このSAN値は空へと贈る
エンド4:後追い
きっかけは、本当に些細なことだった。
「そういえば今日、お母さんから電話きたんだよね〜」
「きゅう?(お母さん?)」
夕食後。
梓はソファに座りながら、スマートフォンを眺めていた。
「うん。久しぶりに電話してきたと思ったらさ〜」
スマートフォンをテーブルへ置いて、ため息をつく。
「『あんた、まだ結婚しないの?』だって」
「…………」
触手が、止まった。
「もう。久しぶりの電話でそれ言う?って感じだよね〜」
「きゅう……(結婚……)」
「親戚の誰々ちゃんが結婚したとか、孫がどうとか。ずーっとその話」
梓はうんざりしたように笑っている。
別に、深刻な話じゃない。
母親から結婚を急かされた。
ただ、それだけ。
「私たちには、私たちのペースがあるんだから。ほっといてほしいよね〜。」
「……きゅう(……だな)」
「ね〜」
梓はそれきり、テレビへ視線を戻した。
話は終わった。
本当に、それだけの話だった。
でも俺は、同じようにテレビを見られなかった。
結婚。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
◇◇◇
その夜。
隣では、梓が眠っている。
「…………」
俺は眠れずに、天井を見ていた。
(結婚、か)
考えたことがなかったわけじゃない。
梓とはずっと一緒にいたい。
怪物になる前だって、そう思っていた。
いつか結婚して。
もしかしたら、子供ができて。
一軒家をローンで建てて。
休みの日には、家族でどこかへ出かけたりして。
そんな未来が来るんだろうと、なんとなく思っていた。
「…………」
自分の身体を見る。
暗闇の中。
人間だった頃の手の代わりにある、何本もの触手を見る。
(……無理だろ)
そんな未来が、もう自分にはないことくらい分かっている。
でも、梓は違う。
梓は、まだ普通の幸せを手に入れられる。
俺なんかとこの部屋に閉じこもって、一生を終える必要なんてない。
そう、結婚だって、俺じゃないやつとしたら良い。
「…………」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
(……嫌だな)
梓の隣に、知らない男がいる。
想像するだけで嫌だった。
そいつと梓が笑って。
手を繋いで。
結婚して。
家族になって。
(……俺がよかった)
俺が、そうしたかった。
梓を幸せにするのは、俺がよかった。
でも、今の俺にはできない。
だったらせめて。
(梓には、幸せになってほしい)
俺じゃなくても。
それが悔しくても。
梓が幸せになれるなら。
「…………」
隣を見る。
梓は何も知らず、涎を垂らしながら眠っている。
(俺がいなくなったら、悲しむだろうな)
きっと泣く。
怒るかもしれない。
探すかもしれない。
でも。
案外喜ぶのではないか。
そう思ってしまう自分がいる。
だってそうだろ。
今の梓は正気じゃないだけだ。
見ないようにしているだけだ。
人じゃない、ナニカを。
人じゃない、俺を。
(……でも、嫌だなぁ)
自分勝手でごめん。
やっぱり、悲しんで欲しい。
ずっとじゃない。
ちょっとで良い。
いつか俺のことも思い出となって、やがて薄れていけば良い。
(……そう、それがきっと一番良い)
このままじゃ、いけない。
ずっと二人でいられるなんて、願っちゃいけない。
人ではない自分は、人としての幸せは叶えられない。
(……出ていこう)
別れようと言ったところで、梓はきっと聞かない。
だったら、何も言わずにいなくなればいい。
どこへ行くかなんて、まだ分からない。
この身体でどうやって生きていくのかも分からない。
それでも。
梓の前から、いなくなることくらいはできる。
「…………」
梓の涎の垂れた間抜けな顔を見る。
(……そういうところ含めて、好きだったよ)
行動は、早い方がいい。
決意が鈍る前に。
俺が、やっぱり離れたくないと思ってしまう前に。
いなくなろう。
梓が、俺じゃない誰かと。
普通に幸せになれるように。
◇◇◇
翌日。
俺は梓が仕事へ行っている間に、家の中を見回していた。
(……さて)
出ていくと決めたはいいが、どうやって出るか。
玄関を見る。
(無理だな)
昼間はもちろん、夜だって廊下には明かりがついている。
運よく誰にも会わずにエレベーターまで辿り着けたとしても、途中の階で誰か乗ってきたら終わりだ。
扉が開いて、俺。
発狂する、住人。
(……うん。やめよう)
俺だって、最後に知らない人のSAN値を削っていきたいわけじゃない。
階段も同じだ。
誰にも会わない保証はない。
となると。
窓を見る。
閉め切ったカーテンの向こうには、ベランダがある。
(……ベランダか)
もちろん、今から外へ出るつもりはない。
昼間なんて論外だ。
下から誰かがマンションを見上げているかもしれないし、隣の住人がベランダへ出てくるかもしれない。
でも、夜なら。
「…………」
自分の身体を見る。
何本もある触手。
これを柵や壁の出っ張りに引っかけながら、少しずつ下へ降りていけば。
(……いけるんじゃね?)
普通の人間だった頃なら、絶対に思いつかなかった方法だ。
でも今の身体なら、できるかもしれない。
(いや、そもそも俺がこんな脱出方法を考えてる原因、これなんだけど)
自分で思っておいて、ちょっと虚しくなった。
(……まあいい)
使えるものは使おう。
やるなら夜。
人通りが少なくなってから。
梓が寝たあとに、こっそり出る。
決めた。
今夜だ。
◇◇◇
その日の夜。
いつも通り、梓が眠りにつく。
それからしばらく。
隣から規則正しい寝息が聞こえてくる。
(……寝たな)
俺はそっとベッドを離れた。
荷物は、何も持っていかない。
スマホなんて今の俺には使えない。
財布があったところで、店にも入れない。
服なんて、そもそも着られない。
本当に、何もない。
この身体ひとつで、どこかへ行く。
(……まあ、なんとかなるだろ)
ならなかったら、そのとき考えればいい。
リビングへ向かい、カーテンを開ける。
窓の向こうには、夜の街が広がっていた。
「…………」
これで、この部屋ともお別れか。
梓と過ごした部屋。
日向ぼっこした窓際。
一緒にテレビを見たソファ。
飯を食ったテーブル。
冷蔵庫には、俺のプリンも入っている。
(……明日の分も食っとけばよかったな)
最後にそれだけ後悔した。
(行こう)
窓の鍵を外す。
音を立てないよう、ゆっくりと開いた。
夜の空気が部屋へ入り込んでくる。
ベランダへ出る。
柵を掴んだ。
覚悟を、決める。
(……よし、いくぞ!)
「修也?」
背後から声がした。
ゆっくり振り返ると、寝室から出てきた梓が立っていた。
「こんな時間に、何してるの?」
(…………バレた)
まずい。
言い訳。
何か言い訳を――
「修也?」
「きゅ、きゅう……(いや、これは……)」
駄目だ。
そもそも俺の言葉は、梓には正確には伝わらない。
ホワイトボードに書いている暇もない。
ここで捕まったら、たぶんもう出ていけない。
(……ごめん!)
俺は柵を乗り越えた。
「え?」
何本もの触手を柵へ巻きつけ、そのまま身体を外へ投げ出す。
「修也!?」
(行くしかない!)
触手を一本ずつ下へ伸ばしていく。
下の階のベランダの柵を掴み。
壁の出っ張りを掴み。
少しずつ身体を下へ。
「待って!修也!」
(ごめん、梓)
止まれない。
止まったら、戻りたくなる。
梓の顔を見たら。
声を聞いたら。
絶対に、離れられなくなる。
「修也!」
だから。
振り返らなかった。
「待ってってば!」
そのときだった。
「──あっ」
「…………?」
短い声がした。
反射的に、上を見る。
柵の向こうにいたはずの梓の身体が。
宙に浮いていた。
「…………は?」
手を伸ばしたまま。
身体が、こちらへ傾いている。
理解するより先に。
梓が、落ちた。
「ぎゅあっ!?(梓っ!?)」
考える暇なんてなかった。
触手を伸ばす。
一本、二本、何本も。
伸ばした触手の一本が、梓の腕を掴んだ。
「っ……!」
掴んだ。
よかった。
そう思ったのも、一瞬だった。
「ぎゅっ……!?」
ぐん、と身体が引っ張られる。
落下の勢いが強すぎる。
柵に巻きつけていた触手が、引き伸ばされた。
(止まれ!)
別の触手を伸ばす。
柵を掴む。
壁を掴む。
何でもいい。
(止まれ!止まれ!!止まれよぉっ!!!)
けれど、止まらない。
触手が、ちぎれた。
「修也っ!」
「ぎゅうっ!(梓!)」
駄目だ。
このままじゃ、梓が地面に叩きつけられる。
「…………っ」
考えるより先に、身体が動いた。
梓を掴んでいた触手を引き寄せる。
何本もの触手を、その身体へ巻きつけた。
腕に。脚に。
頭を庇うように。
梓の身体を、自分の中へ抱え込む。
(俺が守る)
それだけだった。
次の瞬間。
ぐしゃり。
何かが潰れる音がした。
◇◇◇
「……聞こえますか?」
「…………」
「分かりますか?」
誰かの声が聞こえる。
ゆっくりと目を開けると、白い天井が見える。
「…………ここ……」
「病院ですよ」
声のした方を見ると、看護師が立っていた。
「気分はどうですか?どこか痛むところは?」
身体が重い。
あちこち痛む。
「……私……なんで、ここに……」
「マンションから転落したんです。覚えていますか?」
「……転落……」
その言葉で、記憶が蘇った。
夜。
開いていた窓。
ベランダ。
修也が、外へ出ようとしていて。
追いかけて。
手を伸ばして。
それから。
(……ああ、そうだ)
「修也」
「え?」
身体を起こそうとする。
「修也……!」
「あ、待ってください!まだ起きないで」
「修也は!?」
「落ち着いてください」
「一緒に……私、一緒に落ちて……!」
あのとき。
修也が私を掴んだ。
ぎゅっと、身体を包み込むように。
「修也……修也はどこですか!?」
「一緒にいた方ですか?」
「はい!」
「…………」
看護師が、困ったような顔をした。
「救急隊からは、他に人がいたとは聞いていませんけど……」
「……え?」
「あなた一人だったそうですよ」
「そんなわけ……」
ない。
だって、修也がいた。
「ただ……」
看護師が少し言いづらそうに続ける。
「あなたが落ちたところに、大きな動物のようなものがいたそうです」
「…………」
「それが下敷きになったみたいで。だから、あなたは助かったんじゃないかって」
頭の中が、真っ白になった。
「その……動物は?」
答えを聞く前から、分かっていた。
看護師の表情だけで。
「残念ですけど……助からなかったそうです」
「…………」
「かわいそうですけど、本当に運がよかったですね。もし何もなかったら、あなたも──」
その先は、聞こえなかった。
大きな、動物のようなもの。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「…………あ」
そうか。
修也は。
ずっと見えなかったものが、少しずつ輪郭を取り戻していく。
私の身体を掴んだのは、人の手ではなかった。
人の身体でもなかった。
何本もの触手。
ぐにゃりとした、形の定まらない身体。
ああ。
そうだったんだ。
私にはずっと、修也に見えていたから。
「…………」
頭の中にかかっていた霧が、ゆっくりと晴れていく。
それでも何も、変わらなかった。
あの姿が、どんなものだったとしても。
修也は修也だった。
私の大好きな、修也だった。
「…………っ」
涙が、頬を伝った。
◇◇◇
その日の夜。
梓は、一人で階段を上っていた。
一段。また一段。
静かな病院に、足音だけが響いている。
「……修也ってば、バカだなぁ」
ぽつりと呟く。
「ほんとに、な〜んにも分かってないよ」
返事はない。
それでも、修也に話しかけるように言葉を続けた。
「多分、私が無事でよかったって思ってるよね」
階段を上りきる。
目の前には、屋上へ続く扉があった。
「幸せになってほしい、とか」
扉を開ける。
夜風が吹き込み、梓の髪を揺らした。
「俺がいなくても大丈夫、とか」
一歩、屋上へ出る。
空を見上げた。
雲の少ない、綺麗な夜空だった。
足を進める。
「時間が経てば、いつか忘れられるとか……」
きっと修也なら、そんなことを考えたのだろう。
私のためだと思って。
勝手に決めて。
勝手にいなくなろうとして。
「ほんと、分かってないよ」
梓はゆっくりと歩いていく。
「私は、修也がいたから幸せだったんだよ」
人間じゃなくても。
一緒に外へ出られなくても。
旅行に行けなくても。
結婚できなくても。
そんなこと、どうでもよかった。
「修也がいてこそなんだよ」
修也がいる。
それだけでよかった。
梓は立ち止まった。
目の前には、夜の街が広がっている。
「…………」
不思議なくらい、頭の中は静かだった。
あれほど見えなかったものも。
分からなかったものも。
今はもう、ちゃんと分かる。
修也がどんな姿をしていたのかも。
それでも、何も変わらなかった。
あれは修也だった。
私の大好きな、修也だった。
「だから、ごめんね」
きっと怒るだろうな。
せっかく助けたのに、何やってんだって。
「怒っていいよ」
梓は、ほんの少し笑った。
「今から会いにいくから」
夜風が、また髪を揺らした。
「いっぱい私を、怒ってね」
梓の目は、綺麗に澄んでいた。
まるであの狂気なんて、最初からなかったように。
最後に。
風に揺られた髪が、ふわりと空へ広がった。




