第1話 沈黙の署名欄
離婚届を差し出す手は、不思議なほど震えなかった。
三年。あの人の妻として過ごした時間を、この一枚の紙が終わらせる。執務室の窓から差す午後の光が、署名欄の空白を白く照らしていた。
ルシアンは積み上げた書類から顔を上げた。
一瞬、何を渡されたのか分からないような顔をした。それから視線が紙の上をゆっくり滑り、「離婚届」の三文字で止まった。眉が動く。ほんの僅かに。けれど私は三年間、この人の顔を見つめ続けてきた。その僅かな動きが、驚きなのか、怒りなのか、あるいはもっと別の何かなのか。読み取れるはずだった。
読み取れなかった。
「……これは」
「離婚届です」
私は笑った。いつも通りの、ヴァレスティア公爵夫人としての微笑みで。三年間、毎朝鏡の前で確認してきた笑顔。口角の高さ、目元の和らげ方、顎の引き具合。我ながら、よくできた微笑みだと思う。
「必要な書式は整えてあります。旦那様のご署名をいただければ、あとは王室への申請を……」
「なぜ」
短い問いだった。ルシアンはいつもそうだ。必要最低限のことしか言わない。戦場で鍛えた判断力は、言葉にも表れる。無駄を削ぎ落とした、刃のような問い。
けれど今日、その短さが私の胸の奥を乱暴に掻いた。
なぜ、ですか。なぜ、と聞き返したいのは私のほうだ。なぜ、あの夜、あの人の名前を呼んだのですか。なぜ、私がすぐ隣で眠っているのに。
「理由をお聞きになりますか」
「……ああ」
「三年間、私なりに務めを果たしたつもりです」
業務報告のように話した。領地の衛生管理体制を一から構築したこと。季節性の感染症を予防する仕組みを整えたこと。領内二十三ヶ所の井戸水を定期的に浄化する巡回を続けてきたこと。薬草園を拡充し、冬季の薬不足を解消したこと。出産時の母子の死亡率を半減させたこと。
使用人の健康管理。薬草園の苗の入れ替え計画。治療記録帳の整備。
引き継ぎ資料もすべて用意した旨を伝え、後任の治癒師を手配していただく必要があることを説明した。
全部、仕事の話だ。
あの夜聞いた寝言のことは言わなかった。イザベラの名前を、この人の唇が形作るのを見たことは。声に出してしまったら、三年間かけて作り上げた微笑みの仮面が、ここで割れてしまう。
「引き継ぎには二ヶ月ほどいただきたく存じます。その間に後任の方への説明を……」
「エ……」
ルシアンが何かを言いかけた。私の名を呼ぼうとしたのか。いいえ、違う。この人は三年間、一度も私を名前で呼んだことがない。「公爵夫人」「奥方」。それが私に与えられた呼び名のすべてだった。
「何か、ご質問がおありですか」
「……いや」
長い沈黙が落ちた。
執務室の振り子時計が時を刻む音だけが、規則正しく空間を満たしていく。壁の燭台に映るルシアンの影が、僅かに揺れた。窓の外では秋の風が木の葉を散らしている。この執務室の窓から見える景色が好きだった。遠くに薬草園の緑が見えて、その向こうに領民たちの暮らす町並みが広がっている。
私がこの窓の外を眺めるのも、あとわずかだ。
「署名を、お願いします」
私がそう促した時、ルシアンはペンを取った。
ペン先を署名欄に下ろす。
止まった。
ペンは紙に触れたまま、一画も書かれない。インクの小さな染みだけが署名欄の隅に落ちて、ゆっくりと丸く広がった。
五秒。十秒。ルシアンの肩に、見たことのない力がこもっている。戦場から帰還した時にも、領地の危機に直面した時にも、この人はこんな風に固まったりしなかった。少なくとも、私が知る限りは。
ルシアンが、紙をこちらに押し戻した。
白紙のまま。
「書け、なかった」
低い声だった。目を合わせない。ペンを置く手の甲に、インクが一滴付着している。黒い染みが、節くれだった指の上で乾き始めていた。
私は離婚届を受け取った。白紙の署名欄を見つめた。
なぜ。
世間体のためだろうか。ヴァレスティア公爵が妻に離婚を切り出されたとあっては、名門の体面が保てない。隣領のフォルテーヌ伯爵との関係にも影響する。あるいは。いいえ。それ以上は考えない。「もしかして」と期待することのほうが、突き放されるよりもずっと痛い。
「……承知しました。改めて、お時間をいただきます」
微笑んだまま執務室を出た。背筋を伸ばして廊下を歩いた。使用人とすれ違う時は、いつも通り「お疲れさま」と声をかけた。自室のドアを閉めた。鍵をかけた。
それから、ようやく。
膝が折れた。
冷たい床に座り込んで、白紙の離婚届を胸に抱いた。声は出さなかった。泣いていることを誰かに知られたら、明日の朝、笑えなくなる。そう思った。
三年間、泣かなかった。
あの人の寝言を聞いた夜も。食卓で交わされる当たり障りのない会話の中で、自分の名前が一度も呼ばれないことに気づいた日も。「公爵夫人」「奥様」。肩書きだけが私の名前だった。慣れた。慣れたと思っていた。
けれど「書けなかった」の一言が、三年分の我慢をまとめて溶かしにかかる。
やめて。期待なんかさせないで。
涙が白紙の署名欄に落ちた。インクの染みがさらに滲んで、何かの模様のようになった。意味のない模様。意味のない三年間。
いいえ。意味がなかったなんて、思いたくない。
あの領地で過ごした日々には、確かに私が積み重ねたものがある。井戸の水を清くしたのは私だ。冬を越せなかったはずの子供たちが春を迎えられたのは、私が夜通し治癒の光を灯し続けたからだ。
それだけは、誰にも否定させない。
たとえこの結婚が間違いだったとしても。
涙を拭いて、離婚届を化粧台の引き出しにしまった。白紙のまま。
◇
翌朝、私はいつも通りの時間に朝食の席に着いた。
「おはようございます、旦那様」
微笑んだ。完璧に。昨夜泣いた痕跡は、治癒魔法で消してある。便利な能力だと思う。心は治せないのに、涙の腫れだけは治せる。
ルシアンが一瞬だけ、何か言いたそうに口を開きかけた。けれど結局、「……ああ」とだけ答えて、テーブルの上の薬草茶に手を伸ばした。
私が毎朝、彼の体調に合わせて調合している薬草茶を、あの人は使用人が用意したものだと思っている。秋口の今は、喉を守るタチジャコウソウと、胃を温めるショウキョウの配合を少し増やしてある。
それでよかった。気づかれなくてよかった。そういう結婚だったのだから。
(明日から、引き継ぎを始めよう)
私は薬草茶を一口飲み、穏やかな顔で窓の外を見た。
薬草園の緑が、秋の光の中で静かに揺れている。
書けなかった、とあの人は言った。
その言葉の重さを量ることを、私はまだ自分に許していない。




