第一話 これがまた異世界みたいな一九〇九年のアメリカ
漢数字に統一してみました。
現在途中で止まっているイトウ・スチール・カムパニーの最新話から、こちらの記述方式に統一するか検討中です。
カリフォルニア州ロサンゼルス中心部から東南東へ、轍の続く道なりに十 哩 (十六 粁)離れた郊外。
モンテベロの砂埃の舞う未舗装路の突き当たりに、その「家」とは名ばかりの煤けた小屋が蹲うずくまっていた。
それは古きカリフォルニアの終焉と近代農業の胎動が混ざり合った、荒々しくも美しい過渡期の風景の中にあった。
リオ・ホンド川沿いのモンテベロは、旧ミッション・デ・サン・ガブリエル (Misión Vieja)が最初に建てられ、洪水による移転を経て、湿地と乾燥した荒れ地が入り混じる開発から取り残されたような場所だった。
かつてスペイン・メキシコ政府から個人に与えられた巨大な特権的土地所有地、ランチョの境界には、数千から数万エーカーの牧場を背に、日干し煉瓦が崩れかけながらも残る平屋が点在している。
サボテンの生け垣や野生のマスタード、コショウの木が自生し、風が吹けば乾燥した植物が擦れ合う音が響く。
雑草に埋もれた古い石造りの水路 (サンハ)が、かつてスペイン人や先住民がこの地を拓こうとした名残を留めていた。
そんな荒地も、今では数哩圏内に白人資本の広大なオレンジ畑と、日系移民が開墾したイチゴ畑が混在している。
白人によるオレンジ畑が厳密なグリッド状に配置され、蒸気機関を用いた大規模な灌漑を行っているのに対し、日系移民の畑は地形に沿った原始的で労働集約的な手作業に頼っていた。
そして、その隙間から外光が漏れるほどに朽ちた「家」は、風が吹くたびに屋根のトタンが悲鳴を上げていた。
伊藤家は、熊本県飽託郡の貧農の出だった。
一八八二年に「中国移民排斥法」が成立し、安価な労働力が不足したカリフォルニアの農園や鉄道会社が、中国人に代わる労働力として日本人を求め始めていた時期の一八八六年に、作蔵とキヨは海を渡った。
しかし、最下級客室の先に待っていたのは「金が湧く大地」ではなく、灌漑も不十分な荒野での果てしない重労働だった。
ロサンゼルス郊外の五エーカーの荒地を小作契約 (Sharecropping)で確保すると、年主は二百五十 弗。渡米時の借金返済と生活費で二百弗が消えていく極貧の生活だった。
開墾三年目、ようやく自家消費以上の野菜が実る頃に一太郎が誕生したが、野菜の販売で得た三百五十弗も、開墾道具や育児の支出に飲み込まれ、貯金など到底できない「爪の割れる」日々が続いた。
一九〇〇年、ようやく自力で灌漑設備を掘り、イチゴ栽培に着手したことで年収は四百五十弗まで上がった。
灌漑資材や馬の購入に四百弗を投じてもなお、生活にはわずかな余裕が生まれ、そこで夫婦の心には、一太郎への教育に対する執念が芽生え始めていた。
開墾五年を経て、そこは地域一の優良なイチゴ畑となり、年収は八百弗に達した。
それと同時に、生活費と一太郎が通う公立高校 (University accredited schools)への支出も、年間五百弗という巨額に膨れ上がっていた。
伊藤家の期待を背負った一太郎は、パシフィック電鉄 (PE)の路面電車「レッドカー」に揺られ、モンテベロのニューマーク駅から、当時世界最大級の電気鉄道ターミナルであったメイン・ストリート駅 (6th & Main Terminal)を目指した。
そこからフォート・ムーア、丘の上のロサンゼルス・ハイスクールまで徒歩二十分。赤レンガの校舎まで片道一時間半の通学路が彼の日常となった。
一九〇六年、「通学用回数券 (School Commutation Books)」と呼ばれる四弗五十 仙の月間回数券が導入されるまで、父・作蔵は、イチゴを売った金から毎日二十五仙の往復運賃を捻出し続けていた。
その硬貨の重みを知るからこそ、一太郎は教科書を抱える腕に力を込めた。泥にまみれた開墾の結実が、息子を都市のエリート教育へと繋いでいる――。
日系コミュニティでの信頼も揺るぎないものとなり、この時期、伊藤家はまさにその「黄金時代」を謳歌していた。「一太郎、お前は我らとは違う道を行け。泥を啜るのは、俺たちの代で終わりだ」というのが作蔵の口癖だった。
当時、カリフォルニアでは「排日」の炎が燃え広がり、日系移民は「黄禍論」として疎まれていた。その逆風の中、一九〇八年、一太郎はバークレーのカリフォルニア大学工学部へ進学する。
当時、日系人が工学を修めるのは稀であり、彼は同胞の希望の星だった。しかし、大学進学後は学費とサンフランシスコでの下宿代が家計に重くのしかかり、さらに排日運動による価格下落で年収は七百五十弗にまで下落した。
大学関連費用三百弗に生活費百五十弗。伊藤家は蓄えていた教育資金を切り崩し始めるが、渡米直後のような極貧の生活に、作蔵とキヨの肉体は悲鳴を上げていた。
日系移民への風当たりが強まる中、二世である息子に期待をかけ、学費を捻出するために、夫婦は睡眠時間を削り、指の爪が剥がれるまで、文字通り泥を啜って働いた。
一九〇九年春、大学三年への進級を目前に、母・キヨが結核に倒れた。
冬の湿った冷気が小屋の隙間から容赦なく入り込み、隔離も治療も叶わない。専門の施設も白人の医師も、貧しい「ジャップ」には縁のないものだった。
一太郎にできたのは、休学届けを出し、近くの製材所からもらってきた廃材を暖炉にくべ、血の混じった痰を拭い続けることだけだった。労働力は半減し、現金は底を突いた。
一エーカー七百五十弗から千弗の市場価格があるイチゴ畑は、一九〇七年の日米紳士協定以降の排日気運で、白人資本の銀行は日本人を「いつ強制送還・排斥されるかわからない不適格者」と見なして、銀行融資の対象とはせず追い返していた。
同年の金融恐慌の余波と排日運動による農作物価格の下落で、日本人同士の相互扶助である無尽・頼母子講も機能しなくなっていた。
一九〇九年までは一銀行一店舗だったカリフォルニアの州立銀行。サクラメントの「日本銀行」の閉鎖、サンフランシスコの「金門銀行」の休業・清算、ロサンゼルス最大の「大和銀行」破綻など、日本語で窓口業務を行なっていた主要な日系民間銀行が軒並み崩壊していく。
真面目に銀行に預金していた者ほど財産を失った。伊藤家の周囲の日系農民も全員が困窮していた。
「ごめんね、イチ……。大学に、戻って……」
それが、息子の学問の成功だけを祈り続けた母の最期の言葉だった。葬儀代すら残っていなかった。
十一月下旬にキヨが息を引き取ると、わずか二週間後。
作蔵は、妻を亡くした悲しみに暮れる間もなく、未払いの医療費精算百弗を返すため、オレンジ農園『サン・ガブリエル・リバー・ランチ』での過酷な日の出から日没までの労働へと戻った。
本来、日系人は「ボス (請負師)」の下で働くのが通例だが、近場であるという理由だけで、作蔵は代替わりして反日感情が強まったという農場へ向かった。
そこは、かつて夫婦で働いた思い出の場所でもあったからだ。一太郎は止めに入るが、作蔵は笑って聞き入れなかった。
その日は、一九一〇年の年明けを前にした、砂漠から灼熱の熱気を運ぶサンタアナ風による記録的な猛暑の日だった。
十二月中旬だというのに気温は華氏九十度 (摂氏三十二度)を超えていた。作蔵は九十 磅 (四十 粁)を超えるオレンジの籠を背負い、広大な農場を這い回った。
喉は焼け付き、心臓は狂ったように鐘を打つ。そして太陽が天頂を刺す頃、老いと疲労で骨まで削るようだった作蔵の体は、オレンジの籠を背負い直そうとした瞬間、心臓を止めた。
「おい、この出来損ないをどかせ! 収穫の邪魔だ!」
駆けつけた一太郎の耳に届いたのは、白人農場主の汚い罵声だった。
彼は、家畜を見るような蔑みの目で倒れた父を見下ろし、ポケットから汚れた二枚のコインを投げ出した。
一日中働いた日雇い労働者の賃金が一弗五十仙から二弗程度。二枚のコイン。それが、熊本から夢を抱いて二十余年、この国の土を肥やすために命を削り続けた男の「全人生の価格」だった。
一太郎は膝をつき、その屈辱の対価を震える指で拾い上げた。
大型の一弗銀貨 (モルガン・ダラー)一枚と五十仙銀貨 (バーバー・ハーフ・ダラー)が一枚。それは今しがた農場主のポケットから出されたばかりの、不快な生温かさを帯びていた。
異常なサンタアナ風が吹く数日前に「冬の嵐」による大雨が降っていた。その時の深く粘り気のある泥についた沢山の足跡が乾いて、今も働く農業労働者達に踏み躙られて崩れている。
乾いて表面にヒビが入り始めた足跡に転がった一弗銀貨には、自由の女神が描かれて「LIBERTY (自由)」と刻まれていた。
その銀の円盤は、父を家畜のごとく見下した男の体温を宿したまま、鈍い光を放つ。
指先から伝わるその厚かましい温度が、父の命を端金で買い叩いた事実を突きつけ、一太郎の脳を怒りで焼き尽くした。
その瞬間、彼の脳内で何かが爆ぜた。
二〇二六年から逆流してくるような「未来の記憶」と、異世界で会得した物質の理を組み替える『錬金術』のスキル。二つの『世界』が、一九〇九年の絶望と衝突し、青白い閃光を放った。
農場主が投げ捨てた銀貨の生温かさは、一太郎の掌で冷たい怒りに変わっていた。
一太郎は、もはや動かなくなった父の傍らに膝をついた。周囲の白人労働者たちは、忌々しげに唾を吐いて立ち去っていく。
請負制の日本人労働者は、農作業、道路・鉄道工事など未熟練な一般作業では「安くて管理が容易で、仕事が早い」と、「出来高払い」で白人の浮浪労働者「ホーボー」を上回り、彼らの憎悪の的になっている。
収穫期だけ雇われるメキシコ人・中国人・フィリピン人などの非白人労働者は、関わりを恐れるように黙々と働いていた。
自家の馬も、荷馬車も、母の最期の数ヶ月を繋ぎ止めるためにとっくに二束三文で売り払っていた。この広い農場から、父の骸むくろを運ぶ手段は何もない。
「……一太郎さん、これを使え」
声をかけてきたのは、同じ現場で働いていた日系移民の老人、後藤だった。
彼は農場主の目を盗み、本来は収穫物であるオレンジを運ぶための粗末な手押し一輪車 (ウッド・バロウ)を差し出した。
だが、それは人間を運ぶためのものではなく、汚れた土や肥料を運ぶためのガタのきた木箱だった。
一太郎は無言で頭を下げ、父の痩せ細った体を抱き上げた。
かつては自分を肩車してくれた、岩のように頑強だった父。それが、今やオレンジの一籠よりも軽く感じられる。
父を一輪車に乗せ、一太郎は歩き出した。
農場からの未舗装の路面はサンタアナの熱風でひび割れ、一輪車が跳ねるたびに、父の力なく垂れた腕が揺れた。
通り過ぎる白人たちの馬車が、砂埃を巻き上げて彼らを追い抜いていく。
豪華な馬車に乗った着飾った女が、一輪車で死体を運ぶ東洋人の若者を、汚物を見るような目で一瞥した。
大学で学んだ「力学」や「工学」は何の役にも立たなかった。
ただ、一輪車の木製の取っ手を握る指先に、二〇二六年と異世界の記憶が、どろりとした黒い熱となって溶け出していく。
「……大学には戻らないよ、父さん。……向こうに行ったら、母さんには代わりに謝ってくれないか。俺は、あんたたちがこの国の土に埋めた人生を、誰にも汚せない輝く光に変えてみせる」
二、三マイルの道のりを経て、ようやく煤けた小屋へ辿り着いた時、一輪車の車軸は悲鳴を上げていた。
家業の手伝いと、今では「何でも屋」の重労働で鍛え上げられた一太郎の掌は、岩のように硬いタコで覆われている。並の作業で悲鳴を上げるような手ではない。
だが、父の亡骸と絶望を乗せた一輪車の取っ手は、その硬い皮すらも容赦なく削り取っていくようだった。
一九〇九年十二月中旬。吹き荒れる熱風の中、父を運んだ汚れた一輪車の軋みこそが、イチタロウの第二の人生の転換となる長く激しい序奏だった。
吹き荒れる熱風の中、一太郎の瞳には、かつての従順な二世の面影はない。
後に世界中の王侯貴族がその銘を欲し、鉄鋼の歴史を塗り替えることとなる巨星――『ISC (イトウ・スチール・カムパニー)』の創業者が、復讐と野望の産声を上げた瞬間だった。




