第8話 二百人の記録
疫病の正体は、三年前に私が予防体制を作った感染症の変異型だった。
東地区の第二井戸の水を分析した時点で、ほぼ確信していた。症状のパターン、感染経路、潜伏期間。すべてが記録と一致する。ただし変異によって発熱がより高く、発疹の範囲が広い。従来の煎じ薬だけでは抑えきれない。
治癒魔法を併用する必要がある。それも、かなりの魔力量を。
朝から晩まで、東地区を回った。罹患者の家を一軒ずつ訪ね、治癒の光を当て、煎じ薬を処方し、井戸水の代替として浄化した水を配る。ハンスと二人で分担しても、一日では回りきれない。
二日目の夕方、重篤だった高齢者の一人の熱がようやく下がった。もう一人も、峠は越えたとフレデリクが判断した。
屋敷に報告に行った時のことだ。
◇
ルシアンの執務室の前で、フレデリクとすれ違った。
老医師は私に目配せをして、小さな声で言った。
「書庫を見てきなさい。旦那様が、あなたの記録帳を読んでおられた」
「……記録帳?」
「引き継ぎの時にハンスに渡した四冊。旦那様がハンスから借り出されたようだ」
治療記録帳。三年間の記録。患者の名前、症状、処置、経過。一日も欠かさずつけてきた、私のすべて。
書庫に向かった。
重い扉を開けると、長いテーブルの上に記録帳が広げられていた。四冊すべて。そして、その横に、ルシアンが座っていた。
記録帳の最後のページを開いている。
私が入ったことに気づき、顔を上げた。
その目が、赤かった。泣いていたのではない。泣けなかったのだ。泣き方を知らない人間が感情を持て余した時の、あの充血した目。
「……これを、お前が」
「治療記録です。日々の業務の記録ですので……」
「二百十三名」
遮られた。
「三年間で、二百十三名。お前が治癒した人数だ。数えた」
数えたのか。この人が。あの記録帳の全ページを読んで、一人ずつ数えたのか。
「乳児の黄疸、農夫の骨折、老婦の慢性痛。全部書いてある。全部、俺の知らないことだった」
声が低い。いつもの簡潔さがない。言葉を探しているのが分かった。ルシアンがこんなに多くの言葉を一度に発するのを、三年間で初めて聞いた。
「知らなかった。お前が毎日何をしていたか。何人の命を救っていたか。俺は……何も」
「知ってほしかったわけじゃありません」
私は言った。穏やかに。嘘ではなかった。記録は自分のためにつけていた。誰かに見せるためではなく、治癒師としての自分を保つために。
嘘ではなかった。けれど、本当でもなかった。
一度でもいいから、あの人が記録帳を手に取って、「お前はこんなに頑張っていたのか」と言ってくれたら。そんな想像を、何度したか分からない。
「二百十三名」
ルシアンがもう一度、繰り返した。まるで数字の重さを確かめるように。
「それだけの命を守っていた人間を、俺は『領地に必要だ』の一言で……」
言葉が切れた。ルシアンが記録帳を閉じ、表紙に手を置いた。
沈黙が落ちた。
◇
その沈黙の中で、ルシアンが引き出しから一枚の紙を取り出した。
見覚えがあった。
白紙の離婚届。
「これを、ずっと持っていたのですか」
「……執務室の、引き出しに」
裏返してテーブルに置いた。
文字があった。
裏面に。何度も書いて、何度も消した痕跡。インクと消し跡が幾重にも重なっている。消しきれなかった文字の欠片が、かろうじて読める。
『行か——で——』
『——ないで——れ』
行かないでくれ。
そう書こうとして、何度も消したのだ。
鼻の奥がつんとした。
「あの日、離婚届を受け取った後、裏に書いた」
ルシアンの声は掠れていた。
「行かないでくれ、と。書いた。だが消した。そんなことを言う資格がないと思ったから。お前に何もしてやれなかった男が、今さら行くなと……」
「やめてください」
声の輪郭が崩れた。抑えようとしたが、抑えられなかった。
「今さら、そんなこと」
「分かっている。今さらだ」
「なら……」
「だが、それでも言わなければならなかったと、今は分かる」
記録帳に手を置いたまま、ルシアンが私を見た。まっすぐに。あの結婚初日の夜、子供を治癒した私を見た目と同じ。いいえ、違う。あの時より、ずっと苦しそうな目だった。
「冬の薬を、多めに作っていただろう」
心臓が跳ねた。
「薬品庫の棚を確認した。例年の倍量が並んでいた。出発の前に……お前が」
「……あれは、業務の一環です」
「嘘だ。倍量を作る業務上の理由がない。お前が、俺のために……」
「違います」
「……去り際に」
声が重なった。二人同時に口を開いて、二人同時に黙った。
テーブルの上に、四冊の記録帳と、白紙の離婚届がある。三年間の沈黙の証拠品が並んでいる。
二百十三名の命の記録。消された「行かないでくれ」。倍量の冬の薬。
全部、声にしなかったものだ。全部、相手に届けなかったものだ。
治癒魔法の光が指先から漏れていた。気づかなかった。金色の光が不安定に揺れている。今の私の心をそのまま映している。
「あなたは、なぜ署名できなかったのですか」
ようやく聞いた。あの日、聞けなかった問いを。
ルシアンは答えなかった。すぐには。
長い沈黙の後、立ち上がり、窓に向かった。外は暗い。窓ガラスに二人の姿が映っている。
「明日、話す。今は、疫病が先だ」
「……ええ。そうですね」
治癒師としての私が、同意した。感情より仕事を優先する。それは正しい。三年間ずっとそうしてきた。
けれど今夜、白紙の離婚届の裏面の、消された文字の残像が、まぶたの裏にこびりついて離れなかった。
行かないでくれ。
行かないでくれ、と。あの人は書いた。
それを私は、三年間、知らなかった。
◇
宿屋に戻った。
ベッドに座って、両手を膝の上に置いた。治癒魔法の光はもう消えている。指先だけが、まだ微かに温かい。
冬の薬に気づいていた。
あの瓶を並べた時、これが最後だと思って丁寧にラベルを書いた。ルシアンの喉が弱いことを知っているのは、この領地では私だけだった。後任のハンスには伝えていない。伝えるべきだったのかもしれない。けれど、あの薬だけは、あれだけは、引き継ぎの範囲外にしたかった。
妻としての最後の、ささやかな我がままだった。
それに気づいてくれた。
嬉しい、と思った。同時に、悔しい、と思った。三年前に気づいてほしかった。三年間、毎朝の薬草茶の調合を変えるたびに、気温が下がった日には暖かい配合にしているのに、一度も気づかなかったあの人が、去った後になって、ようやく。
枕に顔を埋めた。泣きはしなかった。涙はもう、あの宿屋の夜に使い果たした気がする。
代わりに、ぐるぐると考えた。
離婚届の裏面の文字。何度も書いて、何度も消した「行かないでくれ」。あの人の手が、ペンを握って震えている姿を想像した。表面のインクの染みは、署名しようとして止まった跡だった。裏面の消された文字は、言いたくて言えなかった言葉の残骸だ。
表も裏も、あの人の言葉にならなかった感情で埋まっている。
白紙だと思っていた。何も書かれていないのだと。
白紙なんかじゃなかった。
あの離婚届は、あの人の沈黙そのものだった。
明日、ルシアンが話すと言った。署名できなかった理由を。三年間の沈黙の理由を。
聞きたい。聞きたくない。聞いてしまったら、もう、冷静ではいられない。
治癒師としての冷静さを保っていられるのは、感情に蓋をしているからだ。その蓋を、あの人が開けようとしている。
窓の外に、北の空のレグルスが見えた。
この宿からは見えるのだ。あの屋敷と同じ星が。




