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白紙の離婚届  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話 二百人の記録

 疫病の正体は、三年前に私が予防体制を作った感染症の変異型だった。


 東地区の第二井戸の水を分析した時点で、ほぼ確信していた。症状のパターン、感染経路、潜伏期間。すべてが記録と一致する。ただし変異によって発熱がより高く、発疹の範囲が広い。従来の煎じ薬だけでは抑えきれない。


 治癒魔法を併用する必要がある。それも、かなりの魔力量を。


 朝から晩まで、東地区を回った。罹患者の家を一軒ずつ訪ね、治癒の光を当て、煎じ薬を処方し、井戸水の代替として浄化した水を配る。ハンスと二人で分担しても、一日では回りきれない。


 二日目の夕方、重篤だった高齢者の一人の熱がようやく下がった。もう一人も、峠は越えたとフレデリクが判断した。


 屋敷に報告に行った時のことだ。



 ルシアンの執務室の前で、フレデリクとすれ違った。


 老医師は私に目配せをして、小さな声で言った。


「書庫を見てきなさい。旦那様が、あなたの記録帳を読んでおられた」


「……記録帳?」


「引き継ぎの時にハンスに渡した四冊。旦那様がハンスから借り出されたようだ」


 治療記録帳。三年間の記録。患者の名前、症状、処置、経過。一日も欠かさずつけてきた、私のすべて。


 書庫に向かった。


 重い扉を開けると、長いテーブルの上に記録帳が広げられていた。四冊すべて。そして、その横に、ルシアンが座っていた。


 記録帳の最後のページを開いている。


 私が入ったことに気づき、顔を上げた。


 その目が、赤かった。泣いていたのではない。泣けなかったのだ。泣き方を知らない人間が感情を持て余した時の、あの充血した目。


「……これを、お前が」


「治療記録です。日々の業務の記録ですので……」


「二百十三名」


 遮られた。


「三年間で、二百十三名。お前が治癒した人数だ。数えた」


 数えたのか。この人が。あの記録帳の全ページを読んで、一人ずつ数えたのか。


「乳児の黄疸、農夫の骨折、老婦の慢性痛。全部書いてある。全部、俺の知らないことだった」


 声が低い。いつもの簡潔さがない。言葉を探しているのが分かった。ルシアンがこんなに多くの言葉を一度に発するのを、三年間で初めて聞いた。


「知らなかった。お前が毎日何をしていたか。何人の命を救っていたか。俺は……何も」


「知ってほしかったわけじゃありません」


 私は言った。穏やかに。嘘ではなかった。記録は自分のためにつけていた。誰かに見せるためではなく、治癒師としての自分を保つために。


 嘘ではなかった。けれど、本当でもなかった。


 一度でもいいから、あの人が記録帳を手に取って、「お前はこんなに頑張っていたのか」と言ってくれたら。そんな想像を、何度したか分からない。


「二百十三名」


 ルシアンがもう一度、繰り返した。まるで数字の重さを確かめるように。


「それだけの命を守っていた人間を、俺は『領地に必要だ』の一言で……」


 言葉が切れた。ルシアンが記録帳を閉じ、表紙に手を置いた。


 沈黙が落ちた。



 その沈黙の中で、ルシアンが引き出しから一枚の紙を取り出した。


 見覚えがあった。


 白紙の離婚届。


「これを、ずっと持っていたのですか」


「……執務室の、引き出しに」


 裏返してテーブルに置いた。


 文字があった。


 裏面に。何度も書いて、何度も消した痕跡。インクと消し跡が幾重にも重なっている。消しきれなかった文字の欠片が、かろうじて読める。


『行か——で——』

『——ないで——れ』


 行かないでくれ。


 そう書こうとして、何度も消したのだ。


 鼻の奥がつんとした。


「あの日、離婚届を受け取った後、裏に書いた」


 ルシアンの声は掠れていた。


「行かないでくれ、と。書いた。だが消した。そんなことを言う資格がないと思ったから。お前に何もしてやれなかった男が、今さら行くなと……」


「やめてください」


 声の輪郭が崩れた。抑えようとしたが、抑えられなかった。


「今さら、そんなこと」


「分かっている。今さらだ」


「なら……」


「だが、それでも言わなければならなかったと、今は分かる」


 記録帳に手を置いたまま、ルシアンが私を見た。まっすぐに。あの結婚初日の夜、子供を治癒した私を見た目と同じ。いいえ、違う。あの時より、ずっと苦しそうな目だった。


「冬の薬を、多めに作っていただろう」


 心臓が跳ねた。


「薬品庫の棚を確認した。例年の倍量が並んでいた。出発の前に……お前が」


「……あれは、業務の一環です」


「嘘だ。倍量を作る業務上の理由がない。お前が、俺のために……」


「違います」


「……去り際に」


 声が重なった。二人同時に口を開いて、二人同時に黙った。


 テーブルの上に、四冊の記録帳と、白紙の離婚届がある。三年間の沈黙の証拠品が並んでいる。


 二百十三名の命の記録。消された「行かないでくれ」。倍量の冬の薬。


 全部、声にしなかったものだ。全部、相手に届けなかったものだ。


 治癒魔法の光が指先から漏れていた。気づかなかった。金色の光が不安定に揺れている。今の私の心をそのまま映している。


「あなたは、なぜ署名できなかったのですか」


 ようやく聞いた。あの日、聞けなかった問いを。


 ルシアンは答えなかった。すぐには。


 長い沈黙の後、立ち上がり、窓に向かった。外は暗い。窓ガラスに二人の姿が映っている。


「明日、話す。今は、疫病が先だ」


「……ええ。そうですね」


 治癒師としての私が、同意した。感情より仕事を優先する。それは正しい。三年間ずっとそうしてきた。


 けれど今夜、白紙の離婚届の裏面の、消された文字の残像が、まぶたの裏にこびりついて離れなかった。


 行かないでくれ。


 行かないでくれ、と。あの人は書いた。


 それを私は、三年間、知らなかった。



 宿屋に戻った。


 ベッドに座って、両手を膝の上に置いた。治癒魔法の光はもう消えている。指先だけが、まだ微かに温かい。


 冬の薬に気づいていた。


 あの瓶を並べた時、これが最後だと思って丁寧にラベルを書いた。ルシアンの喉が弱いことを知っているのは、この領地では私だけだった。後任のハンスには伝えていない。伝えるべきだったのかもしれない。けれど、あの薬だけは、あれだけは、引き継ぎの範囲外にしたかった。


 妻としての最後の、ささやかな我がままだった。


 それに気づいてくれた。


 嬉しい、と思った。同時に、悔しい、と思った。三年前に気づいてほしかった。三年間、毎朝の薬草茶の調合を変えるたびに、気温が下がった日には暖かい配合にしているのに、一度も気づかなかったあの人が、去った後になって、ようやく。


 枕に顔を埋めた。泣きはしなかった。涙はもう、あの宿屋の夜に使い果たした気がする。


 代わりに、ぐるぐると考えた。


 離婚届の裏面の文字。何度も書いて、何度も消した「行かないでくれ」。あの人の手が、ペンを握って震えている姿を想像した。表面のインクの染みは、署名しようとして止まった跡だった。裏面の消された文字は、言いたくて言えなかった言葉の残骸だ。


 表も裏も、あの人の言葉にならなかった感情で埋まっている。


 白紙だと思っていた。何も書かれていないのだと。


 白紙なんかじゃなかった。


 あの離婚届は、あの人の沈黙そのものだった。


 明日、ルシアンが話すと言った。署名できなかった理由を。三年間の沈黙の理由を。


 聞きたい。聞きたくない。聞いてしまったら、もう、冷静ではいられない。


 治癒師としての冷静さを保っていられるのは、感情に蓋をしているからだ。その蓋を、あの人が開けようとしている。


 窓の外に、北の空のレグルスが見えた。


 この宿からは見えるのだ。あの屋敷と同じ星が。

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