたりが予定よりお早いお越しだったから」
まあ、愛称でお呼びなのね。そんなことを考えたその時、コン、コンコン、とリズミカルに扉が鳴りました。それを聞いて「失礼します」とエドワード殿下が席を立ち、何事かと思えば彼は静かに、戸を開けたのです。
わたくしは驚いて、目を大きく見開いてしまいました。相手を確認もせず、その上本人が戸を開けるなど、王太子宮ではありえぬことです。扉の外には近衛兵が詰めておりますし、彼ら以外が叩扉するのは余程の緊急時のみなのですから。
けれど、エドワード殿下は当たり前のように戸を開けて、扉の向こうの方へと手を延べました。エドワード殿下の手のひらに重なったのは、バスケットを下げた小さな白い手。扉の影にいらっしゃったのは、メアリ様でした。
「王太子殿下、妃殿下。メアリでございます。遅れまして申し訳ございません」
メアリ様はふわりと、夜会でもなければやらないような、最敬礼のお辞儀をされました。
「妃殿下がいらっしゃるとお伺いしましたので、今日は葡萄酒だけではなく蜂蜜酒も、と思いましたの。そうしたら、時間がかかってしまいました」
他にナッツも用意させました。にこりとして、メアリ様はバスケットを掲げられました。ずっしりと重量があるようで、取っ手を握る手のひらは、すっかり赤くなっています。侍女に持たせればよいのでは、そう考えたわたくしの前でエドワード殿下がそっと、彼女の腕からバスケットを抜き取られました。「いつもより重いね」と微笑んで。
きょとんと瞳を瞬いたのち、わずかに微笑んで夫を見上げるメアリ様の姿は、美女ではないのに、美しかった。それを見下ろして、安らかに瞳を細めているエドワード殿下も、ひどく幸福そうに見えました。そう、そこにはごく普通の、どこにでもあるような新婚夫婦の姿がありました。
そしてわたくしは、しずしずとわたくしたちのところへやって来るメアリ様と、その細い手とバスケットを掴んだままこちらへ向かってくるエドワード殿下を見てようやく、夫たる人物の振る舞いの理由に思い至ったのです。
羨ましくなっちゃったー、みたいな兄上だったのでした。