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白紙の離婚届  作者: 九葉(くずは)


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第10話 新しい契約

 契約書の署名欄に、自分の名前を書いた。


 エレノア。ただの六文字。けれどこの六文字には、三年間の沈黙と、一ヶ月の彷徨いと、一つの決断が詰まっている。


 ヴァレスティア公爵領・公衆衛生顧問契約書。治癒師ギルド所属の上級治癒師として、領地の衛生管理体制の監督と助言を行う。契約期間は一年間、更新可能。報酬はギルドの規定に準じ、領地から支給。


 妻ではない。家臣でもない。対等な契約関係。


 この契約書を提案したのは、私だった。疫病が収束に向かった頃、ルシアンに持ちかけた。


「あなたの領地には、衛生管理の専門家が常駐する体制が必要です。ハンス殿は優秀ですが、体制の構築と維持には経験のある監督者が要ります」


「……お前が、やってくれるのか」


「治癒師ギルドの所属として、です。ギルドへの帰属は維持します。他の依頼も受けます。この領地に縛られるわけではありません」


 ルシアンは長い間、黙っていた。それから、頷いた。


「条件は」


「対等であること。命令ではなく依頼として。そして」


「そして」


「名前で呼んでいただくこと」


 ルシアンの目が少し見開かれて、それからゆっくりと細まった。笑った、のかもしれない。この人の笑顔を見たのは、もしかすると初めてだった。口角がほんの僅かに上がる程度の、小さな変化。けれど確かに、笑っていた。


「……分かった。エレノア」


 名前を呼ぶ声が、まだぎこちない。三年間使わなかった言葉だ。舌に馴染んでいない。けれど、そのぎこちなさが、不思議と心地よかった。



 契約の署名が終わった日の夕刻。


 ルシアンが執務室に呼んだ。書類の追加かと思って行くと、テーブルの上に小さな箱が置いてあった。


 また髪飾りだろうか。見覚えのある木箱。


「開けてくれ」


 蓋を開けた。


 中に入っていたのは、髪飾りではなかった。薬草茶の茶葉だった。上質なタチジャコウソウとカモミールのブレンド。王都の専門店でしか手に入らない等級のものだ。


「……これは」


「お前がいつも淹れてくれていた薬草茶を、俺なりに調べた。同じものは作れなかったが」


 調べた。あの人が。薬草茶の調合を。


「毎朝飲んでいたのが、お前が作ったものだと知ったのは、お前が去ってからだ。マルタが教えてくれた」


「マルタが……」


「味が違った。ハンスが淹れたものは、悪くはないが、お前のとは違った。何が違うのか分からなかった。分からないから、茶葉から揃えようとした。馬鹿だと思うだろう」


 馬鹿だと思わなかった。


 不器用すぎて、少し笑えた。泣きそうだった。両方だった。


「ありがとうございます。でも、薬草茶の味の違いは茶葉だけじゃないんですよ」


「何が違う」


「飲む人の体調に合わせて、毎日配合を変えていたんです。今日は喉が弱そうだからタチジャコウソウを多めに、昨日飲みすぎたようだからショウキョウを足して……」


「……毎日」


「三年間、毎朝」


 ルシアンが絶句した。「毎日」と繰り返して、テーブルの上の茶葉を見つめた。


「お前は本当に……」


「業務ではありません。ただの……」


 言葉を探した。何だったのだろう、あれは。義務でもなく、仕事でもなく。


「愛情、だったのだと思います」


 口に出してしまった。軽い言葉ではないはずなのに、口にした瞬間、ずいぶん楽になった。


 ルシアンが何か言おうとした。口を開いて、閉じて、また開いた。


「俺は、一緒にいてほしい」


 「領地に必要だ」ではなかった。「一緒にいてほしい」だった。


 ようやく。ようやくあの人は、正しい言葉を見つけた。


「……考えさせてください」


「ああ」


「嘘です。答えは決まっています」


 ルシアンが息を止めた気配がした。


「ここにいます。治癒師として。そしてもう少し時間が経ったら、もしかしたら、それ以外の形でも」


「……それ以外の形」


「まだ分かりません。分からないから、時間をください」


 ルシアンが頷いた。深く。何度も。


 この人が何度も頷くのを、初めて見た。



 翌日。


 執務室の引き出しから、白紙の離婚届を取り出した。ルシアンが隣に立っている。


「これを、どうする」


「破りますか?」


「お前はどうしたい」


 紙を見つめた。白紙の署名欄。裏面の、消された「行かないでくれ」。インクの染み。


「しまっておきましょう。この引き出しに」


「破らなくていいのか」


「忘れるためじゃありません。忘れないために」


 この紙は、三年間の私たちの証だ。沈黙の証であり、すれ違いの証であり、同時に、二人とも言葉にできなかった感情の証でもある。


 捨てたら、なかったことになる。なかったことにしたくない。


 ルシアンが紙を受け取り、引き出しに戻した。静かに閉めた。


「……新しい契約書のほうが、この引き出しには似合うな」


「ええ」



 午後、薬草園に向かった。


 今度こそ迷わない、はずだった。


 生垣を右に曲がって、花壇を抜けて、小径を進んで。


 気づいたら東棟の裏庭にいた。また迷った。あの白い花がまだ咲いている。もう散りかけの、秋の終わりの花。


「また迷ったのか」


 声がした。振り返ると、ルシアンが立っていた。


「……偶然です」


「薬草園はあちらだ」


「分かっています」


「分かっていない顔をしている」


 こめかみのあたりが熱くなった。三年間で、こんな風に軽口を言い合ったことがあっただろうか。なかった気がする。


「案内しよう」


「結構です。一人で……」


「迷うだろう」


 否定できなかった。


 ルシアンが先に歩き出した。私がその後をついていく。半歩後ろ。いつもの距離。いいえ、少しだけ近い。


 薬草園にたどり着いた。秋の終わりの庭。夏の盛りに比べれば寂しいが、タチジャコウソウが最後の花をつけている。


「エレノア」


 名前を呼ばれた。今度は自然だった。さっきよりずっと、滑らかに。


 振り返った。


 ルシアンが手を差し出していた。あの日、書庫で差し出されて、取らなかった手。


 今度は、取った。


 指が触れた。手のひらが重なった。節くれだった大きな手。温かかった。


 治癒魔法の光が、指先からこぼれた。私が灯したのではない。勝手に灯った。穏やかな金色。揺れていない。安定した、温かい光。


 三年間で一番きれいな光だと思った。


「……きれいだ」


 ルシアンが呟いた。光を見ていた。いいえ、光を通して、私を見ていた。


 あの結婚初日、子供を治癒した時の目。あの柔らかさが、戻ってきていた。


 手を繋いだまま、薬草園の小径を歩いた。


 秋の最後の光が、金色の治癒魔法と混じり合って、二人の影を長く伸ばしていた。


 始まったばかりの、新しい物語の影を。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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