3.僕と恐怖と夏のはじまり
始まりというのは、いつもこんなものなのだろうか。日常に、ほんの少しの非日常というエッセンスが滴下されてできる波紋。
僕の一番濃い夏が始まった。
翌朝。僕はいつものようにランニングをしに瑠璃神社へ向かった。そして、いつものように階段を駆け上がっていた。でも、どこかに違和感があった。なんだか、神社全体の空気が明るい。その理由を、僕はすぐに知ることになる。
僕は息を荒げて境内の石畳を踏んだ。その時点で、僕はちょっとした異変に気づいていた。しかし、それが何によるものなのか分からなかった。
境内は、基本的に暗い。正面に参拝するための「拝殿」、石畳が真ん中にあって、脇に手水舎がある。どこにでもある普通の神社だ。ただし、拝殿の奥にある「本殿」がとても大きい。初詣の頃、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に入ったことがある。普通なら、特大の神棚のようなところに、鏡が置いてあるはずなのに、そこに置いてあるのは、人の頭くらいの大きさの、瑠璃色の石なのだった。
しかし、違和感の原因はそこではない。全体的に、境内の雰囲気が明るいのだ。
きょろきょろとあたりを見回し、やがて僕は原因に気づいた。
向日葵だ。向日葵が、拝殿の隣にある御神木の周りに満開で何輪も咲いているのだ。
その、似つかわしくない位明るい色に惹かれて、僕は自然と御神木の正面まで足を進めて
いた。そして膝に手をやって少しだけかがみこむ。大きな向日葵が、顔の正面に見えて、なんだか元気をもらっているような気がする。
ホッ、と息を吐いて、若干の笑みをもらしながら、じっとその向日葵を見る。よく見れば、そこかしこに、たくさんの向日葵が咲いていた。その一つ一つが、神社の中の空気を明るくしていたのだった。なによりも、それらは一つも枯れていずに、すべてが満開なのだった。まるで、何かを迎えるかのように。一体、何があったのだろうかと考えて、じっと向日葵の前でフリーズしていた僕に、後ろから声が掛けられた。
「おい、何やってんだ?綾上凛哉」
どこかで聞いたことのあるその可憐な声に、僕はそれを記憶と照合させながら振り向いた。
そこにいたのは、そこにあったのは、おおよそ、僕のあらゆる想像を超えるものだった。
端的にいえば、そこにいたのは、
深海のような色の浴衣を着た、小学校高学年のような体形の女の子、であった。そこまでなら、基本的におかしい点は見られない。例え、その顔つきがとても子供とは思えない自信と余裕にあふれているような、「大人の表情」だとしてもだ。問題はそこではない。その少女の髪は、まるで澄み渡る、吸い込まれそうな青空と同じ、瑠璃色をしていたのだ。
瑠璃色の髪の和服の少女。それが、『余裕の笑み』と形容するにふさわしい笑顔を浮かべている。僕の頭の上に、クエスチョンマークが星の数ほど浮かぶのがわかった。あまりの事態に、僕の口は質問することすらかなわなかった。
『この少女は誰か?』
『なぜ、僕の名前を知っているのか?』
『なぜ、彼女はここにいるのか?そして、なぜ、そのような容姿なのか?』
いろいろな質問が頭の中でぐるぐる回っていたのに、それらは全く、音にならずに、僕の喉の奥で「ぐぇ」という愚にもつかない音だけがした。その場でバカのように固まってしまった僕を見て、少女は突然、クスクスと笑いだした。
「なんだ?我の姿に惚れでもしたのか?」
「いやいやいやいや、そういうことではないんだけど…」一人称が『われ』であることに再び驚きを覚え、僕はふたたび黙り込む。その間に、少女はまた勝手にクスクス笑っていた。僕の方から声をかけねば、多分ずっと笑っているだろう。それから、彼女は消えてしまうような気もした。説明はできないけれど、そんな透明感が、その少女にはあった。
「君は…誰…?」
恐る恐る、僕は問いかける。その問いに、クスクスと笑っていた少女は、笑いを止めて、くるり、と振り向いた。長くて、まっすぐで、蒼い髪が、ふわりと広がった。
僕を正面から見据えた顔が、天真爛漫を装うかのようにほころんだ。
「我か?我は…そうじゃな、神じゃ!」
「…へ?」
その、あまりにもぶっ飛んだ自己紹介に、僕は気絶しそうだった。脳味噌のキャパシティを、とっくに超えているようだ。
「だから、我は神じゃと言っておろう!」
「いや、君はどう見ても小学生だし…髪の色は違うけど…」
「ならば、我はなぜ名を知っていた?綾上凛哉。ならば、我が姿を現したとたんに向日葵が満開になった?」
「じゃ、じゃあ…」本当に、この瑠璃色の髪の女の子が、神様、なんだろうか?ありえない。ありえそうもないこの事実は、しかし厳然と僕の前に立ちはだかっていた。
「じゃあ聞くけど…神様?」
「瑠璃でいい。こそばゆいわ」
「瑠璃さん…あなたの正しい名前は?」
もし、この質問にまともに答えられたら、信じざるを得ないだろう。偽物ならば自称「瑠璃」なのだから、それ以上の名前の設定はで
きていないはず。もしも、もしも本物ならば、
「木花咲耶姫命」とか、「建御名方神」とかそういう長い名前が付いているはずだ。
やけに緊張しながら、僕は「瑠璃」の返事を待った。
「名前か…『蔡歌瑠璃御命』だ、さいかるりのみこと」
その名前は、僕の記憶の底にソフトタッチしていた。つまり、どこかで聞いたことがある、神様だった。
だから、少なくとも人ではないのだろう。僕は現実を認めざるを得なかった。あまりにも非現実的であるとしても、確かに瑠璃色の髪の少女、自称神様は目の前にいたのだから。
しかし、この少女が本当に神様だとして、確実に、昨日までは姿を見せてはいないはずだ。向日葵が、それを証明してくれている。
「何をしに来たん…ですか?」
自然と、質問が敬語になって口から漏れ出していた。
「何言ってんだ、そちが呼んだんであろう?」
二人称は『そち』と来たか・・・人知れず、もとい、神知れず頭を抱える僕を脇目に、「瑠璃」は続けた。
「何度も何度も私の神社でうろうろした挙句挨拶もしない…そんな特異な人間、初めて見たからな、ちょっと興味を持ってな。その後参拝してきたから、理由もできたし」
別にうろうろしていたわけではないのだが。
「じゃあ…昨日の『挨拶くらいしろよ』って言葉は…」
「なんだ、聞こえてたのか」
謎が少しずつ解けていくのが分かった。
「とにかく、我の目的はこの現代を覗くことと、今のところはそれだけじゃ」
「今のところ…?」
「今のところじゃ」
まだまだ聞きたいことはあったのだが、そこで、遮るかのように「瑠璃」が言った
「というか、そろそろ時間ではないか?そち、練習があるのであろう?」
「えっ、あ、そうだった!」
どこまで僕のことを知っているのだろうか、と少し恐怖を覚えながら僕は帰路につこうとした。
「豊橋リツにもよろしく!」背後から声がした。祖母の名前まで完璧に知っている。もし「瑠璃」が人間だったとしたら、本当にシャレにならないレベルの恐怖感があるはずなのに、あまりの事態に、僕の感情はフリーズしたようで、
何を思ったか僕は、黙って右手を掲げてしまっていたのだった。
神社の階段を降りてから数秒後。僕はそのあまりの非現実に気づいた。急に恐怖感に襲われて、僕は悲鳴を上げて走りだしていた。