第9話 名前
答えを聞くのが怖かった。
疫病の対応は四日目に入り、峠を越えた。東地区の井戸は浄化が完了し、新規の罹患者は三日間ゼロ。重篤だった高齢者二名も回復に向かっている。ハンスが自信をつけ始めたのが見て取れた。もう少しで、私がいなくても回せるようになる。
午後、ルシアンから伝言があった。書庫で待っている、と。
昨日の続きだ。署名できなかった理由を話す、と言った。
書庫に向かう足が重い。廊下の窓から差す午後の光が、やけに眩しかった。
◇
書庫のドアを開けると、ルシアンが窓際に立っていた。振り返らない。外を見ている。昨日よりは顔色がいい。少し眠れたのだろうか。
「お待たせしました」
「……座ってくれ」
テーブルを挟んで向かい合った。テーブルの上には何もない。昨日あった記録帳も離婚届も片付けられている。
ルシアンが口を開いた。
「イザベラのことを、話す」
来た。覚悟していた言葉だったのに、それでも肋骨のあたりが軋む感覚がした。
「あの夜、寝言で名を呼んだことは、覚えていない。だが、否定はしない。あの頃の俺は、まだイザベラのことを……完全には」
言葉を探している。ルシアンにとって感情を言語化することは、剣で縫い物をするようなものなのだろう。道具が合っていない。
「結婚する前から、イザベラは幼馴染だった。初恋だった。身分の違いで結ばれないと分かっていて、それでも割り切れない部分があった。お前と結婚してからも、正直に言えば、あった」
「知っています」
「……すまなかった」
「謝罪を聞きたいのではありません」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。穏やかなまま。震えてもいない。
「なぜ署名できなかったのか。それだけを聞かせてください」
ルシアンが初めて、まっすぐに私を見た。逃げない目だった。
「イザベラとは、お前が去った後に話した。距離を置くことを、俺から伝えた」
「……なぜ」
「離婚届を見た時に気づいた。俺が失いたくないのは、イザベラではなかった」
喉の奥が詰まった。
「あの紙を見た瞬間、頭が真っ白になった。それまで考えたこともなかった。お前がいなくなる可能性など、当たり前にここにいると思っていた。朝の薬草茶も、庭の緑も、書斎から聞こえるペンの音も。全部、当たり前だと」
「それは……」
「当たり前ではなかった。全部、お前が作っていたものだった。お前が去って初めて分かった。屋敷が静かすぎた。薬草茶がなかった。庭が、少しずつ、色を失っていくのが見えた」
ルシアンの声が、少し揺れた。この人の声が揺れるのを聞いたのは初めてだった。
「署名できなかった理由は、お前を失うことが怖かった。それだけだ。言葉にすれば、たったそれだけのことだ。なのに、あの時の俺にはその言葉がなかった」
「……言葉がなかった」
「ああ。お前に向ける言葉を、俺は持っていなかった。『領地に必要だ』と言った。本当は違う。そうじゃない。けれど、それ以外の言い方を、知らなかった」
テーブルの上に置いた自分の手を見つめた。治癒魔法で何百人もの命を救ってきた手。けれど今、この手は何もできない。ルシアンの言葉を、ただ受け止めることしかできない。
「名前を、呼んでほしかった」
ルシアンが言った。
え、と思った。その台詞を言うのは、私のほうではないのか。
「三年間、お前の名前を呼べなかった」
「呼べなかった……?」
「呼ぼうとした。何度も。だが、名前を呼んだ瞬間に、お前が特別になることが、怖かった。特別になったら、失った時に立ち直れなくなる。だから、公爵夫人と呼んだ。奥方と呼んだ。肩書きの後ろに隠れていた」
耳の後ろが冷たくなった。いいえ、それは正確ではない。冷たくなったのは耳の後ろだけではない。胸の奥から、何か大きなものが込み上げてきて、喉の奥でぶつかっている。
「ずるい」
喉の奥が裂けたような声だった。
「今さら、そんなこと。三年間、一度も。一度も名前を呼んでくれなかったのに。頑張ってるねって、たった一言が、たった一言でよかったのに。薬草茶に気づきもしなかった。隣の部屋にいたのに。ドアの前まで来て引き返すだけだった。毎晩。毎晩聞いてた、あの足音」
「……ああ」
「なのに今さら、今さら」
「すまなかった」
「謝罪じゃなくて——!」
叫びかけて、口を押さえた。
涙が落ちた。止まらなかった。とうに枯れたはずなのに。人間の体はどこにこれだけの水を隠しているのだろう。
ルシアンが立ち上がった。テーブルを回って、私の前に立った。
「エレノア」
初めてだった。三年間で初めて、あの人が私の名前を呼んだ。
「エレノア。俺が間違っていた。全部」
視界がにじむ。ルシアンの顔が歪んで見える。涙のせいで。
差し出された手が見えた。節くれだった大きな手。あの日、インクの染みがついていた手。
取らなかった。
取れなかった、のではない。取らなかった。
「元に戻ることは、できません」
涙声で言った。震えていた。格好悪い。公爵夫人の微笑みなんて、もうどこにもない。
ルシアンの手が、宙に浮いたまま止まった。
「三年間の沈黙は、なかったことにはならない。あなたが言葉を持たなかったこと、私が笑顔の裏で泣いていたこと。全部、起きたことです」
「……ああ」
「でも」
息を吸った。深く。肺の底まで。
「始め直すことは、できるかもしれない」
ルシアンが目を見開いた。
「最初から。もう一度。名前を呼ぶところから」
差し出されたままの手を見た。取るか取らないか、まだ決められない。でも、払いのけはしなかった。
窓から差す夕日が、書庫の中をオレンジ色に染めていた。
あの薬草園から見える夕日と、同じ色だった。
◇
書庫を出た後、庭に出た。
一人になりたかった。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
薬草園に向かうつもりで、また反対方向に歩いていた。気づいた時には、見覚えのない東棟の裏庭にいた。秋の花が咲いている。名前の分からない白い花。
三年間住んでいて、この庭の存在を知らなかった。方向音痴もここまで来ると才能だと思う。
白い花の傍にしゃがみ込んだ。
(始め直す、と言った)
言ってしまった。自分でも計画していなかった言葉だ。「元に戻れない」まではずっと考えていた。けれど「始め直せるかもしれない」は、あの瞬間、口から勝手に出た。
正しかったのだろうか。分からない。
ルシアンの告白は、三年遅かった。三年早ければ、何もかも違っていた。寝言を聞いた夜に「すまなかった」と言ってくれたら。薬草茶を飲んだ朝に「美味いな」と一言添えてくれたら。ドアの前で引き返さずにノックしてくれたら。
でも、遅かったから意味がないのだろうか。
遅くても、言われなかったよりはましだ。ずっと。
ルシアンがイザベラとの関係を自分から清算したと言った。それは、信じていいのだろうか。信じたい。信じたいと思っている自分がいる。
白い花に手を伸ばした。触れると、花弁が冷たかった。秋の花はもうすぐ散る。
(私は、あの人を許すのだろうか)
分からない。今はまだ分からない。許すとか許さないとか、そういう大きな話ではなく。ただ、もう一度隣に立ってみて、それでどう感じるかを、確かめたいと思っている。
それだけだ。今は、それだけ。
立ち上がった。薬草園に行こう。今度こそ正しい方向に。
迷った。やっぱり迷った。
最終的にマルタに発見された。「奥様、今日はどちらまで冒険を?」と笑う彼女の顔を見て、少しだけ泣きそうになった。泣かなかった。
「マルタ。私、もう少しだけこの屋敷にいるかもしれない」
「……本当ですか」
「治癒師として。疫病が完全に収まるまで」
「もちろんです。お部屋はいつでもお待ちしております」
あの時と同じ言葉。でも今は、受け取り方が少し違う。
「ありがとう。でも、宿に泊まります」
「まあ」
「まだ、帰ってきたわけではないから」
マルタは少し寂しそうな顔をして、すぐにいつもの柔らかい笑顔に戻った。
「では、せめてお食事だけでも。料理長が張り切りますよ」
断れなかった。断る理由もなかった。
マルタと並んで廊下を歩く。この人の隣では道に迷わない。三年間ずっとそうだった。




