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白紙の離婚届  作者: 九葉(くずは)


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第4話 置いていくもの

 冬支度の薬を、少し多めに作った。


 薬品庫の奥、ルシアン専用の棚。喉の弱い彼のために毎冬調合する薬湯の素を、例年の倍量並べた。瓶の蓋をひとつずつ確かめ、ラベルを書き直し、調合の手順書を棚の内側に貼りつけた。


 ハンスに渡す引き継ぎ資料には含めていない。これは業務ではない。ただの癖だ。三年間続けた、妻としての癖。


(気づくかしら)


 気づかないだろう。今まで一度も気づかなかったのだから。


 瓶を棚に戻す時、指先の爪が、棚の木に食い込んだ。これが最後だと思うと、手が正直になる。治癒魔法で他人の痛みは取り除けるのに、自分の手の震えひとつ止められない。



 出発前夜。最後の夕食の席に着いた。


 ルシアンと向かい合う食卓。いつもの距離。いつもの沈黙。窓の外では、秋の最後の風が枯れ葉を巻き上げている。


 スープを一口運んだ。今日の味付けは少し塩が強い。厨房の料理長も落ち着かないのだろう。昼間、マルタが「料理長が三回もスープを作り直していた」とこっそり教えてくれた。


「引き継ぎは完了した、と聞いた」


 ルシアンが口を開いた。視線は料理に落としたまま。


「はい。ハンス殿は優秀な方です。少し時間はかかるでしょうが、問題なくお務めいただけると思います」


「……そうか」


 沈黙が戻る。時計の音。食器が触れ合うかすかな金属音。


 何か言いたいことがあるなら言ってほしい。言ってくれたら、どうなるのだろう。私は何を期待しているのだろう。


「旦那様」


「何だ」


「この三年間、お世話になりました」


 言ってしまえば、ただの挨拶だった。去る者が残る者に向ける、形式的な感謝の言葉。けれどルシアンの箸が止まった。


「……必要だ」


「はい?」


「お前は、この領地に必要だ」


 静かに言った。ルシアンの声は低く、抑えられていて、けれどどこかに必死さの欠片が混じっていた。混じっていた、ように聞こえた。聞こえたかっただけかもしれない。


「領地に、ですか」


 自分でも驚くほど冷たい声が出た。


 ルシアンが顔を上げた。目が合った。三年間で、こんなにまっすぐ目を見られたのは何度目だろう。数えられるほどしかない。


「……ああ。領地に」


 言い直さなかった。言い直せなかったのか、言い直す気がなかったのか。


 私は微笑んだ。いつも通りの、完璧な微笑みで。


「ご心配には及びません。ハンス殿にすべてお伝えしました。領地の衛生管理は継続されます」


「そういう話をしているのではない」


「では、どういうお話でしょう」


 ルシアンは口を開きかけて、閉じた。視線が逸れた。窓の外の暗闇に向かって、何かを探すように。


 見つからなかったのだろう。あの人が探していた言葉は、きっと簡単な言葉だ。「行くな」とか「ここにいてくれ」とか。三文字か五文字で済む、ごく簡単な言葉。


 けれどその簡単な言葉を、この人は持っていない。持っていないのか、使い方を知らないのか。


「……すまなかった」


 最後にそう言った。何に対しての謝罪なのか、分からなかった。分からないまま、夕食は終わった。



 翌朝。


 荷物は驚くほど少なかった。嫁入りの時に持ってきた衣装と、治癒の道具と、実家の母が持たせてくれた薬草図鑑。三年間で増えたものは、治療記録帳の四冊と、ルシアンからもらった髪飾りの箱だけだった。


 髪飾りは、置いていこうかと迷った。結局、持っていくことにした。理由は自分でもよく分からない。


 玄関ホールにマルタがいた。目が真っ赤だった。


「奥様」


「マルタ。泣かないで」


「泣いておりません。花粉です」


 秋に花粉はない。でも指摘しなかった。


「長い間、本当にありがとう」


 マルタの手を取った。ごつごつとした、働き者の手。この手が毎朝、屋敷のすべての部屋を磨き上げてきた。


「奥様こそ。……お体に気をつけて」


 頷いた。喉の奥が熱くなったが、飲み込んだ。ここで泣いたら、マルタが余計につらくなる。


 フレデリクが近づいてきた。白髪の老医師は、封筒を一通差し出した。


「治癒師ギルドへの推薦状です。万が一の時に」


「先生」


「あなたの腕は、あの屋敷に閉じ込めておくには惜しい。前からそう思っていました」


 封筒を受け取った。指が震えそうになったが、今度は抑えた。フレデリクの好意を、震える手で受け取りたくなかった。


「ありがとうございます。大切にします」


 老医師は小さく頷いて、一歩下がった。



 馬車が動き始めた。


 窓から屋敷が遠ざかっていく。薬草園の緑が小さくなる。あの庭で迷った日々が、不思議と懐かしい。方向音痴の私には、あの庭は毎日が冒険だった。


 ルシアンは見送りに来なかった。


 来ないと分かっていた。この人は、行動の人だ。別れの言葉が言えないなら、別れの場にも立てない。そういう不器用さを、三年間見てきた。


 馬車が領地の門を出る瞬間、振り返らないつもりだった。


 振り返った。


 門の上に、人影があった。遠くて顔は見えない。けれど、背の高い影が城壁の上に立っているのが分かった。


(……見ているのなら、せめて言ってほしかった)


 何をとは言わない。何でもいい。一言でもよかった。


 視界がぼやけた。まばたきを一回多くして、前を向いた。


 行き先は、実家のロレーヌ辺境伯領。父に手紙は出してある。返事はまだ来ていないが、実の娘を拒む理由はないはずだ。


 馬車の中で、膝の上の地図を広げた。ロレーヌまでの道のり。三日の旅路。


 方向音痴の私が一人で行けるだろうか。それだけが、今の私に許された心配事だった。


 秋の陽が、馬車の小さな窓から差し込んでいる。


 この光の色を、あの薬草園で見た午後の金色と比べてしまう自分が、少し嫌だった。


 荷物の隙間から、治療記録帳の背表紙が見えた。控えの一冊だけ持ってきた。本体の四冊はハンスに渡してある。あの記録には私の三年間のすべてが詰まっている。何月何日に誰を治癒したか。どんな薬草をどの配合で使ったか。どの季節にどんな病が流行するか。


 ルシアンは、あの記録帳の存在を知っているだろうか。たぶん知らない。治癒師の仕事は「手当てをすること」だと思っているのだろう。手当ての前に膨大な観察と記録と予防があることを、あの人は一度も聞かなかった。聞こうとしなかった。


(聞いてほしかったわけじゃない)


 嘘だ。本当は聞いてほしかった。「今日はどんな仕事をした?」と、一度でいいから聞いてほしかった。夫婦というのは、そういうものではないのだろうか。


 でも、もういい。


 馬車が森に入った。木漏れ日が揺れている。この道をまっすぐ行けば、明後日にはロレーヌに着くはずだ。


 薬品庫に並べた冬の薬のことを思い出した。あの瓶をルシアンが手に取る日が来るだろうか。来たとして、いつもより多いことに気づくだろうか。気づいて、それが私の……。


 考えるのをやめた。


 もう、あの人のために頭を使うのはやめると決めたのだ。今日から私は、公爵夫人ではない。ただのエレノア・ロレーヌだ。


 ただの、帰る場所がある、エレノアだ。

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