ここに至るまでの経緯
それは襲が葉月と暮らし始める少し前、九月も半ばの頃だった。
大学の夏休みは高校までと違い長い。まだ半月ほど残った夏休みを自宅で自堕落に享受していたところ、襲は祖父の部屋に呼びつけられた。
部屋の真ん中には浴衣を着崩して胡坐をかいた総白髪の老人、襲の祖父が座っている。決して大柄ではないがただ黙っているだけでもやけに威圧感があり、やくざの大親分のようだと称される。そう言われるようになったのは彼の右腕の肘から下がないことも所以の一つだろう。第二次大戦中に負傷したのだそうだが本人にとっては名誉の負傷なのだそうで、その日から七十年近く経つ現在まで義手をつけず隻腕のまま過ごしている。おかげで襲が物心ついた頃には既に片腕でも生活に不自由はないようだった。
不自由どころか、この祖父に至ってはそれでようやくバランスが取れているとすら思われる。子供の頃から残った左腕による鉄拳制裁を受けてきた身としては、バランスって何? と思わなくもない。
「何だ、人の部屋に入ってくるなり黙り込みおって」
向かい合ったきり黙った襲を見て、祖父は怪訝な顔をした。
「あー何でもない。それより用事って?」
「ああ、襲。お前、少女愛好家だのロリコンだのではなかったな」
「……は?」
一瞬、言われた意味が理解できず聞き返した襲に、さらに祖父は続けた。
「世の中には子供にしか欲情しない男もいると言うが、お前はどうなんだ?」
まさしく鷹のようだと形容される鋭い眼光が襲に向けられる。
襲は子供の頃からの条件反射で身を竦め、黙り込んでしまいそうになりながらも何とか言葉を絞り出した。
「どうって……えーと何だ? つまり俺は、実のじいちゃんからロリコン疑惑をかけられてるってことか」
そうして口にした言葉で改めて自分の置かれた状況を確認してしまった。
「って、それはあんまりじゃねぇ!? いつ俺がロリコンっぽい素振りを見せたんだよ!? 今までだって俺、普通に同級生とか先輩とかの彼女いたじゃん!?」
何が愉快で十九年間家族として共に暮らした実の祖父にそんな疑惑をかけられなければならないのだ。
慌てふためく襲に対し、祖父は泰然と答えた。
「別に疑惑なんてかけとらん。単なる確認だ。違うなら違うで構わん。まぁ仮にロリコンだったとしても、世間様に迷惑をかけなければ別にお前の性癖なんぞ何でも構わんわ」
そう言いながら胡坐をかいた足を組み替えた。
「ちなみに小学六年生の女子児童は大丈夫だな?」
「大丈夫だなってどういう意味で大丈夫なんだよ。別に俺は小学生に興味ねぇよ。俺の守備範囲の下限は高校生からだよ」
「そうか。そりゃあよかった。なら大丈夫だな」
「だから何の話だよ? 何だよ、子守りでもしろってか?」
そういうことなら今までも何度か経験がある。
襲には身内が多い。どれくらい遠縁かよくわからないような親戚とも付き合いがあり、親戚同士の集まりの中でよく年少の子供達の面倒を見させられてりしていた。
だから今回もその一環かと思ったのだが。
「儂の古い知人に藤堂という男がいてな。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう。不動産だの保険だの製鉄業だのと手広く営んでいるいけ好かん男だ」
「じいちゃんの知り合いだっていういけ好かない藤堂さん本人は知らねぇけど、藤堂グループなら知ってるよ。こないだ週刊誌に『華麗なる一族、巨額の資産を巡る骨肉の争い!』とか載ってた」
「お前、学生ならせめて経済ニュースで名前を聞く、くらい言えんのか」
呆れたように言う祖父に襲は軽い調子で笑ってみせる。
「いやぁ俺は経済専攻じゃないからさ。何にしてもよっぽど金が有り余っているのな。この不景気にあやかりたいもんだよなぁ」
「ならあやかってこい。その藤堂が金を積んで頭を下げてきた」
「は?」
祖父は側に置いてあった団扇で自分を仰ぎながら、何だかどうでもよさそうな調子で言った。
「藤堂グループの現会長は藤堂十蔵と言ってな。戦後、親から受け継いだ潰れかけの複数の事業を一代で立て直して日本経済に貢献したとして、今では経済界の黒幕の一人だなどと言われておる。とにかく悪運の強い奴だったが、先日今までの悪行の報いかとうとう余命宣告を受けたらしい」
「じいちゃんの古い知り合いってことは、もう結構な年なんだろ? そりゃあ余命宣告くらい受けたっておかしくはねぇだろ」
この祖父とて矍鑠としていてとてもそうは見えないが、実は結構な年だ。当人は意地でも認めないが。
すると祖父は手近にあった新聞を手に取るなり、襲の頭を叩きつけた。防ぐ間もなく、バシンと軽快な音が部屋に響き渡る。
「痛ぇ……」
たかが紙と言えど、朝刊を丸ごと束にして叩けばそれなりに痛い。それも叩いてきたのが無駄に力の強い祖父となれば尚さらだ。
叩かれた頭に手をやりながら非難の視線を向けると、祖父は眉を吊り上げて怒鳴りつけてきた。
「儂はまだ若いわ! 藤堂の奴めはその儂より若輩だ!」
頑固ジジイは孫の一切の抗議を受け付けるつもりは一切ないご様子だ。
既に八十半ば。決して若いとは言えない、公共交通機関で優先席に座っていても誰も文句を言わない、むしろ普通に席を譲られてもいい年齢だ。けれど祖父は気ばかり若い。そのため年寄り扱いすると露骨に機嫌が悪くなる。そうやって若いと言い張る所が若くないのだと思いながらも、面倒なのでそれは胸の内にしまい、襲はそれ以上の抵抗を諦めた。
「はいはい。じいちゃんは若いよ、若い。こないだ傘寿のお祝いしたばっかだもんな。ぴっちぴちだよ。それでその藤堂さんってのがまだまだ若いじいちゃんに金を積んで頭を下げて何だって?」
「……うむ」
おざなりながらも「若い」という枕詞に一応納得したのか祖父はまだ手にしていた新聞紙を脇に置いて、ついでに話も戻した。
「お前が見たという週刊誌の記事の通り、藤堂の周辺では今、藤堂の資産を少しでも多く得るため身内同士で諍いが絶えないらしい」
身内同士で嘆かわしいことだ、と心底呆れたように祖父は息を吐く。
今時珍しいほどに家族親族を大事にしている祖父には、金のために身内同士で争い合う事態など想像もつかないのだろう。
財力、権力よりもまず一族郎党を第一とする。
それが家訓だとかで家の者は皆そのように言われて育つ。そのおかげか襲も家族のことは大事に思っている。だが世の中全てがそうでないことも知っている。血縁があろうとなかろうと、永遠の愛を誓った仲であろうとなかろうと、そんなものが何の意味もなくなってしまう時もあるということを知っている。
「ま、金が絡むとどうしてもな。よく遺産相続で揉めたとか聞くじゃん」
「金で家族の繋がりは買えんだろうに」
祖父はまだ納得いかないようだったが所詮は他人事、これ以上考えても無駄だということは本人が一番よく分かっているのだろう。もうひとつ溜息を吐いてから話を再開した。
「とにかく藤堂は本人もろくでもない男だが、その周辺の人間というのも藤堂本人に輪をかけてろくでもない輩ばかりらしい。子供だの孫だの甥姪だの嫁だの婿だの、皆躍起になって自分の取り分を増やそうとしているそうだ。その上、藤堂本人が一族に自分の意向を明言したことが新たな火種となった」
「親戚が揉めるようなことって言うと、普通なら割かし平等に分けられるはずの遺産が大きく偏るようなことか? 自分の遺産は全額寄付するとか」
「残念ながらあの男にそんな慈善精神はないが、偏りはするな。藤堂は自分の資産……金銭はもちろん関連企業の株や不動産、様々な権利の大半を一番末の娘に遺すと言い出した。法律上、遺産は平等に分配されることになるから、今まさに自分名義の資産の大半をその末の娘名義に書き換えようとしている最中らしい。そして残った遺産を他の子供達などと平等に分配させるつもりだと」
「そらぁまた、徹底して不平等極まるな。よっぽどその娘さんがかわいいのかね」
襲としては冗談半分の意見だったのだが、祖父は渋面で頷いた。
「そうだろうな。何せその娘と言うのはまだ十二歳だというのだからな」
その言葉に襲は首を傾げる。
「待った。孫でなくて娘? 十二歳で? 藤堂さんって一体今いくつだよ」
「八十は過ぎとる」
つまり、その末の娘というのは七十前後の時の子供ということか。まぁ全く聞かない話というわけでもないので不可能ではないのだろうが。
「……随分元気なんだな、藤堂さん。頑張りすぎだろ。つーかじゃあもしかしてその末の娘さんてのは奥さんの産んだ子じゃねぇの? さすがに七十近かったら出産は難しいよな」
もしかしたら年の離れた若い妻がいるのか、と襲が思ったところで祖父は相変わらず渋面で肯定した。
「そういうことだ。数多くいた愛人のうちの一人が産んだんだそうだ」
「はぁー」
襲は感嘆にも似た声を漏らした。
「本っ当に元気だねぇ。さっすが金持ち、お盛んなこった。一体生涯で何人のお子さんを作ったのかね」
「下卑た言い方をするな。お前と話していると話が深刻にならんわ」
祖父は顔をしかめた。
「まぁまぁ。深刻にならなくたって要件が伝わればいいじゃねーの」
「まったく……それでだ。元々その娘は藤堂の愛人だった母親が失踪したことでやむなく藤堂家に引き取られることになったということで、他の親族からよい扱いは受けていなかったらしい。そんな娘に藤堂の莫大な遺産の大半が渡る。となると欲深な連中は彼女に対してますます辛辣な態度をとる」
「ありがちな展開だ」
襲の皮肉めいた言葉に、祖父は厳しい顔で言った。
「そのありがちの末、ここ最近ではその末娘は何度となく命の危機に瀕しているそうだ」
「そらぁますます二時間ドラマ的な展開で。何だよ、ご親戚の皆さんが殺し屋でも雇っちゃったか」
「らしいな」
「マジかよ。殺し屋雇うのだって結構金がかかるだろ。女の子一人にそこまでしなくたって、自分で殺ったほうが早いし手軽……」
襲が言い終わらないうちに、先程の比ではない痛みと衝撃が襲の頭を襲った。今度は祖父の鉄拳制裁だった。
「ぐぉぉ……」
痛みで呻き声しか出せない襲に激しい怒声が浴びせかけられた。
「軽々しくそんなことを口にするなと何度言ったらわかる! この馬鹿者がっ!」
空気を震わせるほど、血管が浮き出るほどに本気で怒っている。
そう言えばそうだった。そういう系統の軽口も祖父は嫌うのだ。家族親族の誰であれそうだが、特に襲に対しては。
鬼と形容しても足りない形相の祖父を前に、襲は大人しく頭を下げた。
「……スミマセンでした」
久々に祖父の本気の怒声を聞きつけた家人が部屋の外に集まってくる気配を感じながら襲は頭を下げ続ける。
酷く張り詰めた空気が支配していた。
しばらくの沈黙の末、祖父は重たい息を吐いた。
「命を軽んじる発言はするな」
「はい」
「行動に移すこともだ」
「はい」
「お前と儂だからこそだ」
「はい。わかってる」
「……もういい、頭を上げろ。まったく。お前は儂の血圧を上げてどうしたいと言うのか」
祖父はぶつぶつとぼやきながらも怒りを解いたらしい。
幾分か空気が軽くなったように感じ、襲も頭を上げた。殴られた頭はまだ痛む。そっと触れてみるとどうやらコブになっているらしい。世界広しと言えど、これほど暴力的な痛みを与える拳骨を食らわしてくるのは祖父だけだろう。
「さて、いくらお前がバカでもこれでわかっただろう。要は藤堂の末娘の身辺警護と彼女に直接的に危害を加えてきた者への制裁だ」
「バカとか言うなよ、自覚はあるから。で、身辺警護? それってうちのって言うか、俺がすることじゃなくね?」
そう言うと祖父は嫌そうに眉間にたっぷりと皺を寄せた。
「仕方なかろう。それはうちの仕事じゃないと言って、無視できる相手じゃない」
「あーそっか。金も権力もある人だもんな、藤堂さん。上のほうとも繋がっているわけか。いくらじいちゃんでも、さすがにお上に逆らうわけにはいかねぇもんな」
宮仕えは辛いねぇと笑うと、祖父は心底嫌そうな顔をした。
「わかっているのなら大人しく言うことを聞け。ろくでもない奴とは言え、儂にとっては少なからず縁があった人間のことでもある。それも父として娘を守ってくれと言われて断ったら男ではないわ。とは言え本来ならお門違いの仕事に大規模な人員は割けない。誰か信頼できる者を末娘につけ、あとはせいぜい少数がサポートという形だろう。お前には末娘が資産を受け継ぎ、藤堂が死んだ後の遺産相続が成立するまでの間、どこか安全な場所で彼女と暮らしてもらうことになる。早ければひと月、長くても半年は行かないだろう」
そう言った祖父の顔はどこか気落ちしているようだった。いけ好かない人間だなどと言いつつも、やはり知人に先立たれることはそれなりに辛いものなのだろう。こんな厳つい外見のくせに、この祖父は妙に情に脆いところがあるから。
たまにはそんな祖父相手に孝行するのもいいだろう。
「へいへい、了解ですよ。でもさ、何で俺? 自分で言うのも何だけど俺はいい加減な奴だし、もっと気のきくタイプのが向いていると思うし、女の子のそばにいるなら女の人のがいいんじゃ?」
「向こうが指名してきた中で一番暇なのがお前だ」
「暇って言うなよ。暇だけど」
「最近お前はますます名前が売れてきたろう。それを聞きつけたらしい」
「照れるね」
「褒めとらんわ、バカ孫。明らかに悪評だろうが」
呆れ果てたように言って祖父は座卓の上に置かれていたファイルを手に取った。
「詳細はこれだ。目を通しておけ」
「ん」
「それからくれぐれも言っておくが」
祖父は睨むように襲を見た。
「まだ十二歳の娘に手出しするような真似だけはしてくれるなよ」
「だーかーらっ! 俺はロリコンじゃねぇっつってんだろ! 少しは孫を信用しろやクソジジ……」
直後、目上の人間に対する言葉遣いの指導という名目の下、本日二度目の鉄拳制裁が襲に下された。