第2話 薬草茶の温度
この屋敷で最初に覚えた道は、薬草園への近道だった。
はずなのだが。
「奥様、今日もお散歩ですか?」
マルタが庭の東側で洗濯物を干しながら、柔らかく微笑んでいる。薬草園は西だ。私は明らかに反対方向に歩いていた。
「……ええ、少し遠回りを」
「薬草園でしたら、あちらの生垣を左ですよ」
三年住んでいてこれだ。治癒魔法の術式なら百種類以上諳んじられるのに、自分の屋敷の庭で迷う。ロレーヌの実家でも、よく裏庭の林で行方不明になって使用人たちを慌てさせた。
マルタに礼を言って方向を修正し、薬草園にたどり着く。朝露に濡れた葉を確認しながら、今日の調合を考えた。
三年前の秋。この薬草園は、ただの荒れた花壇だった。
結婚式の翌日、私はまだ式服の余韻も冷めないうちにこの庭に出た。領地の視察記録を読んで、衛生環境の脆弱さに驚いたからだ。井戸水の浄化は行われていない。季節性の熱病に対する予防措置もない。冬季の薬の備蓄は慢性的に不足していた。
腕まくりをして土をいじっていた私に、声をかけたのはルシアンだった。
「……何をしている」
「薬草を植えます。この領地には薬が足りません」
ドレスの裾に土がついていた。爪の間にも。政略結婚で嫁いできた花嫁が、翌日には土まみれで薬草の苗を植えている。さぞ奇妙な光景だっただろう。
ルシアンは長い間、私を見ていた。何を考えていたのかは分からない。ただ、翌日、庭師に「公爵夫人の指示に従え」と命じたと、後から聞いた。
あの頃のルシアンの目には、何か温かいものがあった気がする。気がする、というのは、確信が持てないからだ。この人はいつも、感情を表に出さない。
◇
結婚初日の記憶は、もうひとつある。
式の後の晩餐会で、領民の子供が転んで額を切った。大した怪我ではなかったが、血を見て泣き叫ぶ子供に周囲が慌てた。
私は席を立った。ドレスの裾を踏みそうになりながら駆け寄って、子供の額に手を当てた。淡い金色の光が灯る。子供が目を丸くして、「きれい」と呟いた。
治癒を終えて振り返ると、ルシアンが立っていた。
あの目。
何と言えばいいのだろう。驚きでも、感謝でもない。もっと静かで、もっと深い何か。一瞬だけ、本当に一瞬だけ、あの人の目が柔らかくなった。
あれが、私が見た最後の柔らかさだったのかもしれない。
◇
三年間の日々は、穏やかだった。穏やかすぎるほどに。
朝、私が薬草茶を調合する。使用人に渡す。ルシアンの執務室に届けられる。あの人は何も言わずにそれを飲む。
昼、私は領地を巡回する。井戸水の浄化、病人の診察、薬草の管理。治癒の光を灯すたび、領民たちが「奥様、ありがとうございます」と頭を下げる。名前ではない。「奥様」だ。でも、それが嬉しかった。
夜、ルシアンは執務室にこもる。私は隣の書斎で治療記録を書く。壁一枚隔てて、互いのペンの音が聞こえる距離にいた。ルシアンが遅くまで書類に向き合っていることは知っていた。私もつられて遅くまで記録を書いた。
同じ時間に起きて、同じ屋敷に暮らして、同じ食卓で食事を取る。
それなのに、交わした言葉は業務連絡ばかりだった。
「今季の感染症予防は順調か」
「はい。井戸の浄化も完了しております」
「そうか」
そうか、で会話が終わる。
ルシアンが私に贈り物をすることがあった。誕生日でもない日に、化粧台の上に箱が置かれている。開けると、精緻な細工の髪飾り。手紙も説明もない。翌朝つけていくと、ルシアンは一瞬だけ視線を向けて、何も言わずに薬草茶を飲む。
(あの人なりの、気遣いなのかもしれない)
そう思うことにしていた。思うことにしないと、「なぜ言葉をくれないのか」という問いに押しつぶされる。
イザベラが屋敷を訪れることがあった。ルシアンの幼馴染。控えめで柔らかい笑顔の美しい女性。彼女が来ると、ルシアンは少しだけ、ほんの少しだけ、声が低くなる。リラックスした声。私に向けるのとは、違う声。
嫉妬、と呼ぶには穏やかすぎた。もっと冷たくて、もっと重い何か。
私はイザベラに微笑んだ。お茶を出した。薬草園のハーブで作った菓子を添えた。彼女は「まあ、素敵」と喜んだ。いい人だと思った。いい人だから、余計につらかった。
あの夜のことは、一度だけ思い出す。
寝室。ルシアンは先に眠っていた。私はまだ、治療記録の整理をしていて、遅れてベッドに入った。暗がりの中で、隣の呼吸音を聞いていた。
「……イザベラ」
寝言だった。
ごく小さな声で、けれど確かに。あの人は、私の隣で、別の女性の名前を呼んだ。
私は天井を見つめた。しばらく、どのくらいだったか分からない。天井の木目の模様を数えていた。三十七本目まで数えたところで、数えるのをやめた。
翌朝、いつも通りに薬草茶を淹れた。ルシアンの体調に合わせた配合で。
(泣くのは、一人の時でいい)
そう決めた夜のことを、今でも鮮明に覚えている。天井の木目の一本一本まで。
◇
薬草園の作業を終え、書斎に戻った。
治療記録帳を開く。三年間、一日も欠かさずつけてきた記録。患者の名前、症状、処置内容、経過観察。革の表紙が手に馴染む。もう四冊目になっていた。
この記録帳を、後任の治癒師に渡す。私がこの領地で何をしてきたか、すべてここに書いてある。
ルシアンは読んだことがない。渡したこともない。彼に見せるために書いたわけではないから。
ペンを取って、今日の記録を書き始めた。
隣の執務室から、かすかにペンの走る音が聞こえた。壁一枚向こうで、あの人も書いている。
(この距離が、私たちの三年間だった)
近くて、遠い。手を伸ばせば届きそうで、けれど伸ばしたことは一度もない。
いいえ、伸ばす勇気がなかっただけだ。
離婚届を出したのは、その勇気の代わりだ。手を伸ばす代わりに、手を離す選択をした。
正しいと思う。正しいと、思いたい。
ペンの音が止まった。隣の部屋の気配が動く。ドアが開く音。廊下の足音が、私の書斎の前で一瞬止まり、そのまま遠ざかっていった。
あの人はいつもそうだ。近くまで来て、引き返す。
私は治療記録帳に視線を戻した。今日診た患者は三名。領地東部の農家の妻の腰痛。鍛冶屋の息子の火傷。老人の慢性的な関節炎。
一人ずつ、丁寧に書いた。この記録が、私がここにいた証になる。




