2.僕と主将と向日葵の花
「綾上!いいペースだ!上げろ!」大声が僕の耳に届く。
独特のハスキーな声を響かせている、監督の印南克治先生の、その大声が自分に向けられていると気付き、
「ありがとうございます」
とだけ小さく声に出す。大声を出すことができないのは、走っている真っ最中で、大声を出したら倒れる自信があるからだ。夏の練習の定番である、体力作りのランニング。そのさなかで、僕に少し変化が表れていた。入部したての頃は、後ろから数えたほうが早いくらいだったのに、最近では毎回前から五番目以内に食い込んでいて、今日は、先頭から二番目の位置につけていたのだった。
僕はフォワード、前でゴリゴリとぶつかる方の、ロック、というポジションだ。高い機動力と、当たり負けない強さ、それから、願わくは高身長、などなど、注文の多いポジションなのだ。何よりも、競争率がとても高い。そんな中で前から二番目で走っている、というのはかなりの高ポイントのはずだった。
先頭を走っているのは、フルバックの諏訪潤太。一番後ろを「最後の砦」として守ったり、攻撃に参加して強烈な力になったりするため、タックル、キックだけでなく、判断力、走力など、やる仕事が多いポジションで、中学生十二人制ラグビーともなると、その労力はかなり増す。更にキャプテンでもある、とくれば、その重圧は大変なものだろうと思う。だがそのなかを、諏訪潤太、通称『すわじゅん』は、きっちりと仕事をこなすどころか、それを当たり前のようにやっていたのだ。そんなことを考えていたら、少し欲がわいてきた。最近得意になっている部分だけでも、『すわじゅん』に勝ちたい。そう思って、そこまでは遠くない背中を見据えて、僕は強くアスファルトを蹴った。
少しずつ背中が大きくなっていく。…それにしても、と僕は考える。どうでもいいことを熟考すると、意識がそちらに移って、キツさが半減する。だから僕は、この手をよく使う。
…それにしても。
文章にしてしまえば、こんなにもしっかりしていて、いかつそうなイメージの『すわじゅん』は、どうして見た目はあんなに華奢で、頼りなさげなんだろうか。そんなことを思いながら走っていると、手の届きそうなくらいの位置に諏訪が見えた。この細腕のどこに力が詰まっているのだろう、とか関係ないことを考えながら、アスファルトを蹴り続ける。しかし、諏訪はちらりと後ろを振り返ると、ペースを一気に上げた。
「カハッ…!?」間抜けな声が漏れる。必死に追いすがるも、とても追いつけない。結局、じわじわと差を広げられながら、二着のままゴールしてしまった。
「ゼェッ…ゼェッ…ゲホゴホッ!」少し無理をしすぎたようだ。喉の奥がからからになっている。ここまで走ってみた人なら分かると思うが、わずかにリンゴのような、血のような味がする状態だった。
「おい、凛哉、大丈夫なのかい?」諏訪だった。
「あぁ…全然大したことない…にしてもやっぱ、すわじゅんは速ぇなぁ…」
「いや?そうでもないよ、ボクより速いのは大会に出ればいくらでもいる」
「相変わらず謙虚だよな、すわじゅんは」
「そうでもないが…それにしても、凛哉も最近調子がいいんじゃないか?印南教諭もちゃんと期待して見ているみたいだし」
「そうなの?あのイナミカツハル先生が?」
「とてもそうは見えないだろ?次の練習試合はチャンスだよ」
「そうなのか、ありがとう、すわじゅん」
「がんばれよ」
主将の諏訪がここまで言うのだから、印南先生は本当に注目してくれているのだろう。これはチャンスだろう。そう思ってぼくは、少し浮かれ気味に練習を続けた。
その頃、瑠璃神社では、ダミ声がとても特徴的なボランティアの掃除のおばちゃんが、いつものように掃除をしていた。そのダミ声で、鼻歌を歌いながら石畳を掃いていたのだった。相当凶悪な音を響かせて。
「あら…?今日は妙に蝉が少ないわね…」
おばちゃんは気づいていなかった。この日に限って石畳には、セミの死骸が落ちていなかったのだが。それよりも。
石畳から外れたところに、向日葵がたくさん咲いていたのだった。この二つの現象は、常識ではありえないことの始まりを告げる予兆だったのに。
おばちゃんが帰った、無人の瑠璃神社に、生温かくて、怪しいのに、どこか儚げでさわやかな一陣の風が、ふわり、と吹き抜けていった。