No.12 Ossan My Love
今日も同期の孝子が、彼を『おっさん』と称して私の神経を逆撫でする。
「大体さぁ~、なぁ~んで和田君がおっさんにどやされなきゃなんないのよぉ~」
彼女はそう言って最後の一口になったカルボナーラを頬張った。
『和田君』とは私達の二年後輩で、孝子がタゲっている『イケメン』営業マンのことだ。事故渋滞に巻き込まれたことが原因でお客様との打ち合わせに遅れたのは仕方ないことだが、彼は先方に遅れる旨を連絡しなかったばかりか、謝罪の前に言い訳をして怒らせてしまったらしいのだ。幾ら何でも学生じゃあるまいし、二年目とは思えない愚行としか言い様がないというのが私の率直な感想だ。
私は、差し障りのない言葉を上っ面で答えながら、心の中では
『和田君も、彼の叱った理由が分かんないようじゃ、まだまだ甘いわね』
なんてことを考えて、彼――遠野部長のしかめっ面を思い出し、心の中で『にへらっ』としていた。
「ちょっと響子、何笑ってんのよ」
あ、しまった。本当にニヤニヤしていたらしい。私は動揺を露にすることもなく、最後のリングィーネをつるん、と流し込み
「醤油ベースはやっぱりリングィーネが一番、ってしみじみ味わってただけよ。いつも出先で立ち食いばかりだから」
と久々のまともなランチタイムが至福であると誇張した。
本当は、孝子の彼に対する暴言にうんざりだったんだけどね。
そんな偉そうなことを考えている私も、一年前の自分を振り返れば和田君のことを言える立場ではなかった。私だって、遠野部長の第一印象は『このおっさんめが!』だったんですもの。
今思えば、当時の私は少し調子に乗り過ぎていたのだ。二年目で、早くも図面を描かせて貰えることになり、自分の仕事振りを過信した。設計上あり得ない数値を入力したまま、顧客に提出してしまったのだ。後輩のことなんて言えない程の、呆れる位に初歩的なミス。
遠野部長が営業を掛けた顧客だった為、彼と一緒に謝罪へ赴いた。私は自信で高くなり過ぎた鼻を現実にへし折られ、お客様の前なのに平気で涙を見せてしまった。女を武器にしていると勘違いされても仕方の無い醜態を晒し、これ以上の無様は無いと思っていた私に、彼はよりによってお客様の前で更なる追い討ちを掛けたのだ。
『藤崎。お客様に、更にご心痛を与えるつもりか?』
静かで、冷たく、怒りに満ちた声だ、と思った。そうね、『おっさん』なんて可愛い言葉なんかイメージしなかったわ。
『こ……のクソ親父……っ!』
私は赤面しながら涙を拭い、百二十度角でひれ伏して詫びる遠野部長の後に続き、百八十度の深さで顧客に詫びた。
始末書を書き、損失分を給与天引きで差っ引かれ、同情してくれた孝子のおごりで、暫く飲み歩いては『おっさんの馬鹿野郎!』を連呼していた。
だけど晴れて給与天引きの禊が済んだ夜、遠野部長と、その同期であり私の直属の上司である、露木課長に食事に誘われたのだ。
露木課長は、レストランに入ると
『遠野のカミさんから、要らん誤解を招かん様付き合って来ただけだ。後はごゆっくり』
と別席へ移動していった。苦笑して彼を見送る遠野部長の意図が解らず、私は過剰に警戒していた。
『全く、女房妬くほど亭主もてもせず、という言葉を知らんカミさんでね、参るよ』
露木にはいつも世話になっている、と彼はおもむろに惚気話をし始め、私は呆気に取られてしまったのだった。
『あの、何かお話があってのお誘いだったんですよね? 昨年の失敗に関することでしょうか』
私は手短に済ませたくて、不快感を露にそんな生意気な口を利いた。
でも、彼はそんな小娘の部下に立腹することもなく、はは、と力なく肩を揺らして笑った。その緩やかな動きで、グレーと白と黒の三色が絶妙に混じった、少し長めの前髪が乱れ、彼のおでこを僅かに覆う。夜ともなると、固めた筈の前髪もポマードが落ちて自由になる。思えば、部長とこんな至近距離で、真正面を向いて話すのは初めてだった。第一印象が『おっさん』だった為に、私は顔を伏せていたから、彼の額や目尻に刻まれた横皺が、柔和にひだをかたどっていることも、少しグレゴリー・ペックを思わせる彫りの深い顔立ちが、笑顔になるとステキな細い目になるのだということも、その夜初めて知ったのだ。そして何より私の心を根こそぎ奪ったのは――。
『この八ヶ月間、よく私の指示について、あのお客様と最後まで仕事が出来たね。名は体を現すと言う。藤崎君は、その名の通り打てば響く、反応のいい優れた部下だと私は見込んでいる。辞表を出さずに、今日までよく頑張ってくれた。改めて、期待に応えてくれてありがとう』
という言葉だった。続いて来年度から部下の教育担当を伝えられ、初めて彼の真意に気がついた。
私と孝子を除いた同期の女子社員の殆どが、彼の厳しさに根を上げて退職していった。皆が皆『あのおっさん、女子社員いびりばっかしやがって』と影で罵詈雑言を浴びせながら、腰掛け気分で入社したことを棚に上げ、この会社に入ったのを送別会の席で悔やみながら去っていった。
女性蔑視ではなく、むしろその逆だったのだ。彼は、この業界では軽んじられる女性社員でも能力のある者は前面に押し出してくれた。その代わり、男女の別なく厳しく指導し、ミスの責任は共に取り、功績は正しく上部に報告してくれる。その中の一人として、『私』という存在をも、彼は尊重してくれていたのだ。
『――女性社員の先陣を切って、よい見本になってやってくれると有難い……と、聞いてるかい?』
『は、はびっ! あじがどうございばずっ!』
気がつけば、私はまた泣いていた。今度は感動の涙で。遠野部長は呆れた顔で、一瞬大きな目を一層大きく見開いたかと思ったら、ちくん、と切なくなる程に魅惑的な微笑を私に向けた。
『全く君と言う人は……気が強そうな瞳をしているのに、すぐに潤んでしまうのだな』
ペック似な顔の癖に、部長はハンフリー・ボガートの台詞を口にして、完全に私の心を鷲掴みにした。
『君の瞳に乾杯、なんてな』
笑えなかった私を見て、彼はきまずそうに笑顔を引っ込めた。
『うーむ、やはり若い子の笑いを取るのは難しい』
そう言ってジョークが滑った照れ隠しに、手にしたワインを一気に飲み干すのが、とても様になる人だった。
その日から、私の中で『おっさん』は唯一無二の『尊敬する最愛の人』になった。
通常業務に加えて、新年度からは新人の教育指導。それは思いのほか忍耐と寛大な心が必要な仕事で。私は、それまで以上に部長と話す機会が増えていた。相談とアドバイスが欲しいという仕事人の私が半分、でも、もう半分は……?
「遠野部長が、こんな小娘を相手にする訳ないでしょう?」
更衣室の鏡に向かって、言い含める様に私は言う。入社当時、男に負けてたまるものか、とベリーショートにした髪も、あの恋に落ちた日以来伸ばし始めて、今では肩まで真っ直ぐに伸びた。パンツスーツ一本やりだったのも、タイトで上品なスーツスカートも織り交ぜる様になっていた。
――君の瞳に乾杯、なんてな――
願わくば、彼の『イングリット・バーグマン』になりたかった。束の間でいいから、仕事の時間だけでもいいから、彼に他の誰よりも私を見ていて欲しかった。
私の初の指導対象は、永瀬という新人だ。彼は大学時代にホストをしていて、今でも人妻と契約中らしい。仕事の面では苛つかせる奴なんだけど、何となく気が合うので、先輩後輩というより友達感覚。そんな彼だからこそ、社内でひた隠しにしているこの想いも、同じく倫理から外れたことをしている彼にはついうっかり話してしまったのだと思う。
「ぶぁっはっはっはっは……っ! 響子先輩、めっちゃオトメーっ! しかも、何、『どうしたら割り切れるか』って? 知らないっすよ、女心なんか。俺は男だし」
永瀬は腹を抱えて大爆笑しやがった。ご丁寧にも涙まで流しながら。……激しく後悔。
「ったく、あんなおっさんの何処がいいんっすか。口を開けばカミさんの話ばっかでさー。仕事以外で俺が聞いた話っちゃあ、やれカミさんが今年こそ結婚記念日には帰って来て欲しいだとか、息子が最近自分を敵視してカミさんに近づけないとかさ、ノロケばっかしでつまんねーおっさんじゃん」
「だからぁっ……普通なら、そういうの聞いたら諦めもつくっていうのに、何で私は諦めが悪いの、って頭抱えてるんじゃない。う~……もういいっ、この話、やめっ! あんたに話した私が愚かだったわ」
羞恥が過ぎるとアルコールのペースが進む。私はどうしようもない位にぐでんぐでんになってしまい、結局永瀬如きの世話になり、タクシーでアパートの前まで送られた。それも、意識朦朧という泥酔状態で、あんなことが身の上に起きなかったら、きっと彼と飲んだことさえ、翌朝覚えてなんかいなかっただろう。
どうやって部屋の鍵を開けたのかも覚えてない。一気に酔いが醒めて、記憶が鮮明になったのは――。
「ねえ、そんなにおっさんのこと諦めたいならさ、俺が協力してやるよ」
「ちょっと……な……んんっ!」
何言ってるの、と言おうとして空けた「な」をかたどった唇に、彼のそれが重なって来た。支えられていた肩を掴んだ彼の腕の力が、解けないほどに強くなる。もう一方の手で顎をこじ開けられて、塞ぐことも、永瀬の野郎の舌を噛み切って報復することさえも許されない。だから嫌だったのよ、スカートなんて。こんなにも無防備に肌を晒して、永瀬みたいな馬鹿男に、誘ってるなんて誤解を平気で与える。
ブツツツ、とストッキングの引き裂かれる不快な音。ようやく永瀬の唇から逃れた私は、後のことも考えず大声で助けを求めていた。
「止め……っ……助け……部長ッッッ!」
自慢にもならない小さな谷間に、噛み付く様に屈辱の烙印を刻み続ける永瀬の動きが止まった。その隙に圧し掛かられた身体を素早くすり抜け、襟元を寄せて部屋の隅へと身を縮める。空いた右手には、取り敢えず手元にあった布団叩き。効果の程は知れないけど、今はこれしか武器がない。
でも、彼が再びケダモノになることはなかった。ゆらりと、まるで蜃気楼が揺らいでいるみたいに揺れながら俯いたまま立ち上がると、
「……はっ。またブチョー、かよ……」
力なくそう言って玄関の扉から出て行った。急いでドアロックをして、ずるずるとそこにへたり込む。腰が、抜けた。怖かった……のだろう、多分。
這いずりながら、どうにか寝室に向かおうとする。途中のフローリングで手が滑り、まだ腰に力の入らない私はひっくり返ってしまい、強かに頬を床に打ちつけてしまった。
「な……に?」
仰向けに寝転がったまま、手についた湿り気を舐めてみたら、味わったことのある塩味だった。そして私が滑ったそこは、永瀬がゆらゆらと立ち上がった場所付近だった。
「……泣きたいのはこっちじゃないの。何で永瀬が泣くのよ……」
今日が金曜日だったことに、私は心から感謝した。少なくても、二日間は永瀬と顔を合わせずに済む。私が先輩なのだから、先に立ち直っておかなくては。
「部長……ごめんなさい……」
別に、私は遠野部長のモノでも無いのに。そんな資格さえ貰えてないのに。穢されかけた自分の身体が疎ましくて申し訳なくて。
その夜、私は血が滲む程、体中を幾度となく洗い流し続けていた。
私が気負う心配は杞憂に終わった。翌週始め、永瀬は開口一番
「何っすか、その横っ面。ファンデ厚塗りの意味無いし」
と、流石元ホスト、それとも人妻の愛人への気配り癖からか、私の頬の痣を目敏く見つけ、笑い飛ばすことで私の気負いを拭ってくれた。
「……床で滑ってコケたのよ。悪かったわね、どうせドジよ」
いつもの様に、先輩としての言葉を返す。彼もまた、後輩としての敬語を使う。そうでもしないと、同じ職場になんていられない。こんな理由で、この仕事を諦めたくなんかもない。
逃げたくなんか、ない――きっとそれは、永瀬も同じだったんだろう。
取り敢えずそんな感じで、一見何事もなかった様に、日々は過ぎた。
だけど少しずつ、何かが軋み歪んで、何処か均衡が保てなくなっている自分がいる。そして、そんな私と同じ永瀬がいる。
気の合ういい奴だと思っていたのに、仕事の話しか出来なくなった。会話が途切れた少しの間にも、居心地の悪さを感じてしまう。私と上下の関係からパートナーになりつつあった彼との歯車の噛み合わなさが露呈して、その年の秋に、遠野部長から彼の教育係を外された。それは、私を奈落の底へ突き落とす指令だった。永瀬とタッグを組めなくなったことに対してではなく、遠野部長の『失望した』という意思表示が私を落胆させたのだ。
「遠野部長に駄目出しされちゃった。悔しいよ、孝子」
これではまた『女性社員はこれだから』と上に見くびられてしまう、なんて建前の理由を愚痴る私に、孝子は快く
「よーし、今夜は響子に付き合っちゃうっ」
と憂さ晴らしに付き合う宣言をしてくれた。
そして、私はやっぱり、憂さ晴らしの相手は孝子じゃダメだ、と激しく後悔することになる。私の気持ちを何も知らない孝子は、遠野部長を散々にこき下ろし、そして後輩である筈の和田と、ちゃっかり付き合っているなんていう惚気話を延々と語り、ついでに彼の同期でもある永瀬の低迷っぷりまでこちらに報告してくれやがった。
「和田っちを呼び出しては怒鳴りつけてるおっさんだけど~、永瀬なんか、それさえないのよぉ。アレ見てたら、あ~、まだおっさんに見限られないだけ、和田っちの方が見込みがあるってことかしら~?」
はいはい、ごっそさん。二人仲良くラブっておきなさいよ。永瀬の低迷は私の所為かも知れないっつーの。
心の中でそんなことを毒づきながら、口から出た言葉と、顔に張り付いたにこやかな仮面だけが、孝子の言に同意を示していた。
時間は迫る、気は焦る~、なんて歌詞のコマーシャルがあったような気がする。
頼りない和田が幹事で、経理の孝子が会計というのが、今年の忘年会主催の面子だ。そんなんだから、私も漏れなく巻き込まれた。勿論、永瀬もそうなんだろう。
だけど私は打ち合わせが長引いてしまい、結局報告書を作成するまで会場に行けなくて。報告書を打ち込んでいる間に、露木課長と遠野部長が何やら談笑していたが、その内課長が
「じゃ、俺は先に行ってるよ。遠野、捺印宜しく」
と先に忘年会会場へと向かってしまった。
え、ということはもしや、今、このフロアにいるのは、私と遠野部長の二人きり……?
そう気付いた途端、キーボードをタイプする指がカタカタ小刻みに震え出す。やだ、どうしよう、口から心臓が飛び出しそう。暇潰しにコンビニで立ち読みした、レディースコミックに載っていたオフィスラブのひとコマが脳裏に浮かぶ。――げ、私ってこんなにエロかったっけ?
きー、と軽く椅子の軋む音が私の心拍数をクライマックスまで押し上げた。部長が席を立ち上がり、私の席にコツコツと革靴の音を響かせながら近づいて来る気配を体中で感じ取る。
「藤崎君にしては珍しいな。いつもより入力が遅いようだ。体調でも悪いのか?」
デスクに置かれた部長の左手が、私の心拍数を急降下させた。今でも新品の様に輝く、こまめに磨かれていると解るプラチナの結婚指輪が、お会いしたことすらない彼の奥様が私へ主張している様に見えたからだった。その輝きは、『この人は、私の夫なのよ』と、私に監視の目を光らせている様に見えた。
みるみる視界がぼやけて来る。自分でも見ないようにしていたモヤモヤとした想いが、堰を切って溢れてしまった。それを具現化させるみたいに、小さな海が目頭に溜まりゆく。それをパソコンに落とし込んでしまわぬ様、つい上を向いて瞳を大きく見開いてしまった。頭上に、遠野部長の視線があるとも思わずに。
「遠野部長……」
合ってしまった視線を、私は逸らすことが出来なかった。相変わらず、夕方には崩れてしまうグレー混じりの長い前髪が、彼の驚きで見開かれた大きな瞳を僅かばかり隠していた。
つ、と私の頬に溢れた涙が伝うのと、部長が視線を逸らして苦笑を漏らすのが同時だった。
「若い娘さんが、こんなおっさんにそんな目を向けるものではないよ。人によっては誤解をし兼ねん」
誤解じゃないです、遠野部長。部下と上司とかではなくて、人として尊敬し、愛情さえも感じている。なのに、どうしてこの人は、『おっさん』なんて括りに自らはめ込んでしまうのだろう。
そんな私の想いにお構いなく、彼は隣のデスクの椅子を引いて、少しも動揺の素振りを見せずに私の隣に腰掛けた。自分でも恥ずかしい位に解る、紅潮した私に引き換え、あからさまな私の胸の内を華麗にスルーしているみたいに冷静な彼。本当は禁煙のフロアなのだけれど、彼はデスクに置きっぱなしの空き缶を灰皿代わりに紫煙をひと燻らしすると、突然意外な人の名を出した。
「和田君から相談を受けて、少しばかり聞いてはいたんだが、実は半信半疑だったのだよ」
「え……?」
本来、プライベートに上司が口を挟むものではないのだが、と頭をぽりぽりと掻いたその時、初めて遠野部長が言葉を選ぶのに苦心する姿を見せた。
「君と永瀬君のタッグを外したのは、君の教育指導に問題があったからではない。私生活で何かしらあったのだろうとは思ったのだが、プライベートにまで上司が口を挟むのはどうかと思ってね。ただ、君らがこの夏頃辺りから足の引っ張り合いをしていることは確かだった。より仕事への集中度が低い永瀬君の方を、私が直接引き受けただけのことだ。永瀬君の為には、私のその対応がどうも失策だったのだ、と和田君に君達の喧嘩の原因を聞いてから思い始めていたのだがね」
珍しく饒舌な遠野部長は、そこまで一気に吐き出した。そして、その先を一切口にはしなかった。まるで、永瀬経由で和田から聞いたのであろう、私の気持ちを言葉にすること自体が、奥様に対する罪と言わんばかりに口をつぐんだ。彼は私の向こうに、この場にはいない奥様を見ている様な遠い瞳をしながら最後の煙を吐き出すと
「おっさんとしては、非常に光栄な話ではあるがね。今の私があるのは、カミさんと築いて来たこれまでの賜物だ、と思っている。それを、君が認めてくれた様で嬉しく思うよ。ありがとう」
と相変わらずステキな魅惑のスマイルを私に向けた。そして、「カミさんの分も礼を言う」という言葉を決して忘れなかった。少女の様に、失恋の痛みに泣きじゃくる私を、困った笑みを浮かべたまま見つめていた。アイロンで丁寧に整えられた、趣味のよいハンカチを私に差し出し、私の涙が止まるのを、ただ黙って待っていてくれた。
「永瀬君が元ホスト? 家の人事部の観察眼を疑ってもらっちゃ困るよ、藤崎君」
その後、遠野部長と一緒に赴いた忘年会の会場で、人事部長にそう言われ、初めて自分が永瀬に長年騙されていたことを知った。
「惚れた女性の関心を得ようと足掻く稚拙さってのは、今も昔も変わらんなあ、なぁ? 遠野」
露木課長や、その他の遠野部長を古くから知る面々はそう言うと、『酒の肴』に遠野部長の武勇伝と称した暴露話に花を咲かせた。
愛するおっさん、遠野部長。
彼は、最初からステキなロマンス・グレーなどではなかった。若かりし頃は、何度か奥様を怒らせる浮気もしたそうだ。露木課長の奥様も彼の奥様と同様に立腹し、二人揃って奥方達にたしなめられた過去もあるという。
少しずつ、少しずつ、二人で築き上げて来た時間と愛情が、今の遠野部長を形成させた。
私は、それを横から掠め取る様な、そんな邪な想いを抱いていた自分を初めて恥じた。あの夏以来、久々に浴びる程の酒を飲んだ。その話題の流れから全てを露呈されてしまった永瀬の馬鹿は、羞恥の余り皆が盛り上がっている隙を狙って、私を置いて帰ってしまったらしい。私は、飲んで、歌って、騒いで、笑って、どさくさに紛れて泣きもして。歌ったカラオケの歌は、ちょっと……いや、だいぶ古いけど、『JITTERIN'JINN』の『プレゼント』。
「大好きだったけどぉ~っ! 最後のプレゼントーっ」
――bye bye my sweet darlin' さよならしてあげるわ――
酔った勢いで、そう歌いながら最初で最後とばかり遠野部長に抱きついた。彼はそんなに飲んでもいないのに、周囲の冷やかしの声と私の暴挙にうろたえ、顔を真っ赤に染めて露木課長に助けを求めて足掻いていた。私は、そんな彼を見て大爆笑する。涙をポロポロ零しながら、笑い上戸よろしく、指を指して大笑いする。涙と爆笑と吐き出すシャウトと一緒に、初めての恋もこの場に全部吐き捨てた。
遠野部長は私にとって、相変わらずステキな愛しの『おっさん』。
だけど今は、あの頃の想いとは少しだけ違う。上司として、理想の夫として、そうね、『憧れ』という感覚で、やはり愛しい。
「君も遠野部長位までは上り詰めてくれないとねっ」
再び私の傍らに立つ永瀬のライバル心に、意地悪く煽り火を焚き付ける。
「まーた遠野のおっさんかよ。俺には無理だっつってるじゃん」
永瀬もまた、あの頃とは違う余裕のリアクションを示す様になった。だって、何故なら。
「なーに言ってんの。タッグ解消されてた期間、私に内緒で私のフォローばっかしては自分の業績が下がってた癖に。私が選んだ男なんだから、もっと自信持ちなさい」
永瀬と同じ苗字の入った名札をつけた私は、勢いよく彼の背中をばん、と叩いて送り出した。以前なら食って掛かって来た彼も、呆れ交じりの苦笑を漏らしながら、「はいはい、奥さん」と言って外回りへと出掛けていった。
「今日の送別会までには帰社してねー」
と夫の背中に声を掛けると、彼はガッツポーズでYesと答え、エレベーターの向こうに消えていった。
私は仕事よりも家庭を優先して、定時にあがれる総務に移った。彼はそのまま遠野部長と同じ部署で、多くの部下を見守りながら今日も己を切磋琢磨している。
今日で遠野部長が定年を迎える。彼が少しでも安心して永年愛して来たこの職場を後に出来る様、私達は尊敬する『愛しいおっさん』の為にも、部下や仲間の為にも、そして何より互いの為に、今日も仕事に全力投球する。
私は今日も、かつて男として愛した、私をこっ酷く振ったおっさんの為に、彼好みの濃さでコーヒーを淹れる。
「失礼します」
そう声を掛けて部長席に近づくと、今日も相変わらずステキなグレー交じりの髪が、窓からの陽射しに照らされ豪奢に輝き、部長を一層男前に見せていた。グレゴリー・ペックの様に彫りの深い印象的な笑顔、十年経っても変わりなく、穏やかで上品な笑顔が
「お、ありがとうさん」
と私を迎えてくれた。
「遠野部長、長い間、本当にお世話になりました。これからも、ずっとステキなおっさんでいて下さいね。おじいさんになんかなっちゃ駄目ですよ」
子供の迎えがある為送別会に出席出来ない私から、彼への生意気なはなむけの言葉だった。万感の想いを受け止める様に、遠野部長はこれまでで一番ステキな笑顔を私にプレゼントしてくれた。
「こちらこそ。よかったら、これからも永瀬君や娘さんと一緒に遊びに来なさい。カミさんも久しぶりに響子君に会いたいと言っていたよ」
今では私のよきアドバイザーとなっている遠野夫人の笑顔を思い出し、私は満面の笑みで「はい、喜んで」と答えていた。