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少女と人でなし

 定期的に父親の秘書からある電話は葉月の携帯電話ではなく、このマンションの固定電話にかかってくる。盗聴防止対策が施されているから携帯よりプライバシーが守られる確立は高いと襲は言っていたが、ほとんど田嶋が一方的に生活に不自由はないかとか聞いてくるだけなので、仮に盗聴などされていたところで別に何の問題もないのではないかと葉月は思う。

 父親の第三秘書という肩書を持つ田嶋は同時に葉月の世話役でもある。

 どうも漏れ聞こえてきた話では第三秘書とは名ばかりでその実、他の秘書の雑用係のようなものであるという。

 葉月の父と田嶋の父は古くから親交があり、その縁で田嶋は葉月の父の秘書になったらしい。

かつて田嶋の実家は大きな会社を経営していたが、バブル崩壊のあおりを受け倒産して多額の借金を抱える羽目になったのだとか、葉月の父が田嶋家の窮地を知ってそれほど優秀とは言い難かった田嶋を秘書として特別採用したおかげで田嶋家は何とか一家離散を免れたとかそんな話が聞こえてくるが、あの父親が損得勘定抜きでそんな慈善事業のような真似をするわけはない。どうせ田嶋家との間に何らかの利害関係の一致でもあったか何かだろうと葉月は思っている

 だがそんなことを考える葉月とは違い、当の田嶋本人は葉月の父親に並々ならぬ恩義を感じているらしい。自分達が生きていられるのも全ては葉月の父のおかげなのだと目を輝かせて語られた時はいっそ呆れた。

 田嶋は悪い人間ではないが、人を疑うことを知らないような純朴な人間なのだ。

 あまりに純粋で、あまりに素直で、あまりに善良で。

 彼を前にすると自分がいかに汚く、いかに矮小な人間なのかを思い知らされるようで正直つらいとも思った。


「何か変わったことはありましたか?」

 電話の向こうの田嶋が穏やかに問い掛けてくる。

「いいえ、特に何も」

 このやりとりはもう何度目だろう。

「そうですか。それは何よりです。最近はきちんと眠れていますか? 薬はなくても大丈夫ですか?」

「大丈夫です。最近は薬がなくてもちゃんと眠れています」

 そんな感じで過保護というか世話好きというか、そういった性分の田嶋にあれこれ聞かれていつも電話を終える。

 ところが今日は最後、田嶋はいつもの穏やかな声にいくらか悲壮なものを滲ませてこう言った。

「お父様のご容体はここのところ、目に見えて悪くなっています。医師の話では年は越せないだろうと……」

 現在十一月下旬。つまり父親の命はもってあと一ヶ月しかないということだ。

 随分危ない状態だということは少し前から聞いていた。余命半年と診断を下されて既に四ヶ月。予定よりは少し早いが、誤差というほど大きなズレではない。

「葉月さん、一度お父様にお会いになって下さいませんか?」

「え?」

 田嶋の言葉が理解できず、葉月は間の抜けた声をあげた。

 この二ヶ月半ほどの軟禁生活の話をもってきたのはそもそも田嶋だ。いや、元は葉月の父親が指示したものなのだろうが、何にしても田嶋は積極的にこの生活を勧めてきたし、毎回電話でもしつこく何があってもこのマンションから出ないようにと言われてきた。

 その田嶋が自ら葉月に外出の機会をくれるとは少し意外だ。

 だがそんなことを考えているとは知らない田嶋は、電話の向こうで黙ってしまった葉月が言外に拒否していると判断したのだろう。必死に言葉を続けた。

「葉月さんがお父様を苦手に思っているのは存じ上げています。ですが、一時の反抗心で親の死に目に会わなかったのではきっといずれ葉月さんが後悔なさります」

 田嶋のまるで子供を諭すような調子に苛立つ。

 誰があんな男を苦手になど思っているものか。

 苦手なんじゃない、嫌いなだけだ。

 一時の反抗心?

 そんな簡単な言葉でこの胸に渦巻く憎悪を片づけるな。

 耳にあてた電話の子機を持つ手に力がこもる。

 今にも電話を叩きつけたい衝動を抑え込み、努めて静かな声で葉月は答えた。

「……少し、考えさせて下さい」

 絶対の拒否でなかったことに安堵したのか、田嶋はほっとしたように息を吐いた。

「わかりました。よいお返事をお待ちしております。気が変わりましたらいつでもご連絡下さい」

「……はい」

「では今日はこれで失礼します。何かありましたら仰って下さい」

「いつもありがとうございます」

「いいえ、これが私の仕事ですから。では失礼致します」

 通話を終え、葉月は子機を手に自室を出た。そして向かったリビングでは襲がソファに寝転がりながら携帯電話をいじっていた。

「電話、戻しておきますね」

「おーう」

 ゲームでもしているのか、襲は携帯電話の画面から顔を上げない。

 葉月はその横を通り、キャビネットの上の充電器に子機を置いた。途端、大きな溜息を吐いていた。 

「どーした?」

 襲がいつの間にか携帯をガラステーブルの上に置いて葉月のほうを見ていた。

「今の電話、田嶋さんだろ? 何かあったか?」

「何かと言うほどでもありませんが、遺伝子上の父親があと一ヶ月もたないみたいです」

「ああ……じゃあ予定より少し早いのな」

 襲はソファから上体を起こして曖昧に頷いた。

「随分忙しない年末になりそうだな」

 父親の死期を目前にした子供への言葉にしては配慮も遠慮もない。

 だが葉月にはそれくらいの反応のほうがありがたい。どう反応すればいいのかわからないから露骨に同情され、なぐさめられるよりはずっといい。

 学校の担任教師のようにあからさまに、かわいそうにだの辛いわね、などと涙を浮かべながら言ってこられるより、それくらい淡泊な反応の方が葉月には気が楽だ。

「ところで襲くん。一つ伺いたいんですが」

「んー?」

「先程田嶋さんからあの男のお見舞いに来てくれないかと言われました。もし私がこれに対し、行くと答えたら病院に行くことは可能でしょうか?」

「そらぁ依頼人側がそう言うならオッケーだろ。もともとはーちゃんを極力この部屋から出すなって言ってきたのもあちらさんだしな」

「そうですか」

「でも行くなら正確な日時を前もって教えておいてもらえると助かるな。車を用意してもらうから」

「タクシーじゃダメなんですか?」

 そもそもこのマンションから葉月の父の入院している病院はそう遠くない。車で十分ほどだから、徒歩で行くこともできなくはないだろう。

 すると襲はダメだな、と即答した。

「狙撃とかに備えてそれなりの装備がないとヤバイだろ? さすがにその辺のタクシーじゃ防弾ガラスは装備されてないだろうからな」

「まぁそうでしょうね。では外出したい時は事前に日時を決めてからお伝えします」

「おう、頼むわ。こっちもできるだけ早く用意してもらうからさ」

 そう言って襲は葉月が置いたばかりの子機を手に取った。短縮ダイヤルを押して耳にあてるといつもと変わらない、あまり真剣みのない調子で話し出した。

「もしもし? 車を用意してほしいんだ。……ああ、見舞いに行くんだよ。田嶋さんは了解済みらしいから。……うん、早い方がいい。……そっか。助かる。じゃーなー」

 通話を着ると襲は葉月に笑いかけてきた。

「今日の晩までには用意できるってさ。そうしたらいつでも行ける」

「……早いですね」

 さっきまでの襲の話だと、車を用意するまでにそれなりに時間を要する風だったのに。

「ちょうど一台空いたところだったらしい。一応整備とかしてからになるから夜にはなるらしいけど、それまでちょっと我慢してくれ」

「私は全然構いません」

 むしろ少しでも時間を空けたい。今すぐに行くと言われても正直困る。

 父親と会うのなら先に気持ちに整理をつけ、冷静にならなくては。

 そうでなければ父親などと呼びたくもないあの男を前にしても、感情のままに喚き散らすしかできないだろうから。

「しっかし意外だ」

 襲はソファにあぐらをかいて気の抜けたような声をあげた。

「何がです?」

「そりゃあはーちゃんが親父さんの見舞いに行くって話だよ。最初に会った時からはーちゃんは親父さんが嫌いだって言ってたろ。まさか見舞いに行きたいなんて言い出すとは思いもしなかった」

「……それは田嶋さんに言われたから」

「あの人は言いそうだけど、でもはーちゃんは何と言われたって断固拒否しそうだなーと思ってたからさ」

 別に他意なんて感じさせない何の気ない調子の言い方だが、あまり深入りしないタイプの彼にしてはめずらしい気がする。

「もしかして襲くん、怒っていますか? 急に外出したいなんて言ったから……」

「へ? 怒ってるって俺が? ないない」

 襲は意外なほど目を丸くした。

「怒ってるとかじゃなくって驚いているだけだって。やっぱ世の中は予想外でいっぱいだよな」

 そんなことを言いながら一人で納得したように頷いている襲を見て、葉月は軽く息を吐く。

「一応遺伝子上の父親の死に際して、私も最期に一度くらいあの男と向き合うべきかと思いまして」

「へぇ。はーちゃんは大人だなー。俺だったら死ぬほど嫌いな奴なんて絶対見舞いに行かねえや。行ったとしてもとどめを刺すな、うん」

 笑えない言葉なのに、まるで子供が冗談を言うような調子だ。

「まったく……物騒な冗談ですね」

「うん。冗談だからな」

 まるで悪びれる様子もなく襲は笑った。

「冗談だよ」

 念を押すようにもう一度言って、薄く笑った。冗談が冗談にならないような、本気も冗談になってしまうような、奇妙な錯覚に陥る。

 時々、襲はこんな風にまるで全てを煙に巻くような笑い方をする。

 愛想がよく、人当たりもいいくせに、時折ぞっとするような気配がする。

 二ヶ月半ほど彼と暮らして最近少しだけ襲の言う、自分は人でなしだという言葉の意味が理解できてきた。

 日常生活の合間合間、ふとした瞬間にその小さな違和感が漏れ出してくることがある。人間を装った下から覗く、異質な何かの気配が。

 怖いとか、気持ち悪いとか、そういうことは思わない。ただ、違うとは感じる。無数の人間がひしめくこの世界において、彼は異物だ。

 人でなし――人ではない者。

 確かに襲が言った通り、そういう意味では彼は人でなしだ。

 二ヶ月以上も家族の真似ごとのようなことをしている相手に対し、我ながら酷いことを思っているとは思うがそんな感情論など意味がないほどに襲は人でなしだ。

 だからといって襲を厭う気持ちは特に湧いてこない。

 他人を愛せない葉月にしては珍しく、襲には比較的好意的な感情を持っている。好きか嫌いかと問われたら、少なくとも嫌いというカテゴリーにはまず入らないだろう程度には。

(だからと言って、自信を持って好きと言えるかどうかはわからないけれど)

 そもそも人間に向ける好きだとか愛だとかいうものが葉月には理解できない。

 葉月の世界には嫌いだとか憎いだとか、そういうマイナスの感情を向ける人間が多数。それ以外の少数の人間には嫌悪を向けない代わりうっすらと猜疑心を抱くか、あるいは道端の石か何かであるかのように特に何も思わない。

 そして襲はさらに少数の中の少数派だ。

 人全般を愛さない葉月と違い、彼の場合は恋愛感情を抱かないだけらしいが、けれどそんなことを言う人に会ったのは初めてだ。好意、とはっきり言っていいのかはわからないが、だから葉月は襲に興味を持っている。

 もっと襲と話してみたいと思う。

 彼という人間、否、人でなしを知りたいと思う。

「……そう言えば、『人間失格』を読み終えました」

「へぇ。早かったな。やっと感想文も終わったところだし、しばらくはのんびりするかと思ってたのに。さすがはーちゃんは勤勉だ。俺も見習わないとなー」

「課題が終わってはすることもありませんから。読書は好きですし」

 一昨日、読書感想文だの作文だのの類は得意だったと豪語する襲に手伝ってもらってようやく葉月の目の上のコブ、まったく筆の進まなかった読書感想文を書き終えることができた。

 感想文なのだから感想で九割方埋め尽くせばいいとの襲の助言を受け、何とか感想文は書ききることができた。

 その上でさらに純愛について定義しろという心底忌々しい課題については襲がふざけながら「純愛とは人の心に人の数だけあり、容易に定義づけることができるものではない。それこそが純愛の定義だ」とでも書いたらどうかと言っていたのでそのまま頂いた。

 屁理屈としか思えない意見を受け、襲は実際にそう思うのかと尋ねると、彼は笑顔で「まさか。思いついたことを言ってみただけ」とのたまった。憎々しいほどに清々しい笑顔だった。

 かくして葉月は休学明けに提出することになっている課題全てを片づけることができたのだ。

 その翌日から『人間失格』をタブレット端末にダウンロードして読み始め、昨晩には読み終えた。そして朝からまた読み返していたところだ。

「そんなにページ数はないんですね。もっと長い話かと思っていました」

「あー大長編ってほどではないよな。俺も文庫本を持っているけどそんなに厚くないし、長編ってよりは中編になるのかな? その辺の区分はよく知らないけど。つーかはーちゃん、本当に全部読んだのか。俺、田嶋さんあたりに怒られないかな?」

 襲は少し難しい顔をして腕を組んだ。

「なぜです? 日本を代表する文豪の代表作じゃないですか?」

「そうだけどさー後半は主人公の女関係がけっこうあれじゃんか。小学生に読ませるのはやっぱまずかったかなーと」

「以前、情操教育に気を配ってくれと言ったことを気にしているんですか? 別にもういいですよ。よくよく考えれば私に情操教育など今さらです。遺伝子上の父親の女性関係はより劣悪で爛れきっていますし」

「それでもなーぁ」

 なおも襲は難しい顔をしている。不真面目そうな外見と態度の割に、妙なところで真面目な男だ。

「なら田嶋さんには黙っておきますから安心して下さい。田嶋さん以外の人間は私がどんな本を読もうが興味なんてありませんから」

「ああ、ならありがたいな。田嶋さんからうちにクレームでも入れられたら俺が死ぬほど怒られるから」

「怒られるって子供じゃないんですから」

 葉月は襲がどういう立場にあるのかは未だによくわからずにいる。

 ただ、社会の裏といわれる部分でそれなりの影響力を持つ組織なり派閥なりに関わる人間だということくらいは、これまで田嶋から耳にしてきた断片的な情報から理解できた。襲と暮らし始めてから平穏な生活を送ることができていることからも、襲やあるいはその背後の組織が裏社会において大きな力を持つことも想像がつく。

 だが襲本人からはそんなイメージが全くと言っていいほど感じられない。

 襲が一体どういう立場のどういう人間なのか、本音を言えば気にならなくはない。だが最初に襲が言った通り、状況を鑑みれば深入りするのは危険だろう。彼を知ろうとするなら、きちんとどこまでが許されるか見極めてからでなければならない。

 じっと襲を見ると、彼は何だか落ち着かなそうに襟足を撫でていた。

つい先日、いつも夕食を届けてくれる襲の親戚が散髪に行くこともできずに半端に伸びていたのを見かねて切ってくれたので最初に会った頃よりも髪が短めになったのだが、襲本人は寒いとか落ち着かないとかずっと言っている。そんな不平不満を受け流しながら、例の料理上手で散髪まで可能な親戚はさらに伸びて根元だけが黒くなっていた襲の髪をきれいに染め直していった。自分で染めるよりうまくできた、と染め上がりについては上機嫌だったがやはり短くなった髪はまだ不満らしい。

「何でこの寒い時期にわざわざ短くするんだろうな、あいつ」

 スースーしてしょうがない、と襲は溜息を吐く。

「それほど短くもないと思いますよ? スポーツをしている人などはそれくらい普通でしょう。今までが長すぎただけですよ。今月に入ってからなんて結べるようになっていたじゃないですか」

「そうかぁ? 今時ちょっと長いくらい珍しくもないだろ? それこそ太宰の時代ならともかくさ。あ、それで『人間失格』はどうだったって?」

 襲の言葉に葉月は少しの嘘もない気持ちを口にした。

「難解でした。……でも、少しだけ共感めいたものを得られました」

 今までの襲や周囲の人間の口ぶりからすると、もしかしたらこれはものすごく少数派の意見なのかもしれないが。

 これが学校や家でだったら、そんな意見を口にはしなかっただろう。無難で当たり障りのないことを言ってすませる。けど襲にだったらそうしなくてもいい気がする。何となく、嘘偽りのない言葉で話してみたいと思った。

「そっか」

 襲は薄く笑ってそう言ったきり、それ以上何を言うこともなく葉月を見ていた。

「……ねぇ襲くん」

「ん?」

「私にはあの主人公は本当に人間に失格したのか、計りかねます。襲くんはあれはやはり人間失格だと思いますか?」

「女関係は乱れているし、酒癖も悪い、挙句に薬で廃人同様。何より人間が当たり前にもつ感覚を理解できないってのは致命的だ。立派な失格だろうよ」

 襲は軽い調子で笑い、葉月を見た。

「はーちゃんだったらどんな条件下でならそいつを人間失格だと思うんだ?」

 逆に聞き返され、葉月は少し面食らいながらも自分の内の形にならない思いを少しずつ拾って言葉にしていく。

「他人を愛せない……いえ、愛さない人間でしょうか」

「その愛さないってのはdon’tで? それともcan’tで?」

「どちらかと言えばdon’tです。少し前だったらcan’tでしたが「できないからしない」より「できるのにしない」ほうが冷たく薄情な気がします」

 襲は黙って葉月の言葉を聞いている。

「襲くんは人生において恋愛が全てじゃないと言いましたけど、まだ私にはそうは思えません。どうしても、誰も愛さないのは人として欠けている気がします」

 自分の発した言葉が自分に突き刺さる。

チクチク、グサグサと串刺しにされる。

「主人公が失格しているか否か計りかねるのは、私には彼が人を愛せる人間なのか、愛せない人間なのかわからないからです。心中未遂も同棲も、愛情からの行動なのか特に意味なんてない行動だったのか、私にはわかりませんでした。……最終的には達観というか諦観というか、そういった境地に達したようでしたが、そこに至るまでは必死に生きていたように思いました」

 足掻きながら、もがきながら、醜態を隠しきれず、多くのものを恐れながら――それでも生きようとしたように思えた。

そこにほんの少しの共感を覚え、目的もないのにそこまでできたことにほんの少し感心した。目的もなく苦界を生きるなど自分にはきっとできないから。

 そんな葉月の言葉に、そうだなと襲は呟いた。

「確かに随分生き難そうなのに、生きてたもんなぁ」

何を思っているのか、ぼんやりと宙を見ながらそう言った。

「……私は今言った通りのことを思いました。今度は襲くんが答えて下さい。主人公は人間に失格したのか否か。それとさっきの質問をそのままお返しします。襲くんにとっての人間失格とはどういうものですか?」

 襲は軽く首を捻った。

「んー……まぁ俺は失格かなと思った」

「なぜですか?」

 そう問うと、襲はテーブルの上の携帯電話に視線を向けながら言う。

「さっきも言ったろ? 生活は乱れまくりだし、フツーの人間の感覚は理解できないし。感覚的にぶっ壊れてるっぽいじゃんか」

 どこか投げやりな答えに、なぜか少し苛立ちを覚えた。

「……そうでしょうか。人の考え方や感じ方なんて皆少なからず差があるものでしょうし、時には大多数とはまるで違う意見を持つこともあるのではないですか? だったらいわゆる『普通』を理解できないこともあるでしょう。それくらいで失格と言うのは思い上がりの気がします」

 つい少し強い語調になってしまったからか、襲は少し意外そうにしてから笑った。

「はーちゃんがそれを言うか。たかが好きな人間がいないくらいで欠けているって言ってた子が」

 それはからかうような調子なのに、どことなく覇気がないように感じられた。

 何だか調子が狂う。それを隠すように葉月は努めて淡々と答えた。

「襲くんからしたら「たかが」かもしれませんが、私にとってはたかがではない問題です。襲くんは恋愛ではないにしても他人を好きと思えるからそんな風に言えるんですよ」

 そう言ってからふいに思った。今口にしたばかりの言葉は、襲にとっても当てはまるのではないかと。

 普通の感覚が理解できない。

 それは人でなしを自称する彼に何か思うところのある事なのか。

 探るように襲を見ると、彼は特に気を悪くした様子もなく「まぁそうだな」と頷いていた。

 それ以上この話題を続けるのは何だか気が咎めて、葉月は仕切り直すように少し大きな声を出した。

「それはそうと、作中で主人公がしていた遊びがあるでしょう?」

「えーと……」

 記憶を辿る様にしている襲の言葉を待たず、葉月は続ける。

「名詞を喜劇名詞か悲劇名詞か当てるというものです」

「そう言えばそんなのもしてたな。俺、あれ結局よくわからなかったんだよな。芸術は語れねえわ」

「私も今一つよくわかりませんでした。ぜひとも市電とバスが喜劇名詞な理由の説明を受けたかったです」

「だよなぁ。芸術家だとわかるのかな。つーか俺は名詞に悲劇とか喜劇とか考えたこともなかったよ」

「私も喜劇的な面白さを連想させる言葉、悲劇的な物悲しさを連想させる言葉はあると思いますが、あらゆる名詞に当てはまるとは考えたことがなかったですね」

「悲劇的な言葉ってーと『葬式』とか?」

「ええ。お葬式という言葉から明るい連想はあまりしないので。あくまで私見ですが」

「なるほどなぁ。じゃあ喜劇は? はーちゃんの思う喜劇名詞」

 意外とこの話題を気に入ったのか、襲はずいぶん楽しそうだ。

「そうですね。喜劇だと……『空回り』でしょうか?」

「空回り? それ、ある意味悲劇名詞じゃね?」

「そうですか? 空回りしている人を見ると滑稽と思いますが」

 真顔でそう答えると、襲はけらけらと笑い出した。

「おいおい、はーちゃん性格悪ぃなぁ。空回りしたのを見ている奴はいいけど、した本人には悲劇だろうよ」

「言われてみればそうですね」

 それは考えたことがなかった。

「では襲くんはどんな名詞を喜劇名詞と思いますか?」

「喜劇名詞なぁ」

 少し考え込む素振りを見せてから、襲はぽつりと言った。

「『人間失格』かな」

「人間失格、ですか?」

 葉月が怪訝な顔で聞き返すと、襲はこくりと頷いた。

「うん。それが俺にとっての喜劇名詞だな」 

 葉月にはとてもではないが喜劇的な名詞とは言い難い言葉だ。

「……とても笑う要素があるような言葉には思えませんが。むしろ悲劇名詞では?」

 素直にそう口にすると、襲はテーブルに置いていた携帯電話を弄びながら気の抜けた様子で答えた。

「笑えるよ、笑える。笑うしかないじゃないか。だって人間である資格なんてないくせに人間を装って生きてるんだぜ? はーちゃんじゃないけど滑稽だ」

 軽過ぎて、ともすると投げやりにも聞こえる言い方だった。

「どうせなら割り切って人間であろうとなんてしなけりゃ楽なのになぁ」

 独白するようにそう言って、襲は苦笑した。

 それは自分を重ね合わせてのことなのか。

 それとも他の誰かを思ってのことなのか。

 少し聞いてみたいとも思ったが、多分それは軽々しく他人が踏み込んでいい領域の事ではない気がした。

 それでももう少し。もう少しだけ踏み込んで聞いてみたい。彼という人でなしの考えをもう少しだけ知りたい。

 葉月がそんなことを考えていると、襲は携帯電話から顔を上げて葉月を見た。

「意見が割れたんだから、人間失格は悲喜劇名詞ってことでいいか」

「はい?」

 唐突な言葉に葉月は一瞬、何のことかわからなくなった。

 話の途中にぼんやりとしていた葉月に気を悪くした様子もなく襲は言う。

「だからさ、俺としては人間失格は喜劇名詞だけど、はーちゃん的には悲劇名詞なんだろ? 意見が割れたんだから悲劇か喜劇か分けないで、両方でいいんじゃね? って。だから人間失格は悲喜劇名詞な。よし、決定ー」

 襲は一人楽しそうに手を叩いた。

「あ、ああ。悲劇と喜劇、両面性を持ち合わせる言葉ってことですか」

 困惑の表情を浮かべる葉月に襲は笑顔を向けてきた。そこにはさっきまでの苦々しさは既にない。

「ま、そんな感じかな。まぁ悲劇でも喜劇でもどっちでもよくね? って言葉だな。あと『空回り』もその理屈で言うと悲喜劇名詞な、うん、これですっきりだ。何も工学じゃないんだし、一かゼロに分けなくたっていいよな」

「まぁ、そうですね。いいのではないでしょうか」

 そういう話をしていたのだっただろうかと内心首を傾げながらも葉月は一応頷いた。


 その後も襲と取り留めもない話をした。

 思えば、こんなにも他人と長く会話をしたのは初めてかもしれない。自分は無口な性質なのだと思っていたが、存外そうでもなかったのか、会話は尽きなかった。

 悲劇名詞か喜劇名詞かという遊びを続けてみたり、それに飽きてきたら襲の恋愛遍歴を聞いてみたり、その後もきのう見たテレビ番組の感想だとか昨今の政治の情勢だとか、最新のIT機器だとかについてを思いつくがまま、大した意味も何もないような会話をした。

 楽しかった、と思う。

 いつまでもこの時間が続けばいいと思う。

 多分これが、楽しいという感情なのだろう。

 ほんのひと時、葉月は目の前に突きつけられた現実を忘れることができた。

 父親のこと。

 命を狙われている状況は今なお変わりないこと。

 近いうちに父親と対面すること。

 考えたくもない現実を考えずに過ごすことができた。

 そして楽しい時間はあっという間だということを葉月は学ぶ。

 いくら現実から目を逸らしても、いずれ必ず現実と向き合わねばならないことを知る。


 窓の外を見るといつの間にか日は落ち、周囲の民家や街灯の明かりが夜の町を照らしていた。

「もうこんな時間か。全然気付かなかった」

 それから襲は携帯電話の時計を見て怪訝な顔をする。

「おかしいな。もう六時過ぎだってのに、なぁんで夕食の配達は来てくれないんだ?」

「今日はお忙しくて来られないとかでしょうか?」

「それならそれで連絡は寄越す奴なんだけどな。あいつは俺と違って律義だし。……んー?」

ふいに襲はリビングの向こうに続く廊下に鋭い視線を向けた。

「どうしました?」

「はーちゃん、そこから動くなよ」

 襲は珍しく強い口調でそう言い、ソファから立ち上がった。そして廊下を歩いていく。途中にあるお互いの私室や洗面所などを通り越し、まっすぐと廊下の奥にある玄関へと向けて。

 何だろう。

 何だか嫌な感じがする。

 襲の強い口調も、さっきまでと何ら変わっていないはずの周囲の空気も、とても嫌な感じがするのだ。

 まさか、葉月の命を狙う人間がここまで来たのだろうか。

 今までこのマンション内にいる時に危険な目に遭ったことはなかったが、もしかしたら――。

 鼓動が速くなるのを感じながら葉月は息を呑む。

 そして襲がドアノブに手をかけようとした時、バタンと音を立てて玄関扉が開かれた。

「こんばんはぁ」

 それは若い女、というより少女の声だった。

 葉月は聞き覚えのない声に身を固くしながらも玄関扉の向こう、襲の背中越しにその声の主を見た。最初に目についたのはセーラー服だった。

紺の襟にえんじ色のスカーフのセーラー服を着た少女がそこには立っていた。

 それは、来客があれば必ずインターホンを鳴らし、ロックを解除しなければならないはずのこのマンション内に入り込み、なおかつ常に施錠されているはずの玄関扉を開けた彼女。その顔までは見えないが、その右手に黒光りする鉄の塊のようなものを見た。それが何か認識し、葉月は小さく悲鳴をあげそうになる。

「遊びに来たよ」

 明るい少女の声と共に、少女の右手にある大きな銃器が襲へと向けられた。

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