少年少女初対面
藤堂葉月。
八月四日生まれ、十二歳。某有名私立小学校六年生。
藤堂グループ会長・藤堂十蔵の三女で、正妻ではなく藤堂十蔵の愛人の一人が産んだ子供。認知はされており、藤堂家から援助を受けながら長らく母子二人暮らしだった。
葉月が十歳時、母が恋人と共に葉月を残して失踪。後に事故で死亡が確認。保護者不在により児童養護施設に入居予定だったが藤堂十蔵が引き取り藤堂家に迎え入れられる。
その後、公立小学校から現在の私立小学校に編入。編入時より成績は良好だが、内向的で人間関係にやや難あり。
そんな経歴の少女、藤堂葉月と対面することになったのは襲が祖父から葉月の警護を命じられてから二日後のことだった。
とある六階建てマンションの最上階2LDKの部屋。
二部屋ある六畳ほどの洋室のうちの一室を自分仕様にするべく、襲は運び込まれたばかりの段ボール箱を開けていた。準備期間があまりに短すぎて私物は必要最低限しか持ち出せなかった。着替えに日用品、携帯電話、ゲーム機とソフト。それが今回の襲の私物の全てだ。
家具はあらかじめ備え付けられているので生活に困ることはなさそうだが、これでは後になってあれを持ってくればよかった、これが必要なのにない、ということになるかもしれない。
衣類をクローゼットにしまい終わって何気なく携帯を見ると、もうすぐ藤堂葉月がこのマンションにやってくる時間だった。祖父が用意した人間が連れてくることになっているからここまでの道中も彼女の身の安全は確保されている。それならば移動中に『不幸な事故』が起こることはないだろう。
藤堂十蔵の病状は重い。現在は都内の大学病院に入院して療養生活を送っているが、もういつ危篤状態となり、そのまま意識が戻らなくてもおかしくないという。病室での面会も制限されており、襲を指名してきた張本人、藤堂十蔵とは面会が叶わなかった。藤堂の秘書が代理人を務めるというから別に差し障りはないが。
その時、部屋のインターホンが鳴った。
部屋を出てモニターを確認すると襲も見知った、能面のような顔をしたスーツ姿の若い男が映っていた。
「井瀬です。藤堂様をお連れしました」
「わかった。今開ける」
インターホンから聞こえる声に答え、エントランスのロックを解除する。
それから一分程でもう一度インターホンが鳴った。井瀬の姿とその後ろに小柄な少女を確認し、玄関扉のロックを解除した。
「開けたから勝手に入っていいぜ」
そう言って玄関まで出ると、扉の向こうから水色のワンピースを着た少女が入って来た。その後ろからスーツケースを押してくる井瀬と、さらにもう一人見慣れないスーツ姿の男が入って来た。
井瀬は一歩前へ出て、頭を下げた。
「ご無沙汰しています、襲さん」
「おう、お疲れさん」
軽い挨拶を交わすと井瀬は少女とその横に控えるスーツの男を紹介した。
「こちらが藤堂葉月様、そして藤堂氏の代理人の田嶋様です」
少女と男が頭を下げる。
「……初めまして。藤堂葉月と申します」
「私は藤堂十蔵の第三秘書、田嶋と申します」
田嶋はスーツから名刺を取り出して襲に手渡した。そこには『藤堂グループ会長第三秘書 田嶋尚一』と書かれている。
「会長は病状が思わしくなく、この件につきましては私に一任されております。ですので何かあれば私に仰って下さい」
そう穏やかな調子で言って田嶋はもう一度頭を下げた。
柔和な顔立ちと雰囲気の男だ。大企業会長の秘書ともなると、絵に描いたようなエリートがなるものかと思っていたので少しばかり拍子抜けしながらも襲も軽く頭を下げた。そして田嶋の隣にいる葉月に顔を向けた。
「初めまして、俺は三嶌崎襲。これからよろしくな?」
できるだけ人当たりのいい笑顔を心掛けたつもりだが、葉月は口元を引き結んだまま頭を下げるだけだ。十二歳という年齢よりも幼く見える顔立ちだが、その顔に浮かぶ表情は硬く、全身で警戒しているのがわかるほどに体を強張らせている。田嶋と隣り合っているから余計にその冷ややかな雰囲気が際立つ。
(ま、命を狙われ続けたら子供でもこうなるか)
抵抗する術もない無力な子供が四六時中命の危機に晒され、他人の殺意を感じ取りながら生きていたら。普通の子供はきっとそうなるのだろう。
「あー……えっと、荷物は既に運び込まれているから。部屋、案内するよ」
一応笑顔を崩さず襲が話しかけると、葉月は小さく頷いた。
それからスーツの男二人へも声をかけた。
「田嶋さん達はどうします? お茶くらい出しますけど」
「自分はこれで失礼します。藤堂様を襲さんの元へお連れするまでが役目ですので」
井瀬の言葉の後に「私も」と田嶋が続ける。
「これから会長にご報告に上がらねばなりませんのでこれで失礼します。どうぞ葉月さんをよろしくお願い致します」
田嶋は深々と頭を下げ、葉月に穏やかな笑みを向けた。
「それでは葉月さん、しばらくこちらで生活して頂くことになりますが、何もご心配には及びません。三嶌崎さんがお側にいればこれ以上葉月さんに危険が迫ることはありません。どうぞ安心してお過ごし下さい」
「……はい。いつもありがとうございます、田嶋さん」
そう言いながらもやはり表情が硬い葉月に田嶋は少し困ったような顔をしながらも「何か不自由があれば何なりと仰って下さいね」と言い残し、井瀬と共に出て行った。
扉が閉まり、完全にこの部屋に襲と葉月は二人になった。
襲は井瀬が押してきたスーツケースを持ち上げ、短い廊下の奥を指差した。
「部屋はこっちな」
「はい」
葉月がサンダルを脱ぎ終え、丁寧に揃えるのを待ってから二人は廊下を進んだ。
廊下の突き当たりはリビングダイニング。その手前の左手に二部屋の洋間がある。
「手前の部屋に俺の荷物が運び込まれていたから、勝手に俺が手前の部屋にしちゃったけど何だったら変える?」
「いいえ。そのままで結構です」
それは一切のコミュニケーションを拒むような、切り捨てるような調子。
根っからの愉快犯。深刻とは無縁。楽しければそれでいい。そういう性質の襲には少しばかり息が詰まる。
けれど少なくとも一ヶ月はこの苦手な少女と生活を共にしなければならない。今さら彼女との相性が悪いのでやめたいです、などと言っても祖父は聞き入れないだろう。何しろ藤堂十蔵が葉月の身の安全確保のために祖父に積んだという金は、その一部が襲にも支払われているのだから。既に前報酬まで受け取っているくせにやめたいなどと言った日には、それこそ鉄拳制裁どころでない制裁を下されるかもしれない。怒り狂った祖父の姿が脳裏に浮かび、襲は身を震わせた。
そんな襲を見上げながら、葉月は遠慮がちに口を開いた。
「あの、一つ聞いておきたいのですけがいいでしょうか?」
「……え、ああ。何?」
彼女から話しかけられるとは思わず、一瞬反応が遅れた襲に葉月は少し眉をひそめた。
「まさかとは思いますが、あなたはロリータコンプレックスではありませんよね」
幼い外見の少女から放たれた言葉は高い殺傷能力と共に襲に突き刺さった。
二日前に祖父から、そして今日は初対面の少女から。この短い期間に複数の人間にそう訊かれた男は全世界にどれだけいるのだろう。意外と皆こんなものなのだろうか。それとも聞かれた自分はよほど日頃の行いが悪いのだろうか。
遠くに飛びかけた思考を強引に引き戻し、襲は笑顔を崩すことなくはっきりと強調するように言った。
「違うから大丈夫だよ……って言うか、俺はそんなにロリコンぽい? そんなつもりは毛頭ないんだよ。ないんだけどさぁ、もしかして俺が気付かないうちにそんな空気を醸し出していたりする!? だったら言ってくれ、直すから! そこんとこしっかり直すから!」
最終的に大人げなく取り乱した襲とは対照的に、葉月は至って冷静に答える。
「いえ、念のための確認で別に他意はありません。せっかく命の危機から逃れられても、今度は貞操の危機に晒されても嫌ですから」
「……安心しな。俺は中学生だって興味ないから」
「そうですか。では一応安心しておきます」
澄ました顔で言う葉月に、一応とはどういう意味だと問い質したくもなったがこれ以上無駄に精神にダメージを負いたくないのでやめておいた。
黙って葉月にあてがわれた部屋のドアを開け、スーツケースを押して入った。
あらかじめエアコンをつけて部屋を冷やしておいたので、ひんやりとした冷気が流れてきて気持ちいい。
「とりあえずこの部屋が……えーと名前、何て呼んだらいい?」
「何でも構いません。お好きに呼んで下さい」
葉月はどうでもよさそうに言って襲から視線を室内に移した。
そこは窓が一つに作りつけのクローゼットがある、ごく普通の六畳ほどの洋間だ。窓際には誰が用意したのかは知らないが、やけにかわいいデザインの白いベッドも置かれている。床の上には事前に運び込まれていた葉月の私物であるいくつかの段ボール箱が積んである。
「荷物はもう届いていたんですね」
「ああ、午前中に俺がここに来た時には既に俺の荷物もはーちゃんの荷物も運び込まれていたよ」
すると葉月は怪訝そうに襲を見上げた。
「あの」
「ん?」
「『はーちゃん』とはもしかして私の事ですか?」
「うん。葉月ちゃんだからはーちゃん。好きに呼んでいいって言うからさ。嫌なら他の呼び方を考えるけど」
「いえ……確かに好きに呼んで下さいと言ったのは私ですし……別にかまいません」
そう答えながらも不承不承といった様子がはっきりと見て取れる。
「そうか? まぁ不満ならそう言ってくれればいいから。そうしたら別のあだ名を考えるし」
「あだ名で呼ぶことは決定事項なんですか?」
不審な視線が襲に向けられる。
「俺はけっこう人の事はあだ名で呼びたいタイプなんだ」
胸を張って答えた襲を見て葉月は軽く息を吐いた。
「あなたのような大人は初めてです」
「いや、俺まだ十九歳だから。未成年だから」
「小学生から見たら十九歳は立派な大人ですよ。この場合、成人しているかどうかは関係ないです」
「んー確かに俺もガキの頃は大学生とか言うとすっげー大人って思ってたかも。けどいざ自分がなってみると全然大人になれた気がしないんだよな。ガキの頃から全然変わった気がしないしさ、どうせなら電車とか子供料金で乗せてくれればいいのになー」
そう言って笑う襲に対し、葉月は無表情の中にほんの少しの苛立ちを含ませた。
どうやら彼女はこういうふざけた態度がお嫌いらしい。ふざけていられるような状況にはいないのだから当たり前と言えば当たり前なのだろうが。
襲にとって葉月は警護対象であるだけの他人だ。好きも嫌いもない、ただそこにいるだけの人間。そんな相手を怒らせようと嫌われようと、そんなことは襲の知ったことじゃない。
だが葉月は他人とはいえ、これからしばらく共同生活を送る相手だ。少なくとも一ヶ月以上は一つ屋根の下、この決して広くない2LDKで暮らさなければならない。せめて少しくらいは仲良くなれるよう努力をしようと自分本位な襲にしてはめずらしく、そんな気まぐれを起こした。仲良くなれる努力とは言っても出来る限り軽薄な言動を慎み、コミュニケーションを取るくらいしか思いつかないし、そもそも軽薄なのは自分のアイデンティティーと言ってもいいくらいだから、慎んだってたかが知れてもいるのだけれど。
まぁ少しでも快適な生活のために努力をしようと努力するくらいしてもいいだろう。
笑い上戸と言われるくらいに笑いっぱなしの顔の筋肉を少しだけ引き締めて、襲は新たな話題を振ってみることにした
「ところでさ、一応はーちゃんが把握している現状ってやつを知りたいんだけど」
「現状、ですか?」
「そうそう。はーちゃんが俺みたいな奴としばらく共同生活を強いられる羽目になった原因なんかを」
「事前に田嶋さんから聞いていませんか?」
「一通り聞いてはいる。でも当事者から見解と周囲の見解にズレがあるってのもよくあるからさ」
すると葉月は少し眉根を寄せてから答えた。
「……把握している現状も何も、ただ単に私は藤堂の一族から明確な殺意を向けられている。私の遺伝子上の父親だとかいう男が余計なことをしたせいで。それだけです」
「その遺伝子上の父親だとかいう男ってのは、父ちゃんのことか? 随分遠まわし言い方だな」
「あんな男、父なんて呼びたくありません」
吐き捨てるような葉月の言葉に、襲は軽く面食らう。
「あの男のせいで私は藤堂の家で暮らさなければならなくなりました。それだけでもたまったものではなかったのに、今度は命まで狙われる羽目にまでなって……冗談じゃない」
「はーちゃんは父ちゃんが嫌いなのか?」
率直な言葉に、葉月は襲の目を見てはっきりと答えた。
「殺してやりたいほど憎いです」
所詮は子供の戯言、で済ませるにはあまりに重い響きだった。
なるほど。祖父が襲の言葉に激怒する理由がわかった気がする。確かに傍で聞いていて気分のいいものではない。
「そんなに嫌いなら家出でもしてみたらいいんじゃね? そんな殺したいほど憎い相手と一緒に暮らしてたらお互いの精神衛生上よくないだろ?」
「そんなこと、もうとっくに実行しましたよ」
葉月は冷めた調子で言った。
「過去十二回程家出を試みましたが、その都度あの男がお金を積んだ大人達に見つけ出され、連れ戻されてしばらく自室に軟禁されておしまいです」
「それはそれは……さすが金持ちだ」
感嘆と呆れとが入り混じった相槌に葉月は溜息を吐いた。
「あの男はお金を払えばできないことなどないと考えているような低俗な人間なんです。私が今通っている学校は通常編入生は受け付けていませんが、それは多額の寄付金を支払うことで特別に許可されました。藤堂の一族の誰かが傷害事件を起こした際も警察やマスコミにお金を渡し、被害者に治療費と慰謝料いう名目でやはりお金を渡して事件自体をなかったことにしました。そうやってお金をばら撒くことであの男は全て自分の思い通りにしてきたんです。本当に……下衆以外の何者でもない」
それは年齢にそぐわない、心底不快げな調子だった。
「あー……何て言うか本当に父ちゃんが嫌いなんだな」
「さっきからそう言っているでしょう。本当だったらあの男がお金を払って連れてきたあなたとの同居生活だって拒否したいところでした」
「けどそんな反抗心で拒否ったら、多分はーちゃん死ぬぜ?」
葉月は率直過ぎる襲の言葉に眉根を寄せながらも頷いた。
「仰るとおりです。遺産も与えられる資産も全て放棄すると言ったところで藤堂の欲深な一族達が今さら聞き入れるとも思えませんし、あの男の指図というのが気に入りませんが、正直身の危険が減ることはありがたいです。私は死ぬ前に成し遂げたいことがあるんです。それまでは絶対死ねません」
それは強い意思を伴った言葉だった。
譲れない意思なんて、貫きたい意思なんて持ったこともない襲には痛い程の必死でまっすぐな言葉だった。
それから葉月は襲に向かい、丁寧に頭を下げた。
「すみません。私はあまり性格がよくないので散々生意気と身勝手を言ってしまいましたが、今の私は人に頼るしかできません。ですからあなたにもお力添えをいただきたいです。どうか私を守って下さい」
「うん、わかってる」
襲の言葉に葉月は顔を上げた。
「まぁ大船に乗ったつもりでいろよ。俺はこれでも仕事には忠実な男だ。ここにいる限り、はーちゃんに命の危機は近付けないからさ」
そう言って笑いかけると葉月はほんの少し、安堵したように強張っていた表情を崩した。
「ありがとうございます。どうぞこれからよろしくお願いします、三嶌崎さん」
「待った。その三嶌崎さんて呼び方はパス。どうも俺、苗字で呼ばれるのは苦手なんだよ」
「はぁ……では襲さん、ですか?」
「襲さんって何か堅苦しくね? 襲でいいよ」
すると葉月は真顔で首を横に振った。
「よくありません。年長の方を呼び捨てになんてできません」
「別にいいじゃん。俺がいいって言ってるんだからさ。俺はあんま年上とか年下とか気にしない方だし」
「駄目です。と言うか無理です、私が落ち着かないです」
葉月は表情をひきしめ、強い調子で言い切る。
「じゃあ妥協案だ。せめてくん付けで呼んでくれよ」
「『くん』? 襲くん、ですか?」
「そうそう。親戚に年下の女の子がいるんだけどな、昔からその子は俺のことをそう呼ぶから」
「……まぁ呼び捨てよりはいくらかマシですね。わかりました。ではお互いの主張の真ん中を取るということで、襲くんと呼ばせていただきます」
「ついでにタメ口でいいからな。敬語じゃ堅苦しすぎるし」
「私の敬語は癖なんです。年齢に関係なく誰に対してもこうですからあまり気にしないでください」
「ふーん。まぁならいいけど、おもしろい癖だな」
今は他人行儀な風で落ち着かなくとも、毎日顔を合わせていればいずれ慣れるだろう。
「時にはーちゃん、俺のことはどういう風に聞いている?」
「どういうと言われましても、田嶋さんからは「生活を共にすれば身の安全が保証される」と聞いています」
「他には何も?」
「ええ。どういう風に安全が保証されるのか聞いてのですが、私は詳細を知る必要はないからと教えてもらえませんでした。あの人は私の世話を任されているせいか、少し過保護なところがあるので」
当事者でありながら蚊帳の外に置かれるのが気に入らないのだろう。そう言って葉月は少し不満そうな顔をした。
「俺的には英断だと思うぜ? ただでさえ今は危なっかしい身の上なんだからさ、何も自分からさらに危なっかしいことに首を突っ込むことはねーよ」
「……襲くんは危険な事情をお持ちですか?」
葉月の顔に露骨に嫌そうな色が浮かぶ。これ以上厄介事はごめんだと言わんばかりに。
そんな葉月の様子に襲は満面の笑みで答える。
「ご想像にお任せするよ」
葉月はじっと襲を見つめてから深く息を吐いた。
「……正直想像もつきませんが、あなたが田嶋さんの過保護を英断と言うのならそうなのだと今は思っておくことにします」
その『今』からおよそ一ヶ月後。
「襲くんの言う人でなしとは、人の分のおやつを食べてしまうことを言うのですか?」
小さく震える声が襲を問い詰める。
「いや、食べるのが遅かったから嫌いなのかと思って善意で……」
「嫌いじゃないです。むしろ美味しいから大事に食べようとしていたんです」
襲と葉月が挟んだテーブルの上には何も乗っていない皿が置かれている。
ついさっきまでその皿の上には手作りのマドレーヌが四つ乗っていた。いつも夕食を届けてくれる襲の親戚が多く作りすぎたからと持って来てくれたもので、夕食後のデザートとして二人で食べるつもりでいた。
四つあるから一人二つずつで、と一応確認し合ってから食べたマドレーヌは売り物みたいに美味しかった。襲は好物でもあるマドレーヌをさっさと二つをたいらげ、葉月は最初の一つに口をつけるなり酷く衝撃を受けたように固まり、それからしばらくしてえらく真剣な顔で小鳥がついばむように少しずつ食べ始めた。
それを見て襲は思った。
普段はテーブルマナーの見本のようにきれいな所作で食べる葉月がこんな不思議な食べ方をするのは、味が口に合わないからなのではないかと。一口食べて固まったのは、美味しくないと感じたからなのかもしれないと。けれど葉月はあまり生活の不平不満を口にするほうではない。作ってもらった食事は残さず食べて当たり前という風な少女なので、嫌いな食べ物でも残すということができないのかもしれないと襲は考えたのだ。
なのであくまでも好意で、葉月が残していたもう一つのマドレーヌに手を伸ばしてそのまま口に運んだのだ。一つ多く食べれてラッキーとか思ったりもしたが、だからといって悪意はなかった。
そして自分のマドレーヌが襲の口に入った瞬間、葉月は目をまん丸にして「何で食べちゃうんですか!?」と今まで襲が聞いたこともないような大声を出した。
そして葉月は嫌いだから少しずつ食べていたのではなく、とても好みの味だったので少しずつ大事に食べようとしていたのだと知る。
「気遣ってくれたことには感謝しますが、あんまりです……一言聞いてくれればいいじゃないですか……」
葉月は空になった皿を名残惜しそうに見つめている。いつも無表情に近いポーカーフェイスの彼女の顔ははっきりと落胆の色が浮かんでいる。いつも冷静で大人びているだけに、相当ショックだったのだと嫌でも思い知らされる。
襲は顔の前で両手を合わせた。
「本当にごめんって。あんな真顔でちょびちょび食ってるから、食べたくないのかと思ってさ。確認しなくて悪かったよ」
「……いえ、私もきちんと美味しいと言うべきでした」
覇気のない声にさすがの襲もいたたまれなくなってくる。
「また作ってくれって頼んでおくからさ! 他にはーちゃんが好きな菓子って何だ? それも作ってもらおうな。あ、そうだ。まだ冷凍庫の中にこの間ネットで買っておいたアイスが残っているんだよ! ハーゲンダッツだぜ? 俺の秘蔵だったんだけどお詫びにはーちゃんにやるよ!」
「いいんですか?」
「おう、クッキー&クリームとストロベリーとグリーンティーがあるぜ。好きなのを食え!」
ほら、と冷凍庫から取り出したカップアイスをテーブルの上に乗せて行くと、葉月の目がきらきらと輝く。そして小さく一言。
「……じゃあクッキー&クリームを頂きたいです」
「よし、食え! 食って元気出せ!」
カップの蓋を開けて葉月に突き出すと、葉月はわずかに口元を綻ばせた。
「嬉しいです……クッキー&クリーム、大好きなんです」
「そっか、よかったな。じゃあ今度ははーちゃんの分も注文しような?」
「はい」
頷いた葉月の顔には本当にごくささやかな、見逃してしまいそうなほど微かなものではあったけれど確かな笑顔が浮かんでいた。
同居開始から一ヶ月半ほど。
ようやくお互い今の生活に少しは慣れた、と言えるところまで来た。
葉月にしても当初より襲に対するぎこちなさは薄れてきたし、襲も遠慮なく軽口を叩き、彼女の分のおやつを食べてしまう程度には。
警戒心が強い葉月がいくらか襲に対して気を許すようになってきたのだ。それは確実に、刻々と、それだけの時が経ったということ。
元々そう長くなる予定はなかったこの生活の終わりは多分そう遠くないのだろうと、やはりちびちびとアイスを食べる葉月を見ながら思った。