第6話 治癒師エレノア
治癒師ギルドの受付は、思ったより狭かった。
王都の大通りから一本入った路地の奥。古い石造りの建物で、看板には「王国治癒師ギルド本部」と刻まれているが、文字が半分かすれている。王都の華やかさとは無縁の、実務的な場所だった。
受付の女性は、私が差し出した推薦状を読み、それからもう一度読み直した。
「ロレーヌ辺境伯令嬢……いえ、ヴァレスティア公爵夫人のエレノア様でいらっしゃいますか」
「エレノア・ロレーヌです。公爵夫人の肩書きは使いません」
「は……はあ。失礼ですが、フレデリク・ヴァイス先生の推薦状をお持ちとのことですが、あのフレデリク先生ですか。王都病院の元主任治癒師の」
「ええ。私の師にあたる方です」
受付の女性の目の色が変わった。フレデリクの名前には、治癒師の世界では相当の重みがあるらしい。現役時代、王宮の治癒を一手に担い、引退後にヴァレスティア家の侍医に就いた伝説的な治癒師だ。
その人の推薦状。紙一枚の重さが、今の私にはありがたかった。
「登録の手続きを進めさせていただきます。ギルド名は……」
「エレノアで」
ただの名前。姓もつけない。家名に依存しない登録。受付の女性が少し驚いた顔をしたが、何も言わずに書き留めた。
登録用紙の署名欄にペンを走らせた。「エレノア」。四文字。自分の名前を書くだけなのに、指先が妙に温かかった。
離婚届の署名欄は、白紙のままだ。けれどこの署名欄には、自分の意志で名前を書いた。
(これが、新しい始まりだ)
◇
ギルドに登録して三日後。最初の依頼が来た。
王都から馬車で半日ほどの小さな農村。秋の収穫期に流行する胃腸の疫病の対応だった。大した病ではない。適切な薬草と浄水処理、それに軽い治癒魔法で十分対処できる。
村に着くと、村長が出迎えてくれた。初老の農夫で、日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。
「ギルドから治癒師の先生が来てくれるとは、ありがたいことです。こんな小さな村にまで」
「エレノアと申します。よろしくお願いいたします」
「エレノア先生。どうぞ、こちらへ」
先生。
エレノア先生。
名前を呼ばれた。肩書きではなく、名前で。「奥様」でも「公爵夫人」でもない。エレノアという名前に「先生」がついている。
胸の奥がじわりと温かくなった。これが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
村の診療は、二日かけて行った。
井戸水を調べ、汚染源を特定し、浄化の手順を村人に教えた。ヴァレスティアでやっていたことと同じだ。ただし今回は「公爵夫人の務め」ではなく「治癒師の仕事」として。この違いが、不思議なほど心を軽くした。
子供たちが集まってきた。治癒魔法の金色の光を珍しがって、目を丸くしている。
「先生、その光きれい!」
「ありがとう。元気になったら、もっときれいに光るわよ」
笑った。あの微笑みではない。口角の位置も目元の角度も計算していない、ただの笑顔だった。いつからこんな風に笑えなくなっていたのだろう。
治癒の光が、手のひらの上で安定して輝いている。揺れていない。宿屋の夜に灯した弱々しい光とは違う。
(……治癒魔法は正直だ)
心が安定すれば光も安定する。この二日間で、私の心はだいぶ落ち着いたのだろう。
◇
村の仕事を終えて、宿に戻った夜。
ギルドからの伝書鳩が届いた。小さな筒に巻かれた紙を広げる。
『緊急依頼 ヴァレスティア公爵領にて原因不明の熱病が発生。罹患者多数。領地の治癒師では対応不可能との報告。ギルド所属の上級治癒師に救援を要請。
当該地域の衛生管理体制に精通した人材を優先的に派遣したい。エレノア殿の知見が必要と判断し、打診する次第。
なお、本件は依頼であり命令ではない。受諾・辞退はエレノア殿の自由意志に委ねる。
治癒師ギルド本部 事務長 マリウス・ハート』
紙を持つ手が、微かに震えた。
ヴァレスティア領。あの領地。私が三年間、井戸を浄化し、薬草を育て、子供たちの命を守ってきた場所。
原因不明の熱病。ハンスでは対処できない。
(分かっていた)
あの衛生管理体制は、マニュアルだけでは回せない。季節ごとの微妙な調整、地域ごとの水質の違い、住民の体質の傾向。三年間の蓄積がなければ、判断できないことが多すぎる。
けれど。
あの領地に戻ることは、あの人に会うことだ。
ルシアンに。
紙を畳んで、テーブルの上に置いた。椅子に座ったまま、天井を見上げた。
行くべきだろうか。
治癒師として、行くべきだ。罪のない領民が苦しんでいる。あの領地の井戸水の水質を、秋口に流行する感染症のパターンを、どの地区に高齢者が多いかを、私以上に知っている人間はいない。
けれど。
あの屋敷を出たのは、私だ。引き継ぎを終えて、別れを告げて、自分の足で出てきた。都合のいい時だけ戻るのは、自分の決断を裏切ることにならないだろうか。
あの人に、利用されるだけではないのか。
いいえ。ルシアンが私を利用しようとしたことはない。あの人はそういう人ではない。ただ、大切にする方法を知らなかっただけだ。
知らなかっただけ、で許していいのか。
窓の外は暗い。星が見えるが、知らない星座だ。ヴァレスティアの屋敷の窓からは、北の空のレグルスがいつも見えた。ここからは見えない。
テーブルの上の伝書を、もう一度開いた。
『受諾・辞退はエレノア殿の自由意志に委ねる』
自由意志。
三年間、私に自由意志はなかった。父の意向で嫁ぎ、夫の屋敷で暮らし、求められる役割を果たした。離婚届を出したのが、最初の自由意志だった。
二つ目の自由意志を、今使おうとしている。
伝書鳩の小さな筒に、返信用の紙を巻いた。
『受諾します。ただし、治癒師としての派遣です。公爵夫人としてではありません。
治癒師 エレノア』
鳩を放った。
夜空に消えていく白い翼を見送りながら、思った。
あの領地の人たちに罪はない。マルタにも、フレデリクにも、厨房の料理長にも、東地区の農家の奥さんにも、鍛冶屋の息子にも。あの人たちのために行く。
あの人のためでは、ない。
そう自分に言い聞かせた。信じたかった。
荷物を詰め直しながら、ヴァレスティアへの道のりを頭に描いた。ここからだと三日はかかる。道中で薬草の補充もしておきたい。ギルドの備蓄にあったタチジャコウソウとオオバコの乾燥品を分けてもらえれば、現地での初動が早くなる。
治療記録帳の控えを広げた。ヴァレスティア領の秋口に発生しやすい感染症のパターンを確認する。三年間のデータが頭に入っている。井戸の水質が悪化する順番、感染が広がりやすい地区、高齢者の多い集落。
この知識を持っているのは、もう私しかいない。ハンスに渡した資料だけでは、こうした経験則は伝わらない。紙に書けることと書けないことがある。
トランクの蓋を閉めた。
明日の朝、出発する。方向音痴の私がまた道に迷うかもしれないが、今度は聞ける人がいる。ギルドが護衛をつけてくれるという。一人ではない。
もう一人ではないのだと、今さらのように思った。




