1. 僕と神社とおばあちゃん
「ゼェッ…ゼェッ…!」
さびれた神社の、参拝のためのその一隅で、僕は階段を駆け上がっていた。うっそうとした森が、左右から押し潰そうとするかのようにのしかかってくる。ところどころに、赤みの剥げた鳥居が並んでいる。その先にはわずかに、小さな神社の境内が見える。ほかのところでは激しく自己主張する油蝉の声も、どこかよそよそしく聞こえるのは、耳の周りで唸る風のせいだけではないだろう。どこか、それこそ「神秘的」という言葉が似合いそうな、それでいてさわやかな雰囲気がその場を満たしていた。
夏休みになったら、毎朝、この神社の階段を駆け上がり続ける。それが、僕が僕自身に課した、「課題」だった。夏休みになってから、「三日坊主」の壁を無事打ち破り、僕は今日もこの神社でのダッシュに挑戦していたのだった。
「ハァッ…ハァッ…」
階段を登り切ると、
寂れた境内が姿を現した。とても夏とは思えない、ひやり、とした風が吹き抜けて行く。
走り終えて加熱された体を冷やすように風を受ける。これが本当に心地よい。すぐに、体の温度が平熱に戻る。
平熱に戻れば、長居する理由はまるでない。特に今日は、僕は早く帰りたい。僕は階段を降りようと踵を返した。なにしろ、今日はお祖母ちゃんがやってくるのだ。練習漬け、旅行はどこもない、という僕の夏休み、唯一のイベントだった。
もっとも、一週間もすれば、祖母は帰ってしまう。僕らの町に来るのは、健康診断のためだけで、それが終われば、彼女は自分の住む九州へ戻る。となれば、時間がもったいないではないか。僕は、たった今登ってきた階段を一段飛ばしで降りようとして、
「挨拶くらいしろよ…」という女の子の声がしたような気がし、その場で硬直した。
いま、明らかに声がした気がする。だが、
この境内には自分しかいないはずだ。借りにいると仮定すれば、それは誰か。ボランティアで掃除をしているおばちゃん、これしかない。だが、それにしては声が高い。掃除のおばちゃんは途轍もなく低い。だみ声と呼ぶにふさわしい。間違っても、可憐な小学生の少女のような声は出さないだろう。もっとも、可憐な小学生の少女が「挨拶くらいしろ」などと言い放つとも思えない。
「き、気のせいだなっ!!」と僕はわざと声に出して自分に言い聞かせた。しかし、どうもこのままだと気味が悪い。というわけで、一応参拝だけしてから帰ることにした。飲み物用の財布から五円玉を放って賽銭箱に投げ込み、普段正式名称が分からず、「カランカラン」と呼称している大きな鈴のようなものを鳴らす。それから、二礼、二拍手。「ハライタマエ、キヨメタマエ」と言うと尚よい、というのは、祖母の教えだ。
さぁ帰ろう。
僕は今度こそ、階段を降りていった。
「ほー、凛哉はまたうすらでっかくなっとっとねぇ、元気だったかい?」本当に九州弁なのか?と疑ってしまうような奇妙な訛りと一緒に僕は祖母と再会した。姿そのまま、「昭和の知恵でたくましく生きるしとやかなおばあちゃん」のイメージのある僕の祖母だが、まったくもってその性格に「しとやか」の一面はない。まったくもってない。とにかく、そんな祖母と、近況報告をしあう。まず僕は、一番気になっていたことを聞く。
「おじいちゃんは?」去年まではこの時期に、祖父は祖母と一緒に来ていたはずなのだ。理由は、父も、母も、誰も教えてくれなかった。
「あんたはまだ子供だからいいの」と、おおよそ中学三年生の男児に向けるには不適切であろう言葉を向けて。『うちのおばあちゃん』ならそんなことはしない。しないはずだ。おそらく、しない。そう期待して聞いてみた。
「あんたはまだ子供だからいいの」
ちくしょうめ。
ただ、父母にしろ、祖母にしろ、一瞬だけ、悲しそうな、寂しそうな、そんな表情を浮かべるのだった。三人とも、僕がそれに気づいていることは気づいていなさそうだった。
「そんなことよか、部活はどうさね?」いきなり痛いところを突かれて、今度は僕が黙り込む番だった。
中学生最後の夏休み、明けには、僕の部活の大切な大会が控えていた。だからこそ、僕は神社で階段ダッシュを続けていたのだった。
「ラグビーは危ないかんねぇ・・・私ゃ、こういうのを見てると…もう…面白くて面白くて…ヒヒヒッ」途中までは孫を心配する優しいおばあちゃん、だったのに、途中から血を見て興奮した悪人のようなコメントになってしまうのは、流石うちの祖母、といったところか。謎のマスクとチェーンソーをつけても違和感のないご老人、なんてうちの祖母くら
いのものだろう。
その祖母の言う通り、僕はラグビーをしている。最終学年にもなり、いよいよ咲くとき、とわくわくしていたものの人生、そんなに甘くはない。少なくとも、栄光は自分から転がってきたりはしないのだ。今回僕の前に立ちはだかったのは勿論、チームメートという名のライバルだった。もともと、全員分のポジションはキープされていない。おいそれとは手に入らないのだ。初めは運動が苦手だったうえに、体も大きくない僕にとって、その壁は厚かったのだった。秋になったら、大切な大会があることはもう書いたが、それに出場できるかは、まだ未確定なのだった。
そんなことを考えこんで、何も言わなくなってしまった僕に、祖母はそっと言った。
「まー…言いたくないんならそれでもええ」
今日も部活がある。ろくに話せるのは、朝晩くらいのものなのだ。だらだらと会話は続いた。
「それよか、今日はどこに出かけてたと?こんな朝っから」たぶん、ランニングのことだろうと思って答えようと口を開いたら、それよりも先に母が答えていた。
「瑠璃神社の階段をダッシュしてたんですよ」
「ほー…ついでにお百度参りでもしてきたらええわ」と面白そうに言葉を返した祖母の目が、スッと細められた。なんだろうか?と考える暇もなく、台所から大声が飛んできた。
「ちょっと凛哉!遅刻するわよ!早く行きなさい!」
母の声に、へいへい、と小さく呟き、僕は逃げるように家を出た。