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白紙の離婚届  作者: 九葉(くずは)


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第3話 引き継ぎ書の厚さ

 引き継ぎ資料は、百八十七枚になった。


 後任の治癒師ハンスは、応接間のテーブルに積まれた紙の山を見て、しばらく瞬きを繰り返していた。四十代半ばの、王都の治癒師ギルドから派遣された男だ。腕は悪くないと聞いている。少なくとも、基本的な治癒魔法と外傷の処置は問題ないはずだ。


 問題は、そこから先にある。


「こちらが領地内の井戸二十三ヶ所の浄化スケジュールです。季節ごとに浄化の魔力量を変えてあります。冬季は地下水脈の流れが変わるので、注意点をこちらに」


「は、はい」


「こちらが薬草園の管理台帳。苗の植え替えサイクルと、各薬草の適正採取時期、乾燥・保存の方法を記載しています。タチジャコウソウは秋の間に十分な量を確保しておかないと、冬に喉の疾患が広がります」


「……なるほど」


「こちらが季節性感染症の予防処置マニュアル。年三回の巡回診療のルートと、各地区の住民の既往歴一覧を添付しています」


 ハンスの顔色が変わってきた。最初は余裕のあった表情が、資料を一枚めくるごとに強張っていく。


「あの……これを、お一人で?」


「ええ」


「三年間、ずっと?」


「はい」


 当たり前のことを聞かれている。私にとっては日常だった。毎朝薬草園を回り、午前中に巡回診療に出て、午後は屋敷で調合と記録の整理をする。月に一度の井戸の浄化巡りは丸一日かかるが、帰り道に迷って予定より遅くなることを除けば、滞りなく回していた。


「出産の補助体制についても説明させてください。現在、領内で出産を控えている女性が五名います。うち一名は逆子の疑いがあり……」


「お待ちください。少し、整理する時間を」


 ハンスが額の汗を拭いた。無理もない。これは一人の治癒師の仕事量ではない。私自身、三年前にこの領地に来た時、あまりの仕事の多さに目眩がした。けれど目の前に病人がいれば手を動かすしかなく、気づけば回していた。


「ハンス殿」


「はい」


「この領地の井戸水が清いのは、誰のおかげだとお思いですか」


 自分でも驚くほど、静かな声が出た。


 怒りではなかった。少なくとも、彼に向けた怒りではない。三年間、当たり前のように清い水を飲み、当たり前のように健康に暮らしてきた人々への。いいえ、違う。一人の人への、やり場のない感情だった。


 ハンスは答えなかった。答えられなかったのだろう。


「私は明日から、各地区の責任者への引き継ぎ巡回を始めます。できれば同行していただけると」


「もちろんです。……奥様、一つだけ伺ってもよろしいですか」


「何でしょう」


「なぜ、お辞めになるのですか。これだけの体制を築かれた方が」


 微笑んだ。いつも通りの公爵夫人の微笑みで。


「個人的な事情です」


 それ以上は聞かなかった。できる治癒師だと思った。空気の読める人だ。



 引き継ぎが始まって三日目。屋敷の空気が変わり始めた。


 使用人たちの間に、不安が広がっている。


 マルタが朝の掃除の合間に、若い女中に何か話しているのが聞こえた。

「奥様がいらっしゃらなくなったら、冬の薬はどうなるの」

「ハンス先生がいらっしゃるじゃないですか」

「ハンス先生はまだ薬草園の場所も覚えていないわよ」


 聞こえないふりをして通り過ぎた。胸が痛む。この人たちのことが好きだった。マルタの気遣い、庭師の朴訥な笑顔、厨房の料理人が「奥様のお口に合うかしら」と心配そうに聞いてくる声。


 ルシアンへの敬意は変わらない。この領地を守り、飢饉を退けた名君だ。それは事実であり、使用人たちもそれを理解している。けれど、旦那様がどれほど素晴らしい領主であっても、冬の薬は作れないし、井戸の水は浄化できない。


 午後、フレデリクが薬品庫の在庫確認を手伝ってくれた。白髪の老侍医は、棚の薬瓶を一本ずつ確認しながら、静かに言った。


「エレノア様。あなたがこの領地に来る前、冬を越せなかった子供が毎年三人はいました」


「存じています」


「あなたが来てから、一人も失っていない」


 手が止まった。知っている。記録帳に全部書いてある。


「フレデリク先生」


「はい」


「……ありがとうございます。覚えていてくださって」


 老医師は薬瓶をゆっくりと棚に戻した。「覚えているのは私だけではありません」と、短く付け加えた。



 夕刻。


 引き継ぎ資料の追加分を書斎でまとめていると、廊下から足音が聞こえた。


 ルシアンの足音だ。三年間毎日聞いてきた。革のブーツが石畳を踏む、規則正しいリズム。


 足音が書斎のドアの前で止まった。


 息を止めて待った。


 ノックは来なかった。


 足音がゆっくりと遠ざかっていく。


(また、引き返した)


 この人はいつもこうだ。何か言いたいことがあるのだろう。けれどドアの前まで来て、そこで引き返す。三年間、何度も同じことがあった。最初の頃は、私から開けようかと思ったこともある。でも、開けたことはない。あの人が望んで来たなら、ノックするだろうと思ったから。


 ノックは、三年間一度も来なかった。


 ペンを置いて、窓の外を見た。薬草園の緑がオレンジ色の夕日に染まっている。


(あの人にとって、私はなんだったのだろう)


 有能な治癒師だっただろう。領地を衛生的に保ち、領民の健康を守る便利な存在。公爵家にふさわしい教養と作法を備えた、無難な妻。


 それ以上のものを、望んだ私が愚かだったのだ。


 引き継ぎ資料に、最後のページを書き足した。


「後任の方へ。この領地の人々は優しい人ばかりです。どうか、この土地と、ここに暮らす方々を大切にしてください」


 仕事の引き継ぎに、こんな私情を挟むのは不適切かもしれない。けれど書かずにはいられなかった。


 百八十八枚目を資料の一番最後に挟んで、紐で綴じた。


 夕食の時間になった。食堂に向かう廊下で、ハンスとすれ違った。


「奥様。明日の巡回、東地区からお願いできますか。あちらの井戸が……その、資料を見たのですが、浄化の手順がまだ……」


「ええ、もちろん。実際に見ていただくのが一番です」


 ハンスは少しほっとした顔をして、小さく頭を下げた。


「失礼ですが……この資料の量、奥様が体系化されるまで、相当な試行錯誤がおありだったのでは」


「最初の冬は、三日間眠れませんでした」


 本当のことだ。赴任して最初の冬、インフルエンザのような熱病が流行した時、対処法が何も確立されていなかった。私は薬草園の在庫を総動員し、昼も夜もなく治癒の光を灯し続けた。背中が痛くて曲がらなくなった三日目の朝、フレデリクが「倒れる前に休め」と叱ってくれた。


 あの冬を越えたことで、体制づくりの基礎ができた。二度と同じ苦労をしなくていいように、全部を記録に残し、マニュアルにした。


「ハンス殿なら大丈夫です。資料さえ読み込んでいただければ」


「……努力します」


 真面目な人だ。きっとうまくやってくれる。そう信じたい。


 食堂に入ると、ルシアンがすでに席についていた。目が一瞬合って、すぐに外れた。


「本日の引き継ぎは順調です」


「……そうか」


 いつもの返事だ。いつもの距離。


 スープを一口すすった。味がしなかった。


 明日、ハンスに資料を渡す。私の三年間のすべてを。

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