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よーいどん

作者: 香月 深青
掲載日:2026/05/22

 今日は、雲ひとつないいい天気だった。


 幼稚園の運動会。


 孫のサラちゃんに何度も「絶対来てね!」と言われ、私たちは朝から車を走らせていた。


 娘夫婦とは幼稚園の駐車場で待ち合わせだ。


 車で一時間。


 久しぶりに妻と二人きりのドライブだった。


「サラちゃん、最近ますますおしゃべりになったよね」


 助手席で妻が笑う。


「この前なんて、大人の話に混ざって“わかる!”って頷いてたよ」


「絶対わかってないのにな」


 二人で顔を見合わせて笑った。


 最近のサラちゃんは、自分のことを“サラちゃん”と呼ぶ。


「じいじもばあばも、運動会きてね!」


「絶対だよ!」


 電話越しに何度も言われ、そのたびに自然と顔がほころんだ。


 娘が小さかった頃とは、また違う可愛さがある。


 娘を育てていた頃は、毎日が必死だった。


 仕事をして、家に帰って、気づけば一日が終わる。


 ちゃんと向き合えていたのか、今でもわからない。


 余裕なんてなかった。


 でも今は、こうして少し立ち止まって笑える。


 小さな成長に胸が熱くなる。


 そんな時間が、たまらなく愛おしかった。


 会場へ着くと、娘の旦那さんが席を確保して待っていてくれた。


「お義父さん、お義母さん、こっちです!」


 その声に手を振りながら歩いていくと、園児たちの列の中から小さな声が響いた。


「じいじー!! ばあばー!!」


 サラちゃんだった。


 白い帽子を揺らしながら、ぴょんぴょん飛び跳ねるように大きく手を振っている。


 その姿を見ただけで、胸の奥がふわっと温かくなった。


 あぁ、来て良かった。


 心からそう思った。


 運動会が始まり、やがてサラちゃんの徒競走の番になった。


 小さな身体で、一生懸命スタートラインに立っている。


 でもサラちゃんは、大きな音が少し苦手だ。


 ピストルを持つ先生を見ながら、ぎゅっと耳を塞いでいた。


「よーい――どん!」


 大きな音が響く。


 みんなが一斉に走り出す中、サラちゃんはびくっと肩を揺らした。


 慌てて耳から手を離し、小さな足で走り出す。


「サラちゃん、がんばれ!」


 思わず大きな声が出た。


 一生懸命だった。


 小さな足を必死に動かして、前だけを見て走っている。


 その時だった。


 小さな身体が前につんのめる。


 白い砂がふわっと舞った。


「あっ……!」


 思わず立ち上がる。


 痛かっただろう。


 膝を押さえたまま動けず、泣きそうな顔で周りを見ている。


 胸がぎゅっと締めつけられた。


 大丈夫か。


 無理しなくていい。


 そんな言葉が頭をよぎる。


 でも次の瞬間、サラちゃんは涙をぐいっと拭いた。


 そして、もう一度走り出した。


 小さな身体で、一生懸命前へ進んでいく。


「がんばれ!!」


 気づけば、私は力いっぱい声を出していた。


 誰よりも必死に。


 誰よりも願うように。


 転んでも、泣いても、それでも前へ進もうとする小さな背中が、眩しかった。


 サラちゃんは最後まで走り切った。


 一番最後だった。


 でも、誰より誇らしかった。


 走り終わると、サラちゃんは泣きながらこちらへ走ってきた。


「足いたい〜……」


 涙でぐしゃぐしゃの顔。


 それでも、その顔はちゃんと最後まで頑張った顔だった。


「頑張ったな」


「最後まで走れてえらかったぞ」


 そう言いながら頭を撫でると、サラちゃんは少し照れたように笑った。


「うん!」


 春の日差しの中で、その笑顔は眩しいくらい輝いて見えた。


 帰る頃には、さっきまで泣いていたのが嘘みたいに元気になっていた。


「じいじ!」


「ん?」


「よーいどんしよ!」


 小さな手が私の服を引っ張る。


「いいぞ」


 園庭の端に並ぶ。


 サラちゃんは嬉しそうに笑いながら、小さく手を上げた。


「よーい……どん!」


 走り出したサラちゃんの背中を見ながら、私は思わず笑ってしまった。


「サラちゃん、早いんだよ!」


 振り返って笑うその顔が、たまらなく愛おしい。


 春の風が、優しく吹き抜ける。


「じいじー! もう一回!」


 小さな声が青空に響く。


 私はゆっくり立ち上がり、笑いながらスタートラインへ戻った。


「よーいどん」


 その小さな背中を見つめながら、私は静かに思った。


 いつまでも、この笑顔を見守っていたい。


 この幸せな時間が、ずっと続きますように。

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