よーいどん
今日は、雲ひとつないいい天気だった。
幼稚園の運動会。
孫のサラちゃんに何度も「絶対来てね!」と言われ、私たちは朝から車を走らせていた。
娘夫婦とは幼稚園の駐車場で待ち合わせだ。
車で一時間。
久しぶりに妻と二人きりのドライブだった。
「サラちゃん、最近ますますおしゃべりになったよね」
助手席で妻が笑う。
「この前なんて、大人の話に混ざって“わかる!”って頷いてたよ」
「絶対わかってないのにな」
二人で顔を見合わせて笑った。
最近のサラちゃんは、自分のことを“サラちゃん”と呼ぶ。
「じいじもばあばも、運動会きてね!」
「絶対だよ!」
電話越しに何度も言われ、そのたびに自然と顔がほころんだ。
娘が小さかった頃とは、また違う可愛さがある。
娘を育てていた頃は、毎日が必死だった。
仕事をして、家に帰って、気づけば一日が終わる。
ちゃんと向き合えていたのか、今でもわからない。
余裕なんてなかった。
でも今は、こうして少し立ち止まって笑える。
小さな成長に胸が熱くなる。
そんな時間が、たまらなく愛おしかった。
会場へ着くと、娘の旦那さんが席を確保して待っていてくれた。
「お義父さん、お義母さん、こっちです!」
その声に手を振りながら歩いていくと、園児たちの列の中から小さな声が響いた。
「じいじー!! ばあばー!!」
サラちゃんだった。
白い帽子を揺らしながら、ぴょんぴょん飛び跳ねるように大きく手を振っている。
その姿を見ただけで、胸の奥がふわっと温かくなった。
あぁ、来て良かった。
心からそう思った。
運動会が始まり、やがてサラちゃんの徒競走の番になった。
小さな身体で、一生懸命スタートラインに立っている。
でもサラちゃんは、大きな音が少し苦手だ。
ピストルを持つ先生を見ながら、ぎゅっと耳を塞いでいた。
「よーい――どん!」
大きな音が響く。
みんなが一斉に走り出す中、サラちゃんはびくっと肩を揺らした。
慌てて耳から手を離し、小さな足で走り出す。
「サラちゃん、がんばれ!」
思わず大きな声が出た。
一生懸命だった。
小さな足を必死に動かして、前だけを見て走っている。
その時だった。
小さな身体が前につんのめる。
白い砂がふわっと舞った。
「あっ……!」
思わず立ち上がる。
痛かっただろう。
膝を押さえたまま動けず、泣きそうな顔で周りを見ている。
胸がぎゅっと締めつけられた。
大丈夫か。
無理しなくていい。
そんな言葉が頭をよぎる。
でも次の瞬間、サラちゃんは涙をぐいっと拭いた。
そして、もう一度走り出した。
小さな身体で、一生懸命前へ進んでいく。
「がんばれ!!」
気づけば、私は力いっぱい声を出していた。
誰よりも必死に。
誰よりも願うように。
転んでも、泣いても、それでも前へ進もうとする小さな背中が、眩しかった。
サラちゃんは最後まで走り切った。
一番最後だった。
でも、誰より誇らしかった。
走り終わると、サラちゃんは泣きながらこちらへ走ってきた。
「足いたい〜……」
涙でぐしゃぐしゃの顔。
それでも、その顔はちゃんと最後まで頑張った顔だった。
「頑張ったな」
「最後まで走れてえらかったぞ」
そう言いながら頭を撫でると、サラちゃんは少し照れたように笑った。
「うん!」
春の日差しの中で、その笑顔は眩しいくらい輝いて見えた。
帰る頃には、さっきまで泣いていたのが嘘みたいに元気になっていた。
「じいじ!」
「ん?」
「よーいどんしよ!」
小さな手が私の服を引っ張る。
「いいぞ」
園庭の端に並ぶ。
サラちゃんは嬉しそうに笑いながら、小さく手を上げた。
「よーい……どん!」
走り出したサラちゃんの背中を見ながら、私は思わず笑ってしまった。
「サラちゃん、早いんだよ!」
振り返って笑うその顔が、たまらなく愛おしい。
春の風が、優しく吹き抜ける。
「じいじー! もう一回!」
小さな声が青空に響く。
私はゆっくり立ち上がり、笑いながらスタートラインへ戻った。
「よーいどん」
その小さな背中を見つめながら、私は静かに思った。
いつまでも、この笑顔を見守っていたい。
この幸せな時間が、ずっと続きますように。




