第10話 新しい契約
契約書の署名欄に、自分の名前を書いた。
エレノア。ただの六文字。けれどこの六文字には、三年間の沈黙と、一ヶ月の彷徨いと、一つの決断が詰まっている。
ヴァレスティア公爵領・公衆衛生顧問契約書。治癒師ギルド所属の上級治癒師として、領地の衛生管理体制の監督と助言を行う。契約期間は一年間、更新可能。報酬はギルドの規定に準じ、領地から支給。
妻ではない。家臣でもない。対等な契約関係。
この契約書を提案したのは、私だった。疫病が収束に向かった頃、ルシアンに持ちかけた。
「あなたの領地には、衛生管理の専門家が常駐する体制が必要です。ハンス殿は優秀ですが、体制の構築と維持には経験のある監督者が要ります」
「……お前が、やってくれるのか」
「治癒師ギルドの所属として、です。ギルドへの帰属は維持します。他の依頼も受けます。この領地に縛られるわけではありません」
ルシアンは長い間、黙っていた。それから、頷いた。
「条件は」
「対等であること。命令ではなく依頼として。そして」
「そして」
「名前で呼んでいただくこと」
ルシアンの目が少し見開かれて、それからゆっくりと細まった。笑った、のかもしれない。この人の笑顔を見たのは、もしかすると初めてだった。口角がほんの僅かに上がる程度の、小さな変化。けれど確かに、笑っていた。
「……分かった。エレノア」
名前を呼ぶ声が、まだぎこちない。三年間使わなかった言葉だ。舌に馴染んでいない。けれど、そのぎこちなさが、不思議と心地よかった。
◇
契約の署名が終わった日の夕刻。
ルシアンが執務室に呼んだ。書類の追加かと思って行くと、テーブルの上に小さな箱が置いてあった。
また髪飾りだろうか。見覚えのある木箱。
「開けてくれ」
蓋を開けた。
中に入っていたのは、髪飾りではなかった。薬草茶の茶葉だった。上質なタチジャコウソウとカモミールのブレンド。王都の専門店でしか手に入らない等級のものだ。
「……これは」
「お前がいつも淹れてくれていた薬草茶を、俺なりに調べた。同じものは作れなかったが」
調べた。あの人が。薬草茶の調合を。
「毎朝飲んでいたのが、お前が作ったものだと知ったのは、お前が去ってからだ。マルタが教えてくれた」
「マルタが……」
「味が違った。ハンスが淹れたものは、悪くはないが、お前のとは違った。何が違うのか分からなかった。分からないから、茶葉から揃えようとした。馬鹿だと思うだろう」
馬鹿だと思わなかった。
不器用すぎて、少し笑えた。泣きそうだった。両方だった。
「ありがとうございます。でも、薬草茶の味の違いは茶葉だけじゃないんですよ」
「何が違う」
「飲む人の体調に合わせて、毎日配合を変えていたんです。今日は喉が弱そうだからタチジャコウソウを多めに、昨日飲みすぎたようだからショウキョウを足して……」
「……毎日」
「三年間、毎朝」
ルシアンが絶句した。「毎日」と繰り返して、テーブルの上の茶葉を見つめた。
「お前は本当に……」
「業務ではありません。ただの……」
言葉を探した。何だったのだろう、あれは。義務でもなく、仕事でもなく。
「愛情、だったのだと思います」
口に出してしまった。軽い言葉ではないはずなのに、口にした瞬間、ずいぶん楽になった。
ルシアンが何か言おうとした。口を開いて、閉じて、また開いた。
「俺は、一緒にいてほしい」
「領地に必要だ」ではなかった。「一緒にいてほしい」だった。
ようやく。ようやくあの人は、正しい言葉を見つけた。
「……考えさせてください」
「ああ」
「嘘です。答えは決まっています」
ルシアンが息を止めた気配がした。
「ここにいます。治癒師として。そしてもう少し時間が経ったら、もしかしたら、それ以外の形でも」
「……それ以外の形」
「まだ分かりません。分からないから、時間をください」
ルシアンが頷いた。深く。何度も。
この人が何度も頷くのを、初めて見た。
◇
翌日。
執務室の引き出しから、白紙の離婚届を取り出した。ルシアンが隣に立っている。
「これを、どうする」
「破りますか?」
「お前はどうしたい」
紙を見つめた。白紙の署名欄。裏面の、消された「行かないでくれ」。インクの染み。
「しまっておきましょう。この引き出しに」
「破らなくていいのか」
「忘れるためじゃありません。忘れないために」
この紙は、三年間の私たちの証だ。沈黙の証であり、すれ違いの証であり、同時に、二人とも言葉にできなかった感情の証でもある。
捨てたら、なかったことになる。なかったことにしたくない。
ルシアンが紙を受け取り、引き出しに戻した。静かに閉めた。
「……新しい契約書のほうが、この引き出しには似合うな」
「ええ」
◇
午後、薬草園に向かった。
今度こそ迷わない、はずだった。
生垣を右に曲がって、花壇を抜けて、小径を進んで。
気づいたら東棟の裏庭にいた。また迷った。あの白い花がまだ咲いている。もう散りかけの、秋の終わりの花。
「また迷ったのか」
声がした。振り返ると、ルシアンが立っていた。
「……偶然です」
「薬草園はあちらだ」
「分かっています」
「分かっていない顔をしている」
こめかみのあたりが熱くなった。三年間で、こんな風に軽口を言い合ったことがあっただろうか。なかった気がする。
「案内しよう」
「結構です。一人で……」
「迷うだろう」
否定できなかった。
ルシアンが先に歩き出した。私がその後をついていく。半歩後ろ。いつもの距離。いいえ、少しだけ近い。
薬草園にたどり着いた。秋の終わりの庭。夏の盛りに比べれば寂しいが、タチジャコウソウが最後の花をつけている。
「エレノア」
名前を呼ばれた。今度は自然だった。さっきよりずっと、滑らかに。
振り返った。
ルシアンが手を差し出していた。あの日、書庫で差し出されて、取らなかった手。
今度は、取った。
指が触れた。手のひらが重なった。節くれだった大きな手。温かかった。
治癒魔法の光が、指先からこぼれた。私が灯したのではない。勝手に灯った。穏やかな金色。揺れていない。安定した、温かい光。
三年間で一番きれいな光だと思った。
「……きれいだ」
ルシアンが呟いた。光を見ていた。いいえ、光を通して、私を見ていた。
あの結婚初日、子供を治癒した時の目。あの柔らかさが、戻ってきていた。
手を繋いだまま、薬草園の小径を歩いた。
秋の最後の光が、金色の治癒魔法と混じり合って、二人の影を長く伸ばしていた。
始まったばかりの、新しい物語の影を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




