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白紙の離婚届  作者: 九葉(くずは)


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第5話 帰る場所

 父の筆跡は、いつも端正だった。


 ロレーヌ辺境伯アルベルト・ロレーヌ。王国北部の守護者であり、外交の要であり、そして私の父。手紙の一画一画にまで規律が行き届いている。感情を文字に滲ませることのない、実務家の手。


 宿屋の薄暗い部屋で、その手紙を開いた。旅の二日目。ロレーヌ領まであと一日の中継地。


『エレノアへ。

 貴女の帰還は認められない。

 ヴァレスティア公爵家との婚姻は、ロレーヌ家とヴァレスティア家、そして王国北部の安全保障に関わる重要な外交契約である。貴女の個人的な感情でこれを破棄することは、ロレーヌ家の信義を損なう。

 婚家に戻り、公爵夫人としての務めを全うせよ。

              アルベルト・ロレーヌ』


 三度、読み返した。


 文字は端正だった。いつも通り。一画の乱れもない。


 私が手紙に書いた「ルシアンとの結婚を続けることが難しい」という一文を、父はどう読んだのだろう。娘が助けを求めていると。それとも、外交の失敗を告げる業務連絡として。


 答えは、手紙に書いてある。「個人的な感情」。父にとって、私の苦しみは「個人的な感情」だ。


 手紙を畳んだ。丁寧に、折り目を揃えて。


 それから、しばらく何もできなかった。


 宿屋の窓からは、小さな通りが見える。行商人が荷車を引いている。子供たちが走り回っている。犬が吠えている。当たり前の、ありふれた昼下がり。


 私にだけ、居場所がない。


 戻る場所がない。ヴァレスティアの屋敷は、もう私の家ではない。離婚届を出し、引き継ぎを終え、使用人たちに別れを告げた。戻ることはできない。いいえ、物理的には戻れる。けれど、あの食卓に座り、あの微笑みを浮かべ、名前すら呼ばれない日々に戻ることが、もうできない。


 かといって実家の門は閉ざされた。父は私を「外交資産」として送り出した。戻ってきた外交資産は不良品だ。棚に戻す場所がない。


(落ち着きなさい。落ち着いて、エレノア)


 自分に言い聞かせた。声に出さなかった。声に出したら、震えが止まらなくなりそうだったから。


 引き継ぎ資料の控えをトランクから取り出した。百八十八枚の写し。めくる。一枚目、井戸の浄化スケジュール。二枚目、薬草園の管理台帳。三枚目。


 何をしているのだろう。もう引き継いだ資料を、なぜ読み返しているのだろう。


 あの領地はもう私のものではない。あの井戸も、薬草園も、あの子供たちも。


 資料を閉じた。膝の上に置いた。指の関節が強張って、紙の端が皺になった。治癒魔法で解せるだろうか。試してみた。金色の光が手のひらに灯る。いつもより弱い。揺れている。


 治癒師の光は、術者の心の鏡だ。穏やかな心は穏やかな光を生み、揺らいだ心は揺らいだ光を生む。今の私の光は、あまりに頼りなかった。



 夜になっても眠れなかった。


 ベッドの上で天井を見つめている。ヴァレスティアの寝室の天井とは違う。木目の模様がない。


 マルタの顔が浮かんだ。


『奥様のお部屋はいつでもお待ちしております』


 出発の朝、マルタはそう言った。泣きながら。花粉のせいだと言い張りながら。


 あの人たちだけが、私を「あの家の人間」として扱ってくれた。ルシアンでもなく、父でもなく、マルタや料理長やフレデリクが、使用人たちが、私の居場所を作ってくれていた。


 なのに私は、そこを出てきた。自分で出てきたのだ。


 涙が横に流れた。仰向けだから、こめかみを伝って枕に落ちる。


 泣くな。泣くなよ、私。泣いたら終わりだ。泣いている間は、次の一歩を踏み出せない。


 だめだ。


 止まらなかった。


 三年間。三年間、笑い続けた。寝言を聞いた夜も笑った。名前を呼ばれない日々も笑った。離婚届を出す時も笑った。引き継ぎの間も笑った。マルタの前でも笑った。馬車の中でも。


 もう、笑えない。笑いたくない。誰のせいだ。ルシアンのせいか。違う。分かっている。あの人は何もしていない。何もしなかったことが罪だと言うなら、何もしなかった私も同罪だ。笑ってごまかした私も。


 声を殺して泣いた。宿屋の薄い壁の向こうに泊り客がいるから。誰にも聞かれたくなかったから。枕に顔を押しつけて、肩を震わせた。


 どれくらいそうしていたのか分からない。


 窓の外が白み始めていた。夜明け前の灰色の空。名前のない色。


 泣き疲れた頭で、ぼんやりと考えた。


 このまま途方に暮れていてもいい。宿屋の部屋で泣いていてもいい。誰も咎めない。誰も助けに来ない。


 だから、自分で立つしかないのだ。


 トランクの底から、フレデリクの推薦状を取り出した。治癒師ギルドへの推薦状。白い封筒に、老医師の丁寧な筆跡で宛名が書いてある。


『あなたの腕は、あの屋敷に閉じ込めておくには惜しい』


 フレデリクの声が蘇った。


 ヴァレスティア公爵夫人としてのエレノアは、もういない。ロレーヌ辺境伯令嬢としてのエレノアも、父に拒まれた。


 けれど。


 治癒師としてのエレノアは、まだここにいる。


 井戸の浄化ができる。薬草の調合ができる。病人を癒せる。子供の命を救える。


 それは、誰かの妻でも娘でもなく、私自身の力だ。


 ベッドから起き上がった。顔を洗った。腫れた目を治癒魔法で癒した。今度は、少し光が安定していた。完全ではないけれど。


 荷物をまとめた。行き先を変える。ロレーヌではなく、王都へ。治癒師ギルドの本部がある。


 宿を出る前に、鏡を見た。公爵夫人の微笑みは浮かべなかった。無表情でもなかった。ただ、まっすぐ前を見ている顔がそこにあった。


 帰る場所がないなら、作ればいい。


 私は治癒師だ。それだけは、誰にも奪えない。


 宿屋の主人に道を聞いた。王都までは馬車で二日。北に向かうはずだった旅路を、南に変える。人生の方角を変えるのに、実際に必要なのは馬車の向きを変えることだけだった。


 街道に出ると、朝の光が白く広がっていた。昨夜泣いたことが嘘のように、空は晴れている。


 馬車に乗り込む前に、もう一度だけ北の方角を見た。ロレーヌの方角。あそこに私の生まれた家がある。幼い頃、母と薬草図鑑を開いた書斎がある。庭の奥の林で迷って、父が探しに来てくれた日がある。


 父は、もう探しには来ない。


 目を閉じた。三秒。目を開けた。


 南を向いた。王都の方角。知らない街。知らない人。知らない道。方向音痴の私にとっては不安しかない。けれど、不安と絶望は違う。不安の先には、まだ道がある。


 馬車が走り出した。


 トランクの中で、治療記録帳の控えと推薦状が小さく揺れている。あと二日。二日後には、私は誰でもない私として、新しい場所に立っている。


 窓の外を流れる景色が、見覚えのない田園風景に変わっていく。


 知らない道を行く。それは怖い。方向音痴の私にとっては特に。


 でも、もう迷ってもいいと思えた。迷った先に何があるかは、行ってみなければ分からない。今まではいつも誰かの敷いた道の上を歩いてきた。父が選んだ嫁ぎ先、夫が用意した屋敷、先代が作った薬草園の跡地。


 今度は私が道を選ぶ。たとえそれが、間違った方角だとしても。

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