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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

たとえばこんな終わり方【完結】

このSAN値は空へと贈る

作者: 有賀羊
掲載日:2026/08/17

エンド4:後追い

 きっかけは、本当に些細なことだった。


「そういえば今日、お母さんから電話きたんだよね〜」


「きゅう?(お母さん?)」


 夕食後。

 梓はソファに座りながら、スマートフォンを眺めていた。


「うん。久しぶりに電話してきたと思ったらさ〜」


 スマートフォンをテーブルへ置いて、ため息をつく。


「『あんた、まだ結婚しないの?』だって」


「…………」


 触手が、止まった。


「もう。久しぶりの電話でそれ言う?って感じだよね〜」


「きゅう……(結婚……)」


「親戚の誰々ちゃんが結婚したとか、孫がどうとか。ずーっとその話」


 梓はうんざりしたように笑っている。


 別に、深刻な話じゃない。

 母親から結婚を急かされた。

 ただ、それだけ。


「私たちには、私たちのペースがあるんだから。ほっといてほしいよね〜。」


「……きゅう(……だな)」


「ね〜」


 梓はそれきり、テレビへ視線を戻した。


 話は終わった。

 本当に、それだけの話だった。

 でも俺は、同じようにテレビを見られなかった。


 結婚。


 その言葉だけが、頭の中に残っていた。


◇◇◇


 その夜。


 隣では、梓が眠っている。


「…………」


 俺は眠れずに、天井を見ていた。


(結婚、か)


 考えたことがなかったわけじゃない。


 梓とはずっと一緒にいたい。

 怪物になる前だって、そう思っていた。


 いつか結婚して。

 もしかしたら、子供ができて。

 一軒家をローンで建てて。

 休みの日には、家族でどこかへ出かけたりして。


 そんな未来が来るんだろうと、なんとなく思っていた。


「…………」


 自分の身体を見る。


 暗闇の中。

 人間だった頃の手の代わりにある、何本もの触手を見る。


(……無理だろ)


 そんな未来が、もう自分にはないことくらい分かっている。


 でも、梓は違う。


 梓は、まだ普通の幸せを手に入れられる。

 俺なんかとこの部屋に閉じこもって、一生を終える必要なんてない。


 そう、結婚だって、俺じゃないやつとしたら良い。


「…………」


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。


(……嫌だな)


 梓の隣に、知らない男がいる。

 想像するだけで嫌だった。


 そいつと梓が笑って。

 手を繋いで。

 結婚して。

 家族になって。


(……俺がよかった)


 俺が、そうしたかった。

 梓を幸せにするのは、俺がよかった。


 でも、今の俺にはできない。

 だったらせめて。


(梓には、幸せになってほしい)


 俺じゃなくても。

 それが悔しくても。

 梓が幸せになれるなら。


「…………」


 隣を見る。

 梓は何も知らず、涎を垂らしながら眠っている。


(俺がいなくなったら、悲しむだろうな)


 きっと泣く。

 怒るかもしれない。

 探すかもしれない。


 でも。

 案外喜ぶのではないか。

 そう思ってしまう自分がいる。


 だってそうだろ。

 今の梓は正気じゃないだけだ。

 見ないようにしているだけだ。

 人じゃない、ナニカを。

 人じゃない、俺を。


(……でも、嫌だなぁ)

 

 自分勝手でごめん。

 やっぱり、悲しんで欲しい。


 ずっとじゃない。

 ちょっとで良い。

 いつか俺のことも思い出となって、やがて薄れていけば良い。


(……そう、それがきっと一番良い)


 このままじゃ、いけない。

 ずっと二人でいられるなんて、願っちゃいけない。

 人ではない自分は、人としての幸せは叶えられない。


(……出ていこう)


 別れようと言ったところで、梓はきっと聞かない。

 だったら、何も言わずにいなくなればいい。

 どこへ行くかなんて、まだ分からない。

 この身体でどうやって生きていくのかも分からない。


 それでも。

 梓の前から、いなくなることくらいはできる。


「…………」


 梓の涎の垂れた間抜けな顔を見る。


(……そういうところ含めて、好きだったよ)


 行動は、早い方がいい。

 決意が鈍る前に。

 俺が、やっぱり離れたくないと思ってしまう前に。

 いなくなろう。


 梓が、俺じゃない誰かと。

 普通に幸せになれるように。


◇◇◇


 翌日。


 俺は梓が仕事へ行っている間に、家の中を見回していた。


(……さて)


 出ていくと決めたはいいが、どうやって出るか。

 玄関を見る。


(無理だな)


 昼間はもちろん、夜だって廊下には明かりがついている。

 運よく誰にも会わずにエレベーターまで辿り着けたとしても、途中の階で誰か乗ってきたら終わりだ。


 扉が開いて、俺。

 発狂する、住人。


(……うん。やめよう)


 俺だって、最後に知らない人のSAN値を削っていきたいわけじゃない。


 階段も同じだ。

 誰にも会わない保証はない。

 となると。


 窓を見る。

 閉め切ったカーテンの向こうには、ベランダがある。


(……ベランダか)


 もちろん、今から外へ出るつもりはない。


 昼間なんて論外だ。

 下から誰かがマンションを見上げているかもしれないし、隣の住人がベランダへ出てくるかもしれない。


 でも、夜なら。


「…………」


 自分の身体を見る。


 何本もある触手。


 これを柵や壁の出っ張りに引っかけながら、少しずつ下へ降りていけば。


(……いけるんじゃね?)


 普通の人間だった頃なら、絶対に思いつかなかった方法だ。

 でも今の身体なら、できるかもしれない。


(いや、そもそも俺がこんな脱出方法を考えてる原因、これなんだけど)


 自分で思っておいて、ちょっと虚しくなった。


(……まあいい)


 使えるものは使おう。

 やるなら夜。

 人通りが少なくなってから。

 梓が寝たあとに、こっそり出る。


 決めた。

 今夜だ。


◇◇◇


 その日の夜。


 いつも通り、梓が眠りにつく。


 それからしばらく。

 隣から規則正しい寝息が聞こえてくる。


(……寝たな)


 俺はそっとベッドを離れた。


 荷物は、何も持っていかない。


 スマホなんて今の俺には使えない。

 財布があったところで、店にも入れない。

 服なんて、そもそも着られない。


 本当に、何もない。

 この身体ひとつで、どこかへ行く。


(……まあ、なんとかなるだろ)


 ならなかったら、そのとき考えればいい。


 リビングへ向かい、カーテンを開ける。

 窓の向こうには、夜の街が広がっていた。


「…………」


 これで、この部屋ともお別れか。


 梓と過ごした部屋。

 日向ぼっこした窓際。

 一緒にテレビを見たソファ。

 飯を食ったテーブル。


 冷蔵庫には、俺のプリンも入っている。


(……明日の分も食っとけばよかったな)


 最後にそれだけ後悔した。


(行こう)


 窓の鍵を外す。

 音を立てないよう、ゆっくりと開いた。

 夜の空気が部屋へ入り込んでくる。


 ベランダへ出る。

 柵を掴んだ。


 覚悟を、決める。


(……よし、いくぞ!)


「修也?」


 背後から声がした。


 ゆっくり振り返ると、寝室から出てきた梓が立っていた。


「こんな時間に、何してるの?」


(…………バレた)


 まずい。

 言い訳。

 何か言い訳を――


「修也?」


「きゅ、きゅう……(いや、これは……)」


 駄目だ。

 そもそも俺の言葉は、梓には正確には伝わらない。

 ホワイトボードに書いている暇もない。

 ここで捕まったら、たぶんもう出ていけない。


(……ごめん!)


 俺は柵を乗り越えた。


「え?」


 何本もの触手を柵へ巻きつけ、そのまま身体を外へ投げ出す。


「修也!?」


(行くしかない!)


 触手を一本ずつ下へ伸ばしていく。


 下の階のベランダの柵を掴み。

 壁の出っ張りを掴み。

 少しずつ身体を下へ。


「待って!修也!」


(ごめん、梓)


 止まれない。

 止まったら、戻りたくなる。


 梓の顔を見たら。

 声を聞いたら。


 絶対に、離れられなくなる。


「修也!」


 だから。

 振り返らなかった。


「待ってってば!」


 そのときだった。


「──あっ」


「…………?」


 短い声がした。


 反射的に、上を見る。


 柵の向こうにいたはずの梓の身体が。


 宙に浮いていた。


「…………は?」


 手を伸ばしたまま。


 身体が、こちらへ傾いている。


 理解するより先に。


 梓が、落ちた。


「ぎゅあっ!?(梓っ!?)」


 考える暇なんてなかった。

 触手を伸ばす。

 一本、二本、何本も。


 伸ばした触手の一本が、梓の腕を掴んだ。


「っ……!」


 掴んだ。

 よかった。


 そう思ったのも、一瞬だった。


「ぎゅっ……!?」


 ぐん、と身体が引っ張られる。


 落下の勢いが強すぎる。

 柵に巻きつけていた触手が、引き伸ばされた。


(止まれ!)


 別の触手を伸ばす。


 柵を掴む。

 壁を掴む。

 何でもいい。


(止まれ!止まれ!!止まれよぉっ!!!)


 けれど、止まらない。

 

 触手が、ちぎれた。


「修也っ!」


「ぎゅうっ!(梓!)」


 駄目だ。

 このままじゃ、梓が地面に叩きつけられる。


「…………っ」


 考えるより先に、身体が動いた。

 梓を掴んでいた触手を引き寄せる。

 何本もの触手を、その身体へ巻きつけた。


 腕に。脚に。

 頭を庇うように。

 梓の身体を、自分の中へ抱え込む。


(俺が守る)


 それだけだった。


 次の瞬間。


 ぐしゃり。


 何かが潰れる音がした。


◇◇◇


「……聞こえますか?」


「…………」


「分かりますか?」


 誰かの声が聞こえる。

 ゆっくりと目を開けると、白い天井が見える。


「…………ここ……」


「病院ですよ」


 声のした方を見ると、看護師が立っていた。


「気分はどうですか?どこか痛むところは?」


 身体が重い。

 あちこち痛む。


「……私……なんで、ここに……」


「マンションから転落したんです。覚えていますか?」


「……転落……」


 その言葉で、記憶が蘇った。


 夜。

 開いていた窓。

 ベランダ。


 修也が、外へ出ようとしていて。

 追いかけて。

 手を伸ばして。

 それから。


(……ああ、そうだ)


「修也」


「え?」


 身体を起こそうとする。


「修也……!」


「あ、待ってください!まだ起きないで」


「修也は!?」


「落ち着いてください」


「一緒に……私、一緒に落ちて……!」


 あのとき。

 修也が私を掴んだ。

 ぎゅっと、身体を包み込むように。


「修也……修也はどこですか!?」


「一緒にいた方ですか?」


「はい!」


「…………」


 看護師が、困ったような顔をした。


「救急隊からは、他に人がいたとは聞いていませんけど……」


「……え?」


「あなた一人だったそうですよ」


「そんなわけ……」


 ない。

 だって、修也がいた。


「ただ……」


 看護師が少し言いづらそうに続ける。


「あなたが落ちたところに、大きな動物のようなものがいたそうです」


「…………」


「それが下敷きになったみたいで。だから、あなたは助かったんじゃないかって」


 頭の中が、真っ白になった。


「その……動物は?」


 答えを聞く前から、分かっていた。

 看護師の表情だけで。


「残念ですけど……助からなかったそうです」


「…………」


「かわいそうですけど、本当に運がよかったですね。もし何もなかったら、あなたも──」


 その先は、聞こえなかった。


 大きな、動物のようなもの。

 その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


「…………あ」


 そうか。

 修也は。


 ずっと見えなかったものが、少しずつ輪郭を取り戻していく。


 私の身体を掴んだのは、人の手ではなかった。

 人の身体でもなかった。

 何本もの触手。

 ぐにゃりとした、形の定まらない身体。


 ああ。

 そうだったんだ。


 私にはずっと、修也に見えていたから。


「…………」


 頭の中にかかっていた霧が、ゆっくりと晴れていく。


 それでも何も、変わらなかった。

 あの姿が、どんなものだったとしても。


 修也は修也だった。

 私の大好きな、修也だった。


「…………っ」


 涙が、頬を伝った。


◇◇◇


 その日の夜。


 梓は、一人で階段を上っていた。

 一段。また一段。

 静かな病院に、足音だけが響いている。


「……修也ってば、バカだなぁ」


 ぽつりと呟く。


「ほんとに、な〜んにも分かってないよ」


 返事はない。

 それでも、修也に話しかけるように言葉を続けた。


「多分、私が無事でよかったって思ってるよね」


 階段を上りきる。

 目の前には、屋上へ続く扉があった。


「幸せになってほしい、とか」


 扉を開ける。

 夜風が吹き込み、梓の髪を揺らした。


「俺がいなくても大丈夫、とか」


 一歩、屋上へ出る。

 空を見上げた。

 雲の少ない、綺麗な夜空だった。

 足を進める。


「時間が経てば、いつか忘れられるとか……」


 きっと修也なら、そんなことを考えたのだろう。


 私のためだと思って。

 勝手に決めて。

 勝手にいなくなろうとして。


「ほんと、分かってないよ」


 梓はゆっくりと歩いていく。


「私は、修也がいたから幸せだったんだよ」


 人間じゃなくても。

 一緒に外へ出られなくても。

 旅行に行けなくても。

 結婚できなくても。


 そんなこと、どうでもよかった。


「修也がいてこそなんだよ」


 修也がいる。

 それだけでよかった。


 梓は立ち止まった。

 目の前には、夜の街が広がっている。


「…………」


 不思議なくらい、頭の中は静かだった。


 あれほど見えなかったものも。

 分からなかったものも。

 今はもう、ちゃんと分かる。


 修也がどんな姿をしていたのかも。


 それでも、何も変わらなかった。

 あれは修也だった。

 私の大好きな、修也だった。


「だから、ごめんね」


 きっと怒るだろうな。

 せっかく助けたのに、何やってんだって。


「怒っていいよ」


 梓は、ほんの少し笑った。


「今から会いにいくから」


 夜風が、また髪を揺らした。


「いっぱい私を、怒ってね」


 梓の目は、綺麗に澄んでいた。

 まるであの狂気なんて、最初からなかったように。


 最後に。


 風に揺られた髪が、ふわりと空へ広がった。

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