君と向かい合う
断続的に爆音と銃声、それに混じって怒声が聞こえてくる。
防音設備の施されたこの部屋にいてそれが葉月の耳にまで届くかどうかは怪しいところだが、少なくとも襲と朝比奈の耳にはしっかりと届いている。
決して少なくない数の人間が、それもあきらかに葉月を狙った種類の人間がマンション内に入り込んでいる。
「プロではないね」
朝比奈は椅子に座ったまま、周囲を探る様にしている。
「だぁな。はーちゃんの父ちゃんが本格的にヤバイってんで焦ってるのかもな。銃器渡して何とかしてこいってことか」
葉月を見ると、彼女は顔を強張らせてその場に立ち尽くしていた。スカートをきつく握り締めた手が小さく震えている。泣くでも喚くでもなく、堪えるように唇を噛みしめている。
重たく張り詰めた空気の中、襲の携帯が鳴った。通話ボタンを押すとすぐ、電話の向こうで警備員が早口に言った。
「数が多く、何人かが一階を抜け上へ向かっています。出入り口は全て封鎖し、可能な限り各階で応戦中」
「わかった」
答えるとすぐに通話は切られた。それだけでどれだけ切羽詰まった状況なのかがわかる。
「出入り口封鎖……ま、いいか」
ひとりごちて襲は携帯の短縮ボタンを押した。
「もしもし。今どこだ? ……そっか、わかった。じゃあ今から俺もそっち方面向かうからよろしく」
通話を切り、襲は青ざめている葉月の頭に手を置いた。
「はーちゃん。今から父ちゃんの病院に行くぞ」
「え?」
葉月は不安げな顔で襲を見上げてきた。
「まぁ今さら言うまでもねぇけど、今このマンション内はヤバくてろくでもない奴がいっぱいいるから危険なんだ。だから避難がてら今すぐ病院に行こう。比奈ちゃん、悪いが俺とはーちゃんの靴、適当に取ってきてくれるか?」
「はいはい」
朝比奈はぞんざいに返事をしながらも足早に玄関まで行って襲の葉月の靴を一足ずつ持って帰って来た。
「これでいい?」
「おう。ありがとな」
襲は朝比奈から二足の靴を受け取り、横で困惑を顔に浮かべている葉月を抱え上げた。
「か、襲くんっ!?」
悲鳴じみた声をあげる葉月にかまわず、襲は朝比奈を見た。
「比奈ちゃん、任せていいか?」
「いいよー」
頼もしいくらいに軽い調子の即答だった。
「でも今度お礼に何かおごってね」
満面の笑顔で胸を張る朝比奈に襲は苦笑して答える。
「任せとけ」
そして事態を呑みこめずにいる葉月をしっかりと抱き抱えたまま、リビングの奥にある窓を開けてベランダへと出た。
「はーちゃん。しっかり俺に捕まって、できるなら声を上げないように」
「どういうことです?」
「出入り口は封鎖されてるからここから行く。あ、舌を噛むといけないからしっかり口は閉じておけよ?」
言うが早いか否か、襲は両手で葉月を抱きかかえたまま跳躍する。助走をつけたわけでもないのに、一跳びで軽く柵を飛び越える。
「ひっ!」
小さな悲鳴を上げた葉月の両腕が襲の首に回される。襲と葉月はベランダの柵の外側、地上六階の高さの宙にいた。そして次の瞬間には重力のままに、二人は地上へ向かって落下して行った。
空気を切る感触を肌に感じ、葉月が両目を堅く瞑った。
そう認識ところで襲の両足が地面につく。重い音と共に当然両足に負荷がかかる。かかったが、それだけだ。葉月を抱えたまましゃがむ形で着地した襲は何事もなかったかのように立ち上がり、そのままマンションの敷地を出るべく歩き出していた。
「か、襲くん?」
襲の腕の中で弱々しい声がした。見れば葉月が放心したような顔をしていた。
「お、はーちゃん。偉いな。ちょっとしか声出さなかったな」
「偉いって……一体何だったんですか? 死ぬかと思いましたよ……」
葉月は自分達が飛び降りてきたマンション六階あたりを見上げている。
「それに足は大丈夫なんですか? あんな高さから飛び降りるなんて……」
改めて想像してしまったのだろう。葉月はぶるりと身を震わせた。
けれど襲は明るく笑う。
「あー大丈夫、大丈夫。俺は体が丈夫なのが取り柄なんだ。前に地上四十階建てのビルから飛び降りた時も捻挫ひとつしなかったくらいに」
「そ、そんなわけないじゃないですか!? 私が子供だと思って冗談はやめてください!」
「いやいや、冗談じゃないって。今だって少―し痺れたけどもう何ともないし」
「そんな……きちんとお医者様に診てもらったほうがいいです! 私ももう大丈夫ですから放して下さい、足に負担がかかってしまいます!」
どうやら葉月には襲が痩せ我慢をしているように思われているらしい。
心配そうに襲の足を見下ろし、慌てて襲の腕から抜け出そうとした。
「平気だぁって。それよりはーちゃん。寒いだろうけどしばらく我慢な」
「はい?」
葉月が怪訝な声を上げる。室内からそのまま飛び出してきたために二人とも十二月の夜の外出には向かない部屋着のまま、しかも足下はスリッパだ。だが襲はかまわず彼女を抱きかかえたまま歩き続ける。
「どうもヤバイ連中がうじゃうじゃ湧いたらしい。大丈夫だとは思うんだけど念のためな。もしかしたら他にもその辺りに隠れているかもしれねぇし」
葉月は顔を青ざめさせながら、灯りがついたままの六階の部屋を見上げた。
途端、轟音や破裂音がその部屋から聞こえてくる。灯りが消え、窓ガラスが割れて破片が降って来た。
「あ、朝比奈さんが! 襲くん、朝比奈さんは!?」
血相を変える葉月にも襲はどこ吹く風だ。
「ああ、比奈ちゃんは足止めしてくれるって。その間に俺らははーちゃんの父ちゃんがいる病院へ向かうとしよう」
「そんな……朝比奈さんは女の人ですよ? 大丈夫なわけないじゃないですか!」
葉月は暴れて襲の腕から逃れようとするが当の襲に離す意思がない以上、それは叶わない。
「大丈夫だって。比奈ちゃんは俺と同じ人でなしだし、あの程度の連中じゃ話にもならない。……ほら、もう終わったみたいだ」
後ろ目に六階を見上げてみれば、既に何の音もしない。灯りは消えたままだが、既に何事もなかったかのように静まり返っている。代わりに近隣の住宅からざわめきが聞こえ始めた。
「さて。けどちょっくら騒音を出しちゃったからな。ご近所迷惑だったらないよなぁ。ま、不可抗力だけどさ」
仕方ない仕方ない、と呟きながら襲は大通りへ出た。まだそう遅くない時間なので行き交う車は少なくない。
すると一台の車がクラクションを鳴らしながら襲達の前で止まった。ドアが開くなり襲は後部座席に乗り込み、運転席に向かって「帝都医大病院」と告げる。運転手は頷き、車は夜の道を走り出した。
しばらく静かに走行を続けていた車の中で、葉月は俯きながら声を発した
「あの、襲くん」
「ん? ああ、靴か? ほら、今のうちに履き変えておきな」
座席の下に二足の靴を置いて促すが、葉月は俯いたままだ。
「それはありがたいのですが……」
どうにも歯切れが悪い。短い付き合いとは言え、襲の知る葉月にしては珍しいことだ。
「どうした?」
襲が覗き込むように葉月を見ると、彼女はさらに深く俯いてしまいながらも蚊のなくような声で言った。
「お、降ろして下さい……」
「ん? 歩きたい? でも病院まで車ならすぐだぜ?」
「……そうじゃなくてあの」
そう言った葉月の横顔は薄暗い車内でもわかるほどに赤かった。
「あなたの膝から、降ろして下さい」
葉月を抱きかかえたまま車に乗り込んだ襲は、後部座席に座っても彼女を抱えていた。そして今、葉月は襲の膝の上で横抱きにされている形になっている。
随分大人びた少女だと思っていたが、意外に女の子だったのか。
そう思うともう少しこのままもう少しからかってみたい気もするが、そうするこの数ヶ月で少しは築けただろう彼女との信頼関係も瓦解してしまうかもしれない。せっかく少し打ち解けてきたところだしそれも惜しいかなどと考えていると車が停車した。それと共に葉月は逃げるように襲の膝から降りて隣の座席に座り、スリッパから靴に履き変え出した。
運転手が静かに言った。
「到着しました。病院には話を通してあるので受付で名乗ればあちらが案内してくれるそうです」
「ああ。わかった」
襲は土で汚れたスリッパからスニーカーに履き変えて頷いた。そうして窓の向こうを見ればそこにはまさに白い巨塔といった風情の立派な建物、帝都医科大学病医院の正面玄関があった。
言われた通り受付で名乗り、あまり愛想のよくない年配の看護師に案内されたのは当たり前のように特別個室だった。ネームプレートは空白になっているが病室の前にはきっちりとスーツを着た男達が数人、沈痛な面持ちでうろついたり話し合ったりしている。
その中に田嶋の姿を見つけた。
「田嶋さん」
襲が声をかけると田嶋は泣き笑いのような顔をした。
「葉月さん……よかった、間に合って。三嶌崎さん、ありがとうございました」
田嶋は深く頭を下げてくれるが、恐らく藤堂家の経営する企業の人間であろうスーツの男達は突然現れた襲と葉月に怪訝な視線を向けてくる。両耳に無数のピアスをつけた若い男とまだ中学生にもなっていない少女。大企業会長の入院する病室前、それも今日が峠だと言われている最中には場違いにも程があるし、それも仕方のないことだろうが。
病院に着いてからずっと黙っていた葉月はそんな大人達の視線から逃れるように俯きながら、か細い声を発した。
「田嶋さん。私はここにいてもいいんですか?」
「もちろんです。今は再び昏睡状態となっていますが、この数日で何度か会長の意識は戻られました。その際、葉月さんのことを随分と案じておられました。どうか会長に会って差し上げて下さい」
「でも……」
「葉月さん」
ためらう葉月の両手を握り、田嶋は語りかけた。
「恐らくこれが最期となります。もうお話しすることは無理でしょうが……せめて何か一言でも会長に声をかけて差し上げて下さい」
葉月は弱々しく首を横に振った。
「けれど病室にはご家族がいるのでしょう? 他人同然の私が行っては皆さんが気分を害されます」
「そんなことを仰らないで下さい。葉月さんも会長の大切なご家族ではないですか。他の皆さんだってきっと分かって下さいます」
必死に語りかける田嶋を見ながら襲は冷めた心地で思う。
彼は善良な人間なのだろう。逸脱しない価値観と喜怒哀楽を持ち合わせた、そんな普通の善良な人間。普通になろうとしてもなれない、当たり前の普通に見放された人間には胸が悪くなるほどに。
果たして葉月にはそんな田嶋の言葉がどう聞こえているのだろう。愛というものの実在すら疑う彼女には、一体どんな風に。
そんなことを考えていると、ずっと口を引き結んだままだった葉月が小さく頷いた。
「……わかりました。最期になるかもしれないのなら、会います」
静かな、何か決意を込めたようなそんな声だった。
その言葉に田嶋はやつれた顔に安堵の表情を浮かべた。
「そうですか。ではお入り下さい。もうあまり時間がないですから」
田嶋は変わらず俯いている葉月の手を引こうとした。
それを制するように襲は田嶋に声をかけた。
「あ、待った。田嶋さん、俺も行っていい?」
「え?」
田嶋と葉月が同時に声を上げた。
「部外者が軽々しく立ち入っていいわけないってのはわかっているんだけどさ。俺ははーちゃんの護衛なんだよ。病室内で『万が一』があっちゃ困るだろ?」
何しろこの病室の中にいるのは、襲が葉月と暮らす理由を作った張本人達。人を雇ってまで葉月を殺そうとしてきた人間達なのだから。
田嶋はしばらく難しい顔で考えていたがやはり葉月の身の安全を優先すべきという結論を出したらしく、わかりましたと頷いた。
「それでは三嶌崎さんもお入り下さい」
開かれた扉の向こうは病室とは言うよりはホテルの一室のようだった。広々とした室内にはソファやテーブルなどの応接セットや簡易キッチンが設置されているし、扉で仕切れるようになっているらしい応接間のような小部屋も複数ある。そしてベッドには痩せ細った体中に無数のチューブや器具が繋がれた老人が横たわっている。
それが襲の依頼人であり葉月の実父、藤堂十蔵だった。
財界の黒幕は人工呼吸器を取り付けられ、堅く目を閉じたまま微動だにしない。ベッド脇に置かれた心電計が規則的な電子音を繰り返していることで辛うじて彼がまだ生きているのだと教えてくれる。
田嶋に促されるまま葉月はベッドのそばに行き、実父を無言で見下ろした。何かを堪えるような表情で、唇を噛みしめながら。
襲は少し離れた場所からそんな彼女を見ていた。
「会長。葉月さんがいらして下さいましたよ」
葉月の隣で田嶋がそっと声をかけるがやはり反応はない。心電計の電子音も変わらず規則的に繰り返されるだけだ。
そうしているうち、応接間のような部屋から数人の人間が顔を出した。皆例外なく身なりがよく、彼らが藤堂家のご家族とやらなのだと一目でわかる。
「……妾の子供がこんなところにまで」
彼らは葉月に一瞥くれると忌々しげに吐き捨て、今度は襲を見て眉を顰めた。
「田嶋。そちらの彼は?」
不快気に眉を顰める恰幅のよい男に、田嶋は慇懃に礼をしながら答える。
「会長が葉月さんの身辺警護を依頼された三嶌崎襲さんです」
「彼が?」
襲よりずっと年長の人間達の視線が一斉に注がれる。
両耳に十以上のピアス。どこにでもいるような若者らしいラフなファッション。どう見てもまだ十代でしかない襲を見て、藤堂一族は困惑に顔を歪ませた。
外見がどうであれ襲の役割の性質も、その背後に控えるものも、彼らも既によく知っているだろう。だから彼らは葉月に手出しすることが困難になり、結果として胡散臭い殺し屋まがいの人間を雇用し、一般人とそう変わらないような人間に銃火器を斡旋するにまで至ったのだから。
互いに顔を見合わせる藤堂一族に向け、襲は場違いなまでに明るく言った。
「葉月さんの身辺警護を務めている三嶌崎です。藤堂会長からのご依頼、微力ながら全力を尽くしますので藤堂家の皆々様におかれましてはよろしくお見知りおきを」
それに応える人間はいない。ただ嫌なものを見たような顔で襲から目を逸らす。
病室内に気まずい空気が流れ始めた時、じっと父親を見下ろしていた葉月が口を開いた。
「――少しだけ、父と二人にしてくれませんか?」
「何言っているのよ。あんたは目障りにならないように隅にでも行ってなさい!」
濃い化粧の女がヒステリックに声を上げた。他の人間達もそれに続く。
「身の程を弁えろ。妾の子が」
「親父が認知したと言えど、我々はお前を藤堂家の人間だなんて認めては……」
「まぁまぁ皆さん。ご立派なお立場の方々がそんな小さな女の子相手に」
ふざけた調子で割って入った襲に藤堂一族は険のある視線を向けてきたが、皆襲と目が合うなり怯えたような顔で黙ってしまった。
何もそんな猛獣か化け物でも見たような反応をしなくてもいいだろうにと内心苦笑しながら、葉月へと視線を向ける。
葉月は親族達の言葉など耳に入ってもいないかのように、まっすぐに父親を見下ろしている。
「はーちゃん」
「……はい」
襲の呼びかけに葉月は振り向かずに答えた。
「俺達は病室の外にいればいい?」
「はい」
やはり葉月は顔を上げず、振り向かずに頷いた。
「じゃあ俺は藤堂家の皆様と少し出てるわ」
「おい! 君、勝手なことを……」
咄嗟に襲の肩に掴みかかった男の顔が青ざめた。肩に置かれた手は小刻みに震えている。
こんな若造相手にそんなに怖がらなくてもいいじゃないか。
そんな意味を込めて、にっこりと男に笑いかける。
「少しの間ですよ。ほんの少し。ねぇ?」
まだ肩に置かれたままの手にじっとりと汗が滲む。いつまでも男に触れられていたいものでもないので、笑顔のままそれとなく離れさせてもらう。
「ほら、皆さん。ちょっとの間、父と娘を二人にしてあげましょう?」
そうして周囲をぐるりと見回すと皆襲を避けるように、逃げるように病室を出て行った。
「何かありましたらお呼び下さい」
田嶋は病室を出る直前、心配そうに葉月に声をかけたが返事はなかった。その彼の後を追う形で襲も病室を出た。
その間も葉月は身動き一つせず、父親を見下ろしていた。
襲に無理やり追い出された形になった藤堂一族は、不満を抱きながらも襲本人にぶつけることもできず廊下で待機していた会社関連の人間に当たり散らしてみたり、適当な理由をつけつつ病院を後にしたりしていた。
当の襲は病室から少し離れた長椅子に座り、時折病室を窺いながらもぼんやりとしていた。腕時計を見ると午後十一時を回ったところだった。
「三嶌崎さん、ありがとうございました」
頭上から降って来た控えめな声に顔を上げると、田嶋が困ったように笑っていた。
「私では皆様を病室からお連れすることはできなかったので助かりました」
「ああ、別にあれくらい……」
そう答えた時、ぞわりとした感覚がした。それは幼い頃から嫌というほどに知った、とても嫌な感覚だった。
襲は立ち上がり、田嶋を押しのけるようにして病室へと向かった。
「三嶌崎さん?」
「ちょっとすみません。あ、いいって言うまで中は覗かないで下さいね。もし覗かれたら本気で暴れますから」
早口でそう言って襲は病室へと入った。そして困惑した顔を向けてくる田嶋や他の人間達をシャットダウンするように後ろ手に扉を閉めた。
「……はーちゃん」
先程までと変わらず、彼女はベッドのそばに立って父親を見下ろしている。
襲が葉月の横に並ぶと、胸の前で両手を組むようにしていた彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「二人にしてくれって言ったじゃないですか」
「はーちゃんがそんな物を父ちゃんに向けてなきゃ邪魔しなかったよ」
そう言って葉月の両手に握られたそれを見る。一体いつの間に持ち出したのか、襲と葉月が共に暮らした家で使っていた、ついさっきも柿を切り分けるのに使ったのだろう折り畳み式の果物ナイフを。
「……父ちゃんを殺すのか?」
逆手に握られたナイフの刃先は、ベッドに横たわる藤堂十蔵の首に向けられていた。
「そうです」
一切の迷いのない言葉だった。
「どうして? って一応聞いておこうか」
「……襲くんだってこういう状況ならとどめを刺すって言ったじゃないですか」
「あれは冗談だって言ったろ」
「そうは聞こえなかったのですが……まぁいいです」
葉月は父親を見下ろしながら話し出した。
「この間、お話ししたでしょう。私は誰も愛せません。愛はあんなにも賛美されるのに、人生においてこれ以上尊いものはないとでも言わんばかりなのに、私は誰も愛せません。……襲くんは愛が全てではないと言いましたが、どうしても私はそうは思えないんですよ。だから私は愛を理解できない、愛情なんてものを持ち合わせないというどうしようもない欠陥がある自分が忌まわしくて仕方ないです。そして……こんなにろくでもない私をこの世に生み落とした両親が憎くて仕方ない。だから――」
葉月の大きな両目が再び父親に注がれる。
「復讐するんです。こんなろくでもない人間を生み出した元凶、私なんかを産ませたこの男に。もっと大人になってからより確実にと思っていたんですけど、まさかこんなに早くこの男が死ぬなんて……だから今しかないんです」
絞り出すように吐き出された言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。ナイフを握り締めた両手は隠しようもなく震え、大きな両目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
襲は大きく溜息を吐いた。
「それが前に言ってた『死ぬ前に成し遂げたいこと』か?」
「そうです」
「やめとけよ。人殺しなんかろくなものじゃない」
言葉の割に襲の調子は軽い。これっぽっちの真剣みも感じられない言葉に葉月は眉をひそめた。
「とても本気で言っているようには聞こえません。それに、あなたがそういうことを言うんですか? 他ならぬあなたが」
再び襲を見上げた葉月の顔にははっきりとした苛立ちが滲んでいる。
「少しですが田嶋さんから聞けました。あなたがどういう集団に属する人なのか。……あなたは人を殺せる集団の人なんでしょう? 目的達成のためなら人殺しも躊躇わない、必要ならば誰でも殺す、そういう仕事を生業とする人達の一人なんでしょう? あなたの言う人でなしとはそういうことなんでしょう?」
挑むような葉月の目をずっと見据えたまま、襲は答えない。表情一つ変えず、そこに立っている。
「人殺しのあなたが殺人を咎めるんですか?」
それでも襲は答えない。
葉月はナイフをきつく握り締め、襲を睨む。
「……何か言ったらどうですか? 弁明でも、屁理屈でも、上っ面の正論でも」
「何か、なぁ」
葉月が酷く追い詰められていることくらい、襲にだってわかる。正常な判断ができていないことくらいわかっている。過ぎた行動ではあるが今の彼女は後に退けなくなって、むきになっているただの子供だ。煽るべきではないだろう。ここは年長者として、道を踏み外しかけている彼女を諭すべきなのだろう。
けど――。
「俺の依頼人を殺すなら、俺が先にはーちゃんを殺す」
所詮人でなしの口から出るのは同情の言葉でも慈悲の言葉でもない。
静かな襲の言葉に葉月はふっと笑う。
「お兄さんに殺されるなんて、兄妹なんて案外脆い関係ですね」
「はーちゃんのことは妹みたいに思ってはいる。けど思っているだけであって妹じゃない。俺らの関係は赤の他人。依頼を通して少しばかり縁を持っただけの他人だ」
乾いた言葉に葉月は唇を噛みしめ、睨むように襲を見上げてきた。
睨みつけてくる大きな瞳は揺れている。
「はーちゃんのことはけっこう好きだよ。でも俺が優先すべきは好意をもつ他人でなく、顔を合わせたこともない依頼人だ」
一歩、襲は葉月へ向かって進んだ。
反射的に葉月は手にしたナイフを襲へと向けた。滑稽なほどに震えながら、まるでおもちゃみたいな薄いナイフを向けてきた。
「来ないで下さいっ。そ、それ以上近づいたらあなただって刺します」
今にもナイフを落としてしまいそうなほどに震えているのに、それでも葉月は必死に虚勢を張る。
それに構うことなく、襲は無言で葉月の前まで歩いてきた。
「そんな危ないもの、さっさと離しな」
まるで子供をさとすような襲の言葉に、葉月は頬を紅潮させた。
「バカにしないで下さい」
「バカになんてしてない。してないからほら。もういいだろ」
そう言って襲はあっさりと剥き出しになったナイフの刃を掴み、そのまま取り上げた。
葉月は呆然と自分の手から奪われたナイフを目で追っていた。
だがしばらくしてから顔を真っ赤にして襲を怒鳴りつけてきた。
「な、何してるんですか!? そんなことをしたら手が切れてしまうじゃないですか!」
「ははっ。さっき刺すって言った子が心配なんかするなよ」
あくまで悪気なく言ったつもりだったが、葉月はバカにされたと思ったらしく、顔を強張らせた。
襲はそれに気付かぬふりをして握ったナイフを自分の左胸に、心臓の真上に勢いよく突き立てた。
葉月の目が驚愕に見開かれる。
だが突き立てた瞬間、ナイフはパキリと間の抜けた音を立てて折れてしまった。まるでカッターの刃を折ったみたいな音で、カッターより遥かに厚みのあるナイフは真っ二つに折れてしまった。
「うそ……」
呆然と呟く葉月の前で襲は折れたナイフを拾い上げた。
「うーん。ここのところやたらとナイフを折る機会が多いな。物を大事にしない奴みたいでちょっと罪悪感」
その呑気な調子に苛立ったように葉月は声を荒げた。
「何で……防刃ベストでも着ているんですか!?」
そのまま葉月は勢いよく手を伸ばしてきて襲の着ているシャツを捲りあげた。そこにはかすり傷ひとつない。
「おいおい。突然人の服を脱がそうとするってのはどうよ? これで俺とはーちゃんの性別が逆だったらな、はーちゃん犯罪者だぜ?」
「ふ、ふざけないで下さい! 何で、何で……」
葉月はひどく困惑した様子で俯いた。
「ん、まぁ何だ。つまり俺を刺しても無駄だからやめておけってことだよ。でも俺以外の奴にやっちゃダメだぜ? 普通はケガするし、下手すりゃ死ぬから」
「普通はって……あなたは……」
見上げてきた葉月の顔に明らかな怯えが、未知のものへの恐怖が浮かんでいる。
それを冷めた心地で眺めながら襲は言った。
「俺はな、人間として大きく逸脱した異常生物なんだってさ。その上はーちゃんも言った通り人殺しの犯罪者でもあるし、二重の意味で人でなしなわけだ」
「異常、生物……」
「人間より頑強で、人間より剛力で、人間より薄情で、人間より殺しに特化した生き物が俺。だから俺は――」
そっと葉月の細い首に右手を伸ばした。
「無駄なく罪悪感なく、今すぐ君を殺せる」
触れた右手の下で動脈が主張するように脈打つ。葉月は顔に恐怖を貼り付けたまま、凍りついたように動かない。
そんな彼女を見下ろし、襲は言う。
「因果応報って言うだろ。だからきっと、殺す立場の俺はいつか誰かに殺される。意味も理由もなく、陰惨に苦しんで殺されるんだろうな。実際そうやって俺の周りではたくさんの人間が殺して殺されてきた。ま、文句は言えねぇよ。自分がされたくないことは人にもするなって言うしな」
聞こえているのかいないのか、葉月は何も答えない。黙ったまま、襲を見上げてくる。
「要するに、自分が殺されたくないなら自分も殺すな。簡単な理屈だ」
今はまだ触れているだけの右手にほんの少し、力を込めた。
「それでも君は殺すのか?」
葉月は震えながら小さく口を開いたが、その口から言葉は発せられない。襲から目を逸らして口を噤んではまた開きかけ、を繰り返している。
そうして広い室内に心電計の電子音だけが響く中、ようやく葉月は掠れた声を発した。
「私、は――……」