日常的非日常
男はとある六階建てマンションの裏手に佇んでいた。
まだ夜明けには早すぎる時刻、十一月初頭。
冬の気配を強く意識させられる寒気に身震いしながらコートの内ポケットに右手を入れた。少しは温かいはずのその場所には秋の終わりの寒気よりずっと冷え冷えとした物が納まっている。外気よりずっと冷たく硬質な感触に触れ、男は改めて眼前のマンションを見上げた。昨日まで何の縁もゆかりもなかったはずのその場所に、男にとって唯一救いとなる道があるらしい。
つい先日、男は繁華街でとあるトラブルに遭遇した。だが今までも些細なトラブルはあったし、それらは全て暴力によってたやすく解決できた。だから今回もそうするつもりでいたのだが、そんな考えは男が有する以上の暴力によって粉砕される。
詳細は省くが、とにかく男は生まれて初めて暴力によって解決できなかったトラブルにより多額の借金を抱え込む羽目になったのだ。
家族にも友人にも見放された男に返済の手段はなかった。だが返済できなければ容赦なくペナルティが課される。そして宛ても逃げ場もなく頭を抱えていた男に、声をかけてきた人間がいた。
それはとあるアルバイトのスカウトだった。真っ当な世界では決してお目にかかれないような破格の報酬を得られるバイト。もちろん相応のリスクは負うが、男は一も二もなく飛び付いた。
その結果、男は今こうして寒空の下で人目を忍ぶようにしている。
義務教育を受けているような頃から様々な犯罪行為をしてきた。あくまで軽犯罪というカテゴリーに分類されるような程度のものだが何度も警察に追われ、留置所の常連だったこともある。
飛び付いたバイトというのは、そんな男でも犯したことがないような犯罪行為だった。
――少女を一人殺せ。
そして渡された拳銃と銃弾。初めて目にするそれらは意外に小さく、意外に重かった。
理由は聞かされなかったが、とある金持ちが一人の少女を殺したがっているのだという。その金持ちというのがどんな身分のどこの誰なのか、なぜ少女を殺す必要があるのか。そういった一切を知らされないまま、男は言われた場所へと赴いた。もしかしたら自分は誰かに嵌められたのかもしれないと思いながらも、返済期限の迫る男に他に道はなかった。
新しくも古くもないマンションの最上階六階。そこの一室で少女は男とそう年の変わらないような青年と二人で暮らしているという。
セキュリティシステムは大したことはない、と言われた。
裏口からたやすく忍び込める。
そこから非常階段を昇れば目的の部屋はすぐだ。
少女と、必要なら同居している男も殺してかまわない、とも。
周囲に気を配りながら、男は数メートル先にある裏口に目を向けた。時間も時間だ。周囲に人気はなく、遠くから車の音が聞こえてくる以外、音らしい音もしない。
いくら男でも見ず知らずの少女を手にかけることには躊躇われたが、それでは自分の身が危うい。
赤の他人の少女と自分。
どちらの命が大事かと言われればそんなものは自分に決まっている。
命を狙われるくらいだ、きっとその少女だってろくな人間ではないのだろう、そう思うことでこれからの行動を正当化していた時だった。
「うーわ寒っ」
いつのまにか裏口の前に人影があった。
思わず声を上げそうになったのを何とか堪えると、人影は男のほうへと歩いてきた。
「あーもう信じらんね、これで今週何人目だっつの」
ぶつくさとぼやきながら人影は男との距離を縮めてくる。無意識に男は後ずさっていた。
あの人影に近づくべきじゃない。
あれはよくないものだ。
本能だか第六感だかが強くそう知らせてくる。
声の感じは若い男だ。だがそのシルエットは決して体格がいいとは言い難く、どちらかと言えば小柄の部類に入る。
対して男はつい先日までは自分の暴力に絶対の自信を持っていた。本職ともいうべき人間にこそ圧倒されたが、目の前の人影に比べれば自分のほうが明らかに体格がいい。まして今はそれに加えて拳銃を持っている。
この人影が自分にとって敵なのかそうでないのかもわからないまま、男は内ポケットの拳銃に手をかけた。
少し離れた場所にある街灯が、徐々に近づいてくる人影を照らし出す。
だんだんと明確になっていく人影に、男は拍子抜けした。
それは男より若干年下であろう青年だった。
この寒空にTシャツにスウェットという軽装で、両手をポケットに突っこんだままだるそうに歩いてくる。
決して高くはない背丈に細い体つき。ありふれた茶髪で、両耳に無数のピアスをしている以外はどこにでもいそうなごく普通の青年だ。
なのになぜ、彼が近づいてくることを恐れる自分がいるのか。
戸惑う男など気にせず、彼は身震いしながら一歩一歩近づいてくる。
「うーマジ寒っ。せめて何か羽織ってくればよかったわ。こんな時間に人ん家を訪ねてくるんじゃねぇよ、非常識な野郎だな!」
なぜか一人でキレ始めたかと思えば男まであと三歩程度の距離で止まり、不機嫌そうにしながらも軽い調子で口を開いた。
「俺は三嶌崎襲。多分あんたは聞いてないだろうから一応名乗っておくな。んで今はあんたが狙っているお嬢ちゃんのボディガードをやっている。彼女を狙ってくる奴がいたらぶちのめせっていうのが俺のお仕事なんだよ」
勝手にぺらぺらと自分のことを話し出した三嶌崎と名乗る青年に、男は一層戸惑った。
ただ彼が、男が殺すべき少女と同居しているという青年なのだということだけは辛うじて理解できた。どういう事情で例の少女は血縁でもないらしい男と同居などしているのかと思ってはいたが、ボディガードだったのか。
そんな男を見て、三嶌崎は嘆息した。
「あーあ。わざわざ名乗ってやっても無反応とか。やっぱり素人かよ……ったく。いくら本職連中はうちの名前を出したら引き受けてくれないからって、こんな何も知らない一般人の兄ちゃんに殺しを頼むなんて何考えてるんだか」
呆れ果てたような三嶌崎の言葉が男を苛立たせる。
「誰が一般人だ? 俺はそこらの生温い連中とはちげぇんだよ」
「はぁ?」
思い切り凄んだ男に三嶌崎は顔を歪めた。
「いやいや、一般人だろ? あんた別にプロの殺し屋とか傭兵とかじゃねぇだろ? フツーの人じゃん」
「あのな、てめぇあんま人の事バカにしてっとマジ殺すぞ?」
恫喝しながら内ポケットの拳銃を右手で取り出した。
その鉄の塊を誇示するように三嶌崎に突きつけながら男は笑う。
「言っておくがオモチャじゃねぇぞ? 本物だ」
三嶌崎はぽかんとした顔で黙った。
相変わらず彼に対する『嫌な感じ』は消えないが、最初から人を小バカにしたような口を黙らせたことは気分がいい。
気分よくトリガーに指をかけると、さっきまで感じていた罪悪感や躊躇いはうそのように引っ込んだ。
相変わらず三嶌崎は間の抜けた顔をしていたがこの拳銃が気になるのだろう。視線だけは男の手にある拳銃に向けられている。
「……はぁん、トカレフか」
視線だけを拳銃に向けたまま三嶌崎が呟く。
「ロシアのじゃねぇな、中国のか。ありがちすぎて笑えるわな」
そう言いながら三嶌崎は男の構えた拳銃に手を伸ばしてきた。
「てめっ、近づくんじゃねぇ! マジで撃つぞ!?」
「はいはい、こんな時間に発砲したら近所迷惑だからやめとこうな。今日のトップニュース飾っちまうしさ」
三嶌崎はおざなりに言って、とうとう銃口を右手で掴んだ。今撃てば間違いなく彼の右手のひらを貫通させられる。
こいつはバカなのか。それとも本物の拳銃だとは思っていないのか。そうでなければ本当に撃つわけがないと舐められているのか。
そう思うと焼けつくような怒りが湧いてきた。
その間も三嶌崎は銃口を掴んだまま何か独りごちている。
「それにしても一般人に拳銃なんか流しやがって。全くなー治安国家が聞いて呆れるぜ。こうなってくるとうちの領分か。あとで報告しておかねぇと」
それからふいに三嶌崎は顔を上げた。
「まぁ何だ。一応この国は一般人の拳銃所持は禁止なわけだし没収な」
「なっ……」
男が怒鳴りつけるよりも先、右手の拳銃が奪われていた。
強引に引かれたため、トリガーにかけていた人差し指が酷く痛む。
抵抗する間もなかったが、その間があったとしても恐らく抵抗はできなかっただろう。そんな形容し難い、異様な強い力によって拳銃は三嶌崎に奪われた。
人差し指の関節に焼けるような痛みを感じながら男は三嶌崎を睨みつけた。
「てめぇ……」
「んだよ、そんな睨むなよ。ちょっとこんなもんを取り上げたくらいでさぁ」
三嶌崎は右手で奪った銃を顔の高さまで持ち上げ、男に見せつけるように弄んだ。
「ちょっと珍しいオモチャ手に入れたくらいで粋がってんじゃねーよ、クソが」
その直後、グシャリと派手な音が鳴った。
それは鉄がひしゃげ、無残に砕けた音だ。
男の目の前で、拳銃が握り潰された音だ。まるで空き缶のようにひしゃげたかと思うと、ガラスのように砕けた。
「こうなるとただこのゴミだよな、拳銃なんてよ」
楽しげに、そして凶悪に酷薄に三嶌崎は笑った。
その右手を開けば最早無数の鉄の破片でしかなくなってしまった拳銃がパラパラと地面に落ちて行く。
眼前の光景が信じられず唖然と立ち尽くす男に追い打ちをかけるように、三嶌崎は破片をぐしゃりと踏みつける。
「さぁてどうする? あんたの武器はもう粉微塵だぜぇ?」
くつくつと笑いながら三嶌崎は男を見上げた。
「自称素人じゃないあんたは、丸腰でどうやって討ち入るつもりだって? せっかくだから親切心を出して教えてやろうか。このマンションの警備員だってあんたよりは腕が立つ、まごうことなき裏の人間だ。一歩でも不法侵入してみろよ。筋骨隆々な警備員のおっさん達に歓迎してもらえるからよ」
ふざけた調子の言葉にすら寒気がする。
男は思う。
最初に三嶌崎を前にした時の得体の知れない嫌悪感は、防衛本能の一種だったのだろう。『これ』を敵にしてはいけないと、生物の本能として察知したのだろうと。
最早男は虚勢を張ることもできず、全身を震わせていた。
逃げ出したいのに足に力が入らない。立っているだけでやっとだ。
三嶌崎はそんな男を見て呆れ果てたような顔をした。
「わかっちゃいたけど本当に小物だよなぁ、あんた。他人にもらった銃がなきゃ何もできないってか? ダッセぇの」
鼻で笑って三嶌崎は男に背を向けた。
「わざわざ俺が出張らなくても警備のおっさん達に任せておけばいいな。っつーわけで俺はもう帰って寝るから。あんたは大人しく尻尾を巻いておうちに帰って好きなだけぶるってな」
体は震え、得体の知れない恐怖に苛まれながらも男の内には確実な怒りが湧いていた。
明らかに自分より年下で、明らかに自分よりひ弱な体つきの相手にこうもあからさまにバカにされ軽んじられるなど、今まで男は経験したことがなかった。
もともと男は怒りを抑えることなどしたことがなかった。むしろ感情のままに拳を振るってきた。その結果として男は十代のうちに同年代に敵はいない状態を得たのだ。
――誰が相手だろうと怒りなど抑えなくてもいいだろう。
自分にはそれが許されている。
脳の片隅でもう一人の自分が囁く。
男は無意識にコートに右手を入れていた。そして触れたナイフのグリップの感触が男に根拠のない自信を与え、高揚させた。
三嶌崎は背を向けたまま既に少し先を歩いていた。両手をポケットに突っ込み、寒そうに背を丸めた姿に警戒心は見られない。男のことなど既に意識の外だと言わんばかりの様子に苛立ちを感じつつも、この好機に笑いが込み上げてくる。
ポケットの中からバタフライナイフを取り出した。そっと三嶌崎へと歩み寄りながら、折り畳まれたグリップを開閉させ刃を出す。
長く使用してきたナイフは歩きながらでも片手でも容易に刃を取り出せる。グリップを握り締め、男は一気に三嶌崎との距離を縮めた。
少し前を歩く三嶌崎はそんなことには気付いた様子もなく、欠伸をしながら歩いている。
散々人をバカにながら、他に武器を持っていないかも確かめずにこうも無防備に背を晒している。
得体の知れないところは不気味だが何てことはない、こいつはただのバカだ。
そう思うとさっきまでの恐怖が嘘のように引いていった。
そして男はナイフを振りかざし、前を歩くその背中へ勢いよく切りつけた。
布を切り裂く手ごたえに男の顔に薄暗い笑みが溢れる。三嶌崎の足が止まるのを感じ、そのままさらにナイフに力を込めた。
やったと思った瞬間、グリップを握った手に強い衝撃が走り、硬質な音がした。
それを認識した時には男の握るグリップの先にあったはずの刃は根元から折れ、折れた薄い刃はあっけなく男の足下に落ちていた。
「え……?」
目の前で起きた出来事が理解できず、男はグリップを握ったまま目を剥いた。
一体何が起きたのか。
呆然とするしかない男を振り仰ぎ、三嶌崎は冷ややかな視線を向けてきた。
「後ろからってのは卑怯じゃねぇの?」
そして消えたはずの恐怖が鮮明に蘇る。
勝手に体が震え出し、しっかりと握っていたはずのグリップが手から滑り落ちる。
「ソレ、落ちたぜ?」
そう言った三嶌崎はやはり笑顔で、けれどその目は底冷えがするほど冷たい。
いまだ男へ向けられたままの背中はシャツが斜めに切り裂かれて肌が見えている。街灯の薄明かりに照らされ、目に映る光景に男は改めて違和感を覚えた。
なぜ、血が出ていないのだ。
シャツだけは無残に切り裂けている。
当然だ。男は手加減なく切りつけた。
なのに裂けたシャツの間から覗く皮膚には傷一つない。
ナイフは折れてしまったが、確かに硬い何かにぶつかったような手ごたえがあったはずなのに。
「……何で」
口から勝手にこぼれ落ちた言葉を受け、三嶌崎はうっすらと笑って男に向き直った。
「何でってのは、ナイフで切られて傷一つないのはどういうことだってことか? そんな薄い刃、より硬いものに勢いよくぶつけられたら折れちまうに決まっているだろ? そのナイフより俺の体のが頑丈だったってなだけだな」
簡単だろ? と言って三嶌崎は男を見る。
だがそんな言葉だけで納得できるわけがない。
確かに男のナイフは決して厚く耐久性のある刃ではない。骨に向けていたら衝撃で欠けることもあるだろう。
だからといって、薄皮一枚切れないほど弱いものでもない。
「あ。その目、信じてねぇな」
三嶌崎は不満そうに目を据わらせた。
「言っておくが俺は嘘なんて吐いてねぇからな。俺はナイフより頑丈にできている。殺るならそんな安物のナイフじゃ役不足だ。サブマシンガンだって俺にはお子様向けエアガンとあんま変わらないからな」
そう言って三嶌崎は真正面から男へと右手を伸ばしてきた。
ついさっき男の拳銃を粉々に砕いた手。恐怖を認識するより先に後ずさっていたが、三嶌崎はそれを許してはくれなかった。
気付けば男の視界は随分狭くなっていた。顔面をあの右手に掴まれた状態なのだと気付くのには少しの時間を要した。
狭い視界、指と指の隙間からしか見えない三嶌崎の顔には何の表情も浮かんでいない。
「あんたも今この場に限っては一応殺し屋なんておぞましい職業に就いているわけだから、もちろん覚悟はできているよな?」
何の覚悟か、なんて聞く意味はないだろう。頭蓋骨が軋む音を聞きながら男は思った。
何とか両手を上げて三嶌崎の腕を掴んだものの、爪を立てようにも先に男の爪が割れ、どれだけ暴れようと成人近い男性にしては細い腕はびくともしない。
呻き声しか漏らせない男を見ながら三嶌崎は言う。
「あんたは殺し屋としてこの場にいる。殺す人間が、殺されたくないなんて言わないよな?」
問い掛けてきながらその雰囲気が、状況が、決して「いいえ」とは言わせない。
苦痛に呻き、今この場にいること、こんな事態を呼び込んだ自分の不運を後悔しながら男は必死に言葉を吐き出した。
「お、俺はただバイトがあるって言うから……だから……っ」
そこで一旦言葉が途切れる。
今までの比でない力で顔面が締めつけられ、悲鳴を上げるしかできなくなったからだ。その一方で、こんな人間離れした握力がこの細い腕のどこから出るのかと妙に冷静に考えている自分がいた。
「ふぅん。バイト感覚で人殺しを請け負ったってか? 随分と歪んだ倫理観だな。俺並みにろくでもない奴だな、お前」
遠くに冷めきった声を聞きながら視界が歪む。
痛く熱く苦しい。
助けてくれ、と何度も口に出したように思う。
真っ赤に染まった視界に最後に映ったのは人間らしさなど欠片もない、何の表情もない三嶌崎の顔だった。
マンションの一階正面玄関付近には管理人室という名の警備員用の部屋がある。襲は軽くノックしてから返事を待たずに扉を開けた。中には警備員服を着た初老の男が一人、モニターの前に座っていた。
「あ、田ノ原さん。裏手に一人、後はよろしく頼んます」
すると田ノ原は軽く頭を下げた。
「ああ、はいはい。襲さんもお疲れさんです」
「疲れてはないっすけど、こう毎晩安眠できないと寝不足がひどくて」
一つあくびをしてから襲は室内を見回す。
「他の警備はみんな出てるんすか?」
「ええ。私以外は皆お客の相手に行ってますよ。最近は敷地内だけでなく近隣も対象となったんで私らも人手が足らなくて」
そう言った田ノ原の目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
「藤堂会長は年内もたないってことだし焦ってるんだろうな、藤堂家の皆様も。聞いたところによると現在進行形ではーちゃんへの名義変更も邪魔しているって話だし。ほんっと必死だよなぁ」
ここ最近、葉月を狙った襲撃者が倍増していた。
同居を始めた当初こそ殺し屋の襲撃があったが、襲が葉月の警護をしている。その事実だけで一気に数は減った。裏社会において名を馳せたような殺し屋などは襲とそのバックの存在に気付けば勝手にこの件から降りてくれたが、それでもたまには無謀にも襲撃に来る人間はいた。葉月を殺して大金を得て、ついでに襲も殺して名を上げようというような輩だ。
だが結果として、誰ひとり葉月に近づくことすらできない。
正式に葉月の警護を担う襲をはじめ、このマンション内には普通の警備員よりいくらか腕が立つ警備員が数名詰めている。下手をすれば葉月どころか襲にすら会えずに退場する羽目になる。
それが噂として広まったのか、同居開始から一ヶ月もした頃には襲撃者らしい襲撃者もいなくなっていた。
ところかこの一週間ほどで、再び襲撃者は増えた。そのほとんどが素人と言っていいような人間だったが、藤堂十蔵サイドから受けた依頼は葉月の身を守るだけでなく、狙ってきた者への制裁も含む。それが一般人寄りの人間であろうと裏側の人間であろうと区別なく。
「にしても最近、ほぼ一般人みたいのが増えてきてません?」
「そりゃあ普通、少しでも裏と繋がる人間ならうちを相手にやらかそうってのはなかなかいないでしょう。そうなるとかえってうちの名前を知らない素人まがいの人間のほうが使いやすいんでしょうな」
「確かに手軽に使えるいい駒だろうけど、さすがに一般人を暗殺なんかに巻き込むってのはヤバイでしょうよ。金を積まれて暗殺を請け負うような奴も奴だけど」
「まったく嘆かわしい世の中ですね。雇う方も雇われる方もどうかしてますよ」
田ノ原は深く溜息を吐いた。
「だよなぁ。……ああ、もうじき四時か。どうりで眠いわけだ」
壁にかけられた時計を見て襲はうんざりした顔をする。
「じゃあ俺もそろそろ戻ります。早く戻らないと早起きなはーちゃんがうっかり起き出さないとも限らないし」
「それじゃあ後は私らがやっておきますので」
「うっす。お互い寝不足のとこ悪いけどよろしく頼んます」
そして扉を開けると、ちょうど今戻って来たところらしい若い警備員とすれ違った。
「お疲れさん」
「……お疲れ様です」
襲より若干年長に見える警備員もやはり疲れた様子で頭を下げて管理人室に入って行った。
背後で管理人室の扉が閉まる音を聞きながら、襲は六階の自室へと帰るべく非常階段を歩き始めた。
襲と入れ替わる形で管理人室に戻った若い警備員は後ろ手に扉を閉め、そのまま床に座り込んだ。
「杉並? どうした、疲れたか?」
田ノ原に話しかけられ、杉並はゆっくりと顔を上げた。
「先輩、あの人は本当に人間なんですかね?」
ああ、と田ノ原は納得いった風に頷いた。
「襲さんの事後処理はお前が行ったのか」
「はい。……話には聞いていたんですけど何ですか、あれ。人間にあんな芸当ができるものなんですか? あの人、道具も何も持ってないんですよね? 素手であんなことができるものなんですか?」
杉並は処理してきた現場を思い出し、身震いした。
そんな様子を見ながら田ノ原は静かに聞いた。
「お前はうちに入ってまだ日が浅いんだったか」
「……一年くらいですね。まぁ前も似たようなことはしてたんで、噂には聞いてたんですけど。人でなし集団の中の『人でなし』については」
「うちの売りだからな、彼らは」
「化け物だの人型兵器だのって有名でしたよ。この目で見るまでは噂に尾ひれ背ひれがついただけで実際は大したことないんだろうって思ってましたけど」
先日、初めて襲と顔を合わせて尚の事そう思った。裏社会で知らない者はいない『人でなし』であるはずの三嶌崎襲はどこにでもいる、ごく普通の若者にしか見えなかった。
「それにうちの実働部隊のボスの孫だって聞いていたし、どうせ七光か何かだろうって高を括ってたんですよ」
このマンションの警備員は格闘術や制圧術に長けた人間で構成されている。その上でさらに武器が支給されている。それなのに三嶌崎襲は武器ひとつ持たない。特殊警棒ひとつ持たず、防刃防弾加工の衣服を着用するでもなく、まるで散歩にでも行くかのような軽装でいる。
屋内にいる時ならば警護対象に無用な心配を与えるなと厳命されているのだからわからなくもないが、今日のように迎撃に出る時にすら彼は何の備えもなく出て行く。
その彼が藤堂葉月を殺害に来た刺客を迎えた後はといえばまさに惨状だ。
爆弾テロか大型重機が暴走したかといった風で、とてもではないが人間一人が何かした後には見えない。どんな力でどんな方法で何をすればこうなるのかと思われるような、目を覆いたくなるばかりの光景。
そんなことを一人でやってのける生き物が、今自分と同じ建物にいると思うだけで気分が悪くなってくる。
「人でなし集団の一員の俺が言うことでもないですけど正直俺、あれと一緒にされたくないと思いました。あんなの……人間じゃないっす」
「おいおい。人をあれとか言うんじゃないよ。いくら何でも失礼だろ?」
一応たしなめるように田ノ原は言うが、杉並は力なく首を横に振る。
「『人でなし』ってのはよっぽど非道なやり方をするとか、その程度だって認識だったんですけど違うんですね」
人でなしは文字通り、人ではない者。
人じゃない、何か別の生き物だ。
あんなもの、人間であるはずがない。
同じ人間だと認められるはずがない。
「……杉並、少し仮眠取ってこい。疲れているんだろう」
田ノ原に肩を叩かれ、杉並は黙って頷きながらゆるゆると立ち上がった。そのまま隣接する仮眠室へ向かおうとした足を止め、田ノ原の顔を見た。
「先輩。先輩はあの人、怖くないんすか?」
田ノ原は今回警備に派遣された中でも一番の古株で、杉並のような新入りとはわけが違う。だから聞いても返ってくる言葉は予想がついていた。
それでも聞かずにはいられなかった。
田ノ原は困ったように深く息を吐いてから言った。
「お前だけでなく長くうちにいる人間ですら、彼ら『人でなし』を猛獣か何かのように恐れている奴は多い」
そして続けられた言葉は、杉並の予想をはっきりと裏切った。
「私も未だに彼らが怖いよ」