二人めくる物語
二人でレトルトの昼食を食べ、片づけが終わったら各々勉強したりゲームをしたりと自由に過ごす。そして最早二人の生活において何の違和感なく溶け込んでいる『夕食の宅配』を受け取り、また二人で食卓を囲む。
向かい合わせに座ったテーブルの上に電子レンジで温め直したばかりの料理を並べていくと、普段あまり表情を変えない葉月の顔がわずかに緩んだ。
「いい匂いです」
特にメインディッシュであるハンバーグが気になるらしく、大きな目はじっと大皿を見下ろしている。
「じゃあ食おうか」
「はい。いただきます」
「いただきます」
葉月と揃って手を合わせ、それぞれ食事を始めた。
同居を始めた当初は「いただきます」と「ごちそうさま」と共に手を合わせる習慣のある襲を見て葉月は不思議そうにしていたが、今はつられるようにして彼女も一緒に手を合わせている。
「それにしても襲くんが食事の前に手を合わせるなんて、正直外見からは想像もつきませんでした」
「んだよーまたピアスネタか? うちは料理屋をやっているからそういうのにけっこううるさいんだよ。「いただきます」を言わずに食事を始めようものなら家族の誰かしらに激しく怒られたからな。じいちゃんなんかはぶん殴ってくるからたまったものじゃない」
「襲くんのおうちは料理屋さんなんですか?」
葉月は意外そうに目を丸くした。
「うん。この料理を作った俺の親戚、あいつもその影響で料理好きになったんだよ」
「だからあのお兄さんはこんなにお料理上手なんですか。……でもその割に襲くんはお料理苦手ですね」
鋭い指摘に襲は肩を竦めてみせた。
「だって俺はそういう才能、全然ねえんだもん」
なまじ料理上手な家族に囲まれて育ったせいだろう。ただの家庭料理にしてもかなり高水準な食事をしてきたらしく、味に厳しい傾向がある。あまり人には言えないが、生半可な食事では「美味しい」と素直に感じられないのだ。そしてその生半可な食事には残念ながら襲自身が作った料理も含まれる。
「練習したこともあったんだけどな、どうしても俺が作るより他の家族が作った食事のほうが美味いわけだ。となるとますます自分の料理なんて食う気も起きなくなる。そんなわけで俺は早々に料理は食う専門となったわけさ」
数時間前に焼き上がったばかりだというロールパンを手に取り、襲はしみじみと言う。
「まぁ確かに、私もこれだけの料理を毎日食べていたら自分で作る気もなくなる気がします」
きれいな所作でナイフとフォークを操り、ハンバーグを切り分けながら葉月は頷く。
「そういやはーちゃん家って料理人とか雇っていたりするのか?」
「普段は料理が上手な家政婦さんが作ってくれていますけど、お客様をお招きする時などはプロの料理人の方にお願いしているようです」
淡々と答えてから葉月は一口サイズに切ったハンバーグを口に運んだ。しばらく咀嚼していると葉月の顔がほころんでいく。そして一息吐いてうっとりとした声で言う。
「すごく美味しいです」
「そっか。そりゃあよかった」
あまり嬉しそうに言うから襲までつられて笑えてくる。
「正直なところ今まで食べたどの料理より、襲くんのご親戚のお兄さんが作った料理のほうが美味しいです。あのお兄さんはプロの料理人にはなられないんですか? お家のお店を継いだりとか」
「んー多分ないな。ちゃんと修行とかしたわけでもないし、あいつも今の主夫生活が気に入っているみたいだし」
「そうなんですか。残念です。お店で働いてくれたらこの生活が終わった後もあの方のお料理を食べることができると思ったのですが」
葉月は少し残念そうに目を伏せた。
襲と葉月のこの同居生活はいずれ終わる。正確な時期はわからないが、長くても半年はいかないだろうというのが大方の予想だ。その時が来ればお互い本来の家に帰り、そしてその後二人が接点を持つことはないだろう。
それは襲も当然自覚しているし、葉月もそれくらい誰に言われなくとも理解しているはずだ。
少しの沈黙の後、襲は努めて明るい声で話題を変えた。
「そうだ。今日は読書感想文の本を探すとか言ってたろ? 何かいいのはあったか?」
すると葉月は困ったような顔をした。
「ああ、いくつか候補は絞ったのですけどどれにしようか迷っているんです。参考までに聞きたいのですけど、襲くんはどんな本で読書感想文を書きました?」
「俺? えーと中学の時だったら確か無難に芥川とか選んでたな」
「芥川だと『蜘蛛の糸』あたりですか?」
「んにゃ。同級生がみんな薄いって理由で蜘蛛の糸を選んでいたから、ひねくれ者の俺は『河童』にした。あとは坂口安吾の『夜長姫と耳男』で、夜長姫がマジ好みですって書いてクソ真面目な教師に心配されたり」
「夜長姫と耳男? 読んだことないです」
「『白痴』や『桜の森の満開の下』とかに比べると有名ではないからな。俺は好きなんだけど。夜長姫かわいいし」
それに関しては当時の同級生達にもドン引きされたし、決して多数派の意見ではないだろうが。
すると葉月は怪訝な顔をした。
「かわいいお姫様が出てくる話ですか。襲くんがそういう話を好むというのは少し意外です」
「俺、好みのかわいい女の子が出てくる話は好きだよ。きれいな女の人が出てくる話でもいいけど」
「人魚姫とかシンデレラとか童話のお姫様は大抵きれいでかわいいと相場が決まっていますけど、襲くんもそういう話を読むんですか?」
「まさか」
襲は首を横に振りながら二個目のバターロールに手を伸ばした。
「ガキの頃は絵本で読んだけど、別に俺の好みではなかったから小学生くらいになってからは読んでないな」
「じゃあどんな本を読むんです? 現代文学ですか?」
「現代モノも読むけど、近代が多いかな。何か雰囲気がエロくていい」
「……襲くん、私はまだ小学生です。もう少し情操教育に気を配って、なおかつ言葉を選んで下さると嬉しいです」
葉月の冷ややかな視線に襲は苦笑する。
「や、はーちゃんはしっかりしているからつい」
「しっかりなんてしてませんよ。そういうフリをしているだけです」
葉月は呆れたように溜息を吐いた。
その仕草が妙に馴染んでいて、いくら外見は年相応であってもやはり子供を相手にしているようには思いにくい。
「それはそうと、それで襲くん好みの女性が登場する小説というのはどんなものなんですか? 私には到底想像がつかないのですが」
「んーそうだな。『斜陽』の主人公はけっこう好きだな。それに『夜叉ヶ池』の白雪も嫌いじゃない。あと『袈裟と盛遠』の袈裟もよかったし」
「どれも読んだことはありませんが、斜陽は確か太宰でしたっけ?」
「そうそう。俺、太宰はけっこう好きなんだ」
「太宰治は『走れメロス』なら教科書に載っていたので読みました。『人間失格』はまだ読んだことはありませんが、読むと暗くなると同級生が言っていたのを聞いたことがあります」
「ああ、まぁそうかもな」
そういえば襲の同級生達もそんなようなことを言っていた。
暗いし救いはないしもう読みたくないと確かそんな感想が周囲で聞こえてきた。下手に反対意見を述べて目立つのも躊躇われたので、襲も上辺だけは同調しておいたが、その後も何度も何度も読み返している。
人間失格を読んで、生まれて初めて共感と言える感覚を知った。
多分共感だったのだと思う。何しろ未経験のことだったしそれ以外に共感と言えそう感情を持ったことがないので、多分そうじゃないかと思うくらいだが。
初めて読み終わった時のことは今でもよく覚えている。
こういう人間もいるのだ、とほんの少しの安堵を覚えた。
そして、何だか無性に泣きたくなった。
懐かしさ似た何かに浸っていると、どこか躊躇いがちに葉月が尋ねてきた。
「人間失格は人間として失格している人の話なんでしょうか?」
「どうだろうな……確かに主人公自身がそう断じているけど、人によって解釈も変わってくるんじゃないかと思う」
「……そうですか」
葉月は少し考え込むような素振りを見せてから小さく頷いた。
「私も読んでみようと思います。人間失格」
「いいと思うけど、人によっては死にたくなるほど落ち込むって話だぜ? はーちゃんは大丈夫か?」
「それはわかりませんけど、読みます。もう決めました」
はっきりとした調子に襲は笑って頷いた。
「おう。じゃあ読んだら感想を教えてくれよ」
「多分面白みのある感想は言えないと思いますが、それでよければ」
それから葉月はああ、と思い出したように言った。
「それで襲くんは人間失格を読んだことがあるんですか? もしあるなら襲くんの感想も聞いてみたいです」
「俺? 俺は――……」
葉月はまっすぐに、真摯な目を襲に向けていた。
それを見て、適当に当たり障りのない『普通』らしい答えを吐き出そうとした口を閉ざした。
「……そうだな。はーちゃんが読み終わった時に俺も言うよ」
「今聞かせてくれないんですか?」
「うん。余計な先入観なしに読んだほうがいいだろ?」
「そういうものでしょうか?」
「そうそう。そういうものだ。ほら、せっかくの夕飯冷めちゃうし食おうぜ。何なら俺がはーちゃんの分まで食ってやるから」
「駄目です! 全部自分で食べます」
葉月のハンバーグに手を伸ばしかけた襲を見て、葉月は慌てて皿を自分のほうに寄せた。