第7話 義務と矜持
報せを聞いた夜、眠れなかった。
正確には、眠れないのではなく、眠る気になれなかった。ギルドからの報告書を何度も読み返した。罹患者は三十名を超えている。高熱、激しい咳、発疹。死者はまだ出ていないが、高齢者や幼児への感染が確認されれば一気に深刻化する。
ハンスの報告によれば、井戸水の浄化が追いつかず、東地区の三ヶ所の井戸で水質悪化が確認された。私が作った巡回スケジュールが守られていないのか、それとも守ろうとしたが間に合わなかったのか。
どちらにしても、根本の原因は分かっている。秋の雨季に入ると地下水脈の流れが変わり、東地区の井戸は汚染されやすくなる。毎年この時期に重点的な浄化をしていたが、ハンスはその「毎年の癖」を知らない。資料には書いた。けれど資料に書ける情報と、体で覚えた勘は違う。
ヴァレスティアまでの道のりを、地図で確認した。三日間の馬車旅。ギルドが護衛の騎士を一名つけてくれる。
三日あれば到着できる。着いたら、まず東地区の井戸を確認する。水質検査。汚染源の特定。浄化の実施。並行して罹患者の治療に当たる。初動が早ければ、二週間で収束させられる。
頭の中で計画を組み立てていく。これは得意だ。ヴァレスティアの衛生管理体制を一から構築した時と同じ。問題を分析し、対策を立て、手順を組む。
冷静だ。治癒師としての私は冷静だ。
けれど。
計画の中に「ルシアンと会う」という項目が、どこにも入っていない。入れられなかった。
◇
出発して二日目の午後、問題が起きた。
街道の分岐点で、私は右に曲がった。
護衛の騎士、ヴァレスティア領から派遣されたトーマスという若い男が、馬を止めた。
「エレノア先生。ヴァレスティアはそちらではなく、左です」
「……ええ、分かっていました。少し確認したいことがあって」
「いえ、完全に反対方向です。このまま行くとフォルテーヌ伯爵領に入ります」
方向音痴。三年経っても、いや三年経ったからこそ、見知らぬ街道では致命的だ。地図は読める。地図の通りに進むつもりで、なぜか逆に行く。頭と足が連動しない。
「トーマス殿。内密にしていただけると」
「はい。……旦那様も先生のご方向の件はご存知でしたので」
知っていたのか。ルシアンが。
「旦那様が、『エレノア先生が分岐点で間違える可能性がある。注意して案内せよ』と」
何とも言えない気持ちになった。方向音痴を把握されている恥ずかしさと、それを覚えていてくれたこと。いいえ、それを人にまで伝達していたという事実への、複雑な感情。
「……参りましょう。左ですね」
「左です」
馬車の向きを直して、正しい道を進んだ。
窓の外の景色が、見覚えのあるものに変わっていく。なだらかな丘陵。麦畑の向こうに見える森の稜線。この景色を三年間、毎日見ていた。
◇
ヴァレスティア領の門が見えた時、日は傾きかけていた。
秋の西日がオレンジ色に門を染めている。見慣れた石造りの門。けれど空気が違った。門番の顔に緊張がある。普段なら領民が行き交う街道が、人気がない。
馬車が門をくぐる。
門の内側に、人が立っていた。
背の高い影。逆光で顔が見えない。けれど、その立ち姿は一目で分かった。三年間見つめてきた背中だ。肩の線、腕の長さ、足の開き方。
馬車が止まった。
扉が開く。
ルシアンが立っていた。
顔を見た瞬間、奥歯の裏側が痺れた。
痩せていた。頬の線が鋭くなっている。目の下に影がある。普段は完璧に整えられている髪が少し乱れていた。
(こんな顔、見たことがない)
ルシアンは私を見た。一瞬、唇が動いた。何か言いかけて、飲み込んだ。
「……来て、くれたのか」
低い声。掠れていた。何日も眠れていないのが分かる声だ。
「治癒師ギルドからの派遣です」
私は答えた。穏やかに。公爵夫人の微笑みではなく、治癒師としての落ち着いた表情で。
「状況を教えてください。罹患者の数、症状の進行、井戸水の検査結果。ハンス殿はどちらに」
ルシアンの目が、一瞬だけ揺れた。私が公爵夫人としてではなく治癒師として来たことを、その口調から察したのだろう。
「……ハンスは東地区で治療に当たっている。罹患者は昨日時点で四十二名。死者はまだいないが、高齢者二名が重篤だ」
「四十二名。東地区に集中していますか」
「ああ。ほぼ東地区の井戸を使う住民だ」
やはり井戸だ。想定通り。秋の雨季に水脈が変わり、東地区の井戸が汚染された。この時期の水質変化は三年間のデータで予測できていたが、ハンスには経験がない。
「案内してください。まず井戸を見ます」
「今からか。日が暮れる」
「暗くても井戸水は調べられます。治癒魔法の光がありますから」
ルシアンが頷いた。馬を引いてきて、こちらに手綱を渡す。
その時、手が触れた。一瞬だけ。指先と指先が重なる、ほんのわずかな接触。
触れた場所が、しばらく温かいままだった。
気のせいだ。
馬に乗った。ルシアンが先を行く。東地区への道は覚えている。覚えている、はずだ。
覚えていた。方向音痴の私が、この道だけは迷わなかった。三年間、何百回と通った道だから。
体が覚えている。この領地のことを、私の体はまだ覚えている。
秋の夕暮れの中を、二人で馬を走らせた。
会話はなかった。言葉の代わりに、蹄の音だけが街道に響いている。三年間と同じだ。隣にいて、言葉がない。
けれど今は、今だけは、その沈黙が苦しくなかった。
◇
東地区に着いた頃には、空は紺色に変わっていた。
井戸の前にしゃがみ、手のひらに治癒魔法の光を灯した。水面に金色が映る。水を掬い、匂いを確かめ、光を当てて濁りを診た。
予想通りだ。雨季に地下水脈の流れが北に偏る現象。これは地表からは見えない。三年間のデータがなければ予測できない。ハンスを責めるのは酷だ。
「汚染源は特定できました。東地区の第二井戸と第五井戸が中心です。明日の朝から浄化を始めます。三日で飲料水の安全を確保できるはずです」
ルシアンが頷いた。
「罹患者の治療はハンス殿と分担します。重篤な二名は私が直接診ます。軽症者には煎じ薬で対応。薬草の在庫は……」
「足りない」
「でしょうね。私が持ってきた分で補えます。それと、薬草園のタチジャコウソウはまだ残っていますか」
「分からない。ハンスに聞く」
「ええ、お願いします」
てきぱきと計画を詰めていく。治癒師としての私と、領主としてのルシアン。仕事の話なら、私たちは噛み合う。三年間ずっとそうだった。仕事の歯車としては完璧に回っていた。
ルシアンが井戸の縁に手をついて、暗い水面を見下ろした。
「三年間、これをお前が一人で……」
「一人ではありません。フレデリク先生や使用人の皆さんの協力がありました」
「そうではない。なぜ俺は、知らなかったのだ」
答えなかった。答える必要がないと思った。知ろうとしなかったから知らなかったのだ。それ以上でも以下でもない。
でもそれを口にするのは、今は違う。今は治癒師の仕事をする時だ。
「明日の朝、日の出とともに始めましょう。私は宿を取ります」
「屋敷に部屋を用意させた」
「いえ。ギルドの規定で、派遣先では独立した宿を取ることになっています」
嘘だ。そんな規定はない。けれどあの屋敷のベッドで眠ることは、もうできない。
ルシアンは何も言わなかった。ただ、少しだけ肩が落ちたように見えた。見えただけかもしれない。暗くて、よく分からなかった。
「では、明朝。東地区の第二井戸の前で」
「……ああ」
背を向けて歩き出した。村の宿屋へ向かう道を歩く。こちらは覚えていた。
背中にルシアンの視線を感じたが、振り返らなかった。




