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婚約破棄されたカフェラテ公爵令嬢は、苦くて甘い恋を淹れ直すことにしました

作者: マイコ

◇第一章「苦い夜」——王太子殿下の断罪と、一杯のカフェラテの真実



「君のような地味で退屈な女とは、もう終わりだ」


 王太子アルベルト殿下の声が、満場の夜会場に響き渡った。


 シャンデリアの光が煌めく大広間。各国の要人、王侯貴族、そして社交界の華やかな令嬢たち——その全員の視線が、私に突き刺さる。


 ああ、やっと来た。


(……長かったなぁ。三年。三年も我慢したんだよ、私)


 私、ミレーヌ・ラトリエールは、淑やかに微笑んだまま殿下を見上げた。蜂蜜色の髪を控えめなシニヨンに纏め、宝石も最低限しか身につけていない私は、確かに『地味』だろう。それは認める。


 でもね、殿下。


 私が地味なのは、あなたの隣で目立たないよう気を遣っていたからなんですよ?


「ミレーヌ。聞いているのか」


 殿下が眉を顰める。金髪碧眼の完璧な美貌。王族らしい優雅な所作。——そして、その目元に滲む、隠しきれない傲慢さ。


「はい、殿下。しっかりと」


「ならば何故黙っている。泣いて縋りつくなり、弁明するなりしたらどうだ」


(いや、なんで? むしろ今すぐ帰って明日届く予定のゲイシャ種の焙煎具合を確認したいんだけど)


 内心の本音は、もちろん表に出さない。私は公爵令嬢。たとえ心の中で「この茶番いつ終わるのかな」と思っていても、顔には微塵も出さない訓練を積んできた。


「……殿下がそうお望みでしたら」


「望んでいる。お前のような女を婚約者にしていたことは、私の人生最大の汚点だ」


 周囲から小さなざわめきが起こる。


 けれど、それは私への同情ではなかった。


「まあ、やはり……」

「コーヒーなど平民の泥水を好むお方ですもの」

「王太子妃に相応しくありませんわ」


 囁き声が耳に届く。ああ、これはプリシラ・ティーローズ嬢が流した噂の成果だ。『ラトリエール公爵令嬢は、厨房でコーヒー豆を挽いているらしい』——事実だけど、言い方ってものがあるでしょう。


 当のプリシラ嬢は、殿下の腕に寄り添いながら、私に同情するような視線を向けている。銀糸の縦ロール、露草色の大きな瞳、楚々とした物腰——『社交界の白薔薇』の名に恥じない完璧な令嬢ぶり。


 でもね、プリシラ嬢。


 その『傷ついた小動物』みたいな表情、鏡の前で何回練習したの?


「アルベルト様、あまりミレーヌお姉様を責めないであげてくださいまし」


 プリシラ嬢が、わざとらしく殿下の袖を引く。


「お姉様にはお姉様の良さが……きっと、どこかに……」


(『どこかに』って何。フォローする気ゼロじゃん)


「プリシラは優しいな」


 殿下が彼女の手を取り、慈しむように見つめる。


「だが、もう決めたことだ。——ミレーヌ・ラトリエール。本日をもって、我々の婚約は破棄とする」


 大広間が、静まり返った。


 誰もが、私の反応を待っている。泣き崩れるか。取り乱すか。それとも、醜く縋りつくか——。


 私は、静かに息を吸った。


 三年間。


 殿下の機嫌を取り、殿下の失言をフォローし、殿下が『自分の手柄』として提出した外交資料を徹夜で作成し続けた三年間。


 その全てが、今、終わる。


「——ええ、結構です」


 私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


「……何?」


「婚約破棄、謹んでお受けいたします。殿下」


 微笑む。心からの、本当の微笑みを。


「実は私、ずっと我慢していたことがあるんです」


「我慢……?」


「殿下のお口には、私の淹れるものは苦すぎたようですから」


 殿下の顔が、怪訝そうに歪む。意味がわからない、という表情。——ええ、わからないでしょうね。あなたは一度も、私が淹れたカフェラテを飲んでくださらなかった。『平民の泥水など飲めるか』と言って。


 けれど。


「ラトリエール公爵令嬢」


 不意に、低く落ち着いた声が割って入った。


 振り向くと、隣国エスプレシア王国の外交官——グラン侯爵が、深刻な表情で立っていた。


「まさか、もう王宮の茶会でお会いできなくなるのですか」


「……グラン侯爵」


「貴女の淹れてくださる、あの素晴らしい飲み物。——我が国王陛下も、毎回楽しみにしておられた」


 殿下の眉が、ぴくりと動いた。


「何の話だ」


「おや、ご存知ない?」グラン侯爵は意外そうに首を傾げる。「先月の通商条約締結も、先々月の国境問題の和解も——陛下が最終的に首を縦に振られたのは、ラトリエール公爵令嬢の『特別な一杯』がきっかけでしたのに」


 大広間に、再びざわめきが広がる。


 今度は、明らかに空気が違った。


「私も存じておりますわ」


 西方クレーマ公国の公爵夫人が扇子で口元を隠しながら言った。


「あのカフェ・ラテとやら。夫が『あれを飲むためだけに王都に来る価値がある』と申しておりましたもの」


「北方のヴァニラ辺境伯も同じことを」


「東の——」


 次々と声が上がる。


 私は知っていた。私が『地味な公爵令嬢』として裏方に徹しながら、各国要人に振る舞ってきたカフェラテ——前世の記憶を活かした、心を込めた一杯。それが、どれほど外交の潤滑油になっていたか。


 でも、殿下は知らなかった。


 興味がなかったから。


「……何を馬鹿な」


 殿下の声が、わずかに揺れた。


「コーヒーごときで外交が動くはずがない。くだらん」


 ——ああ、殿下。


 それが、あなたの限界なんですよ。


「殿下」


 私は最後にもう一度だけ、完璧な淑女の礼をした。


「三年間、お世話になりました。どうぞ、プリシラ嬢と末永くお幸せに」


 そして、背を向ける。


 控えの間の扉の前で、護衛のレオンが待っていた。砂色の短髪、若葉色の誠実な瞳——幼馴染の彼は、拳を白くなるほど握りしめていた。


「……お嬢様」


「帰るわよ、レオン」


「……はい」


 彼の声が、かすかに震えている。私のために怒ってくれているのだと、わかった。


 大広間の扉が閉まる直前、殿下の狼狽えた声が聞こえた。


「待て、ミレーヌ! 説明しろ! 外交茶会とは何の——」


 扉が、重厚な音を立てて閉じた。



 ◇ ◇ ◇



 馬車の中で、私はようやく大きく息を吐いた。


「……終わった」


「お嬢様」レオンが心配そうに覗き込む。「大丈夫、ですか」


「ええ、大丈夫」


 窓の外を流れる夜の王都を眺めながら、私は笑った。


「——やっと、カフェが開ける」


「……は?」


「領地に帰ったら、お店を始めるの。ずっと夢だったの」


 レオンが絶句している。うん、そうだよね。普通、婚約破棄された直後にそんなこと言わないよね。


 でも、私の頭の中には、もう未来の設計図が広がっている。


 陽当たりのいい路面店。木の温もりを活かした内装。挽きたての豆の香り。そして、心を込めた一杯のカフェラテ——。


「お嬢様は……昔からそうでしたね」


 レオンが、諦めたように、でもどこか嬉しそうに笑った。


「俺が護衛騎士になるって約束した日も、お嬢様は泣きながらコーヒーの話をしていた」


「……覚えてるの、それ」


「一生忘れません」


 彼の若葉色の瞳が、まっすぐに私を見つめる。


「俺は、お嬢様の淹れるカフェラテが、世界で一番美味いと思っています」


 ——ああ、レオン。


 あなたが最初に『美味しい』と言ってくれたこと、私も忘れてないよ。


「ありがとう」


 私は窓の外に視線を戻した。


 月明かりに照らされた王都が、少しずつ遠ざかっていく。


 三年間の苦い日々が、終わった。


 これからは——自分で選んだ、自分だけの人生を淹れ直す番だ。



 ◆◆◆



 同じ頃、夜会場では。


「アルベルト兄上」


 王弟ヴィクトルが、静かに兄の傍らに立った。


「それは取り返しのつかない判断では」


「黙れ、ヴィクトル」


 アルベルトは苛立たしげに手を振った。


「たかが女一人いなくなったところで、何も変わらん」


 ヴィクトルは何も言わず、ただ灰色の瞳を伏せた。


 ——兄上。あなたは知らないのですね。


 来月の外交茶会のために、ミレーヌ嬢がどれほどの準備をしていたか。


 各国要人の好みを全て把握し、一人一人に合わせた特別な一杯を用意していたことを。


 そして、その『特別な一杯』なしに、次の交渉がどれほど難航するかを——。


「プリシラ」アルベルトが振り向く。「次の茶会は、お前が仕切れ」


「まあ、私がですの?」


 プリシラが嬉しそうに微笑む。


「お任せくださいまし。紅茶文化の真髄を、お見せいたしますわ」


 ヴィクトルは、そっと目を閉じた。


 ——愚かな。


 この王国の外交が崩壊し始めるまで、あと一ヶ月。


 そして兄が『あの女を連れ戻せ』と喚くまで、あと三ヶ月——。


 その時にはもう、全てが手遅れになっているとも知らずに。



────────────────────



◇第二章「新しい朝」——領地の小さなカフェ、夢の始まり



 王都を発って三日。


 馬車の窓から見える景色は、すっかり変わっていた。


 華やかな石造りの街並みは消え、なだらかな丘陵地帯が広がっている。葡萄畑、麦畑、そして——遠くに見える、深い緑の森。


 ラトリエール公爵領。私の故郷。


「お嬢様、見えてきましたよ」


 レオンの声に、私は身を乗り出した。


 丘の上に建つ、白い壁の屋敷。そしてその手前に広がる、小さな町——。


「……帰ってきた」


 思わず、呟きが漏れた。


 王都での三年間。息が詰まりそうな社交界。殿下の機嫌取り。プリシラ嬢の陰湿な嫌がらせ。


 全部、終わったんだ。


「お嬢様」レオンが小さく咳払いした。「あの、大奥様がお待ちですが……」


「おばあ様?」


「はい。なんでも、『孫の凱旋を祝う準備は万端』とのことで……」


 私は額を押さえた。


 ——おばあ様。『凱旋』って何。私、婚約破棄されて帰ってきたんですけど。



 ◇ ◇ ◇



「おかえりなさい、ミレーヌ」


 屋敷の応接間で、祖母——ベルナデット・ラトリエールは、優雅にカップを傾けていた。


 白髪を上品に纏め、皺の刻まれた顔に慈愛と威厳を湛えた老婦人。かつては社交界随一の美女と謳われた面影が、今も残っている。


 そして、その手にあるのは——。


「おばあ様。それ、紅茶じゃないですよね」


「ええ、コーヒーですよ。お前が王都に送ってくれた豆で淹れましたの」


 にっこりと微笑む祖母。


 そう、この人なのだ。私がコーヒーに目覚めたきっかけは。


 祖母は若い頃、コーヒー文化を王国に持ち込もうとして挫折した過去がある。『高貴な紅茶を冒涜する庶民の飲み物』と排斥されて——。


 でも、諦めなかった。


 密かに各国の要人にコーヒーを振る舞い、その魅力を伝え続けた。私のカフェラテが外交で重宝されるようになった『種』を撒いたのは、この人だ。


「ようやくあの愚か者から解放されましたね」


「……おばあ様」


「私は最初から反対でしたのよ。あの王太子との婚約」


 カップを置き、琥珀色の瞳——私と同じ色の瞳が、まっすぐに私を見つめる。


「コーヒーの価値がわからない男に、お前の価値がわかるはずがありませんもの」


 ——おばあ様。それ、褒めてます? コーヒーを? 私を?


「さて」祖母が立ち上がる。「見せたいものがありますの。ついていらっしゃい」



 ◇ ◇ ◇



 連れてこられたのは、領都の目抜き通りに面した一軒の建物だった。


 白い壁。木製の扉。大きな窓からは、柔らかな陽光が差し込んでいる。


「……これは」


「お前のカフェですよ」


 祖母が、鍵を私に手渡した。


「三年前から準備していましたの。いつか、お前がここに戻ってくると信じて」


 扉を開ける。


 木の温もりを活かした内装。カウンター席と、いくつかのテーブル。壁には、コーヒーカップの形をしたランプ。


 そして——奥に設置された、専門的な焙煎機とエスプレッソマシン。


「おばあ様……これ……」


「隣国から取り寄せましたの。お前の手紙に書いてあった仕様通りに」


 涙が、込み上げてきた。


 王都で、私は祖母に何度も手紙を書いた。『いつか自分の店を持ちたい』『こんな機材があれば理想の一杯が淹れられる』——全部、夢物語のつもりだった。


 でも、祖母は覚えていてくれた。準備していてくれた。信じていてくれた。


「泣くのはまだ早いですよ」


 祖母が、優しく私の頭を撫でた。


「良いコーヒーは、良い縁を運ぶものです。——さあ、夢を叶えなさい、ミレーヌ」



 ◇ ◇ ◇



 それから二週間。


 私は開店準備に没頭した。


「お嬢様、その……何をしているのですか」


 レオンが、困惑した顔でカウンターの向こうを覗き込む。


「ラテアートの練習」


「らて……あーと?」


「見てて」


 スチームミルクをゆっくりとカップに注ぐ。


 前世の記憶——現代日本でバリスタをしていた頃の技術が、指先に蘇る。


 白いミルクが、琥珀色のエスプレッソの上に模様を描いていく。ハート、リーフ、そして——。


「……鳥、ですか?」


「白鳥。ラトリエール家の紋章」


 完成したカフェラテを、レオンに差し出す。


 カップの中で、優雅な白鳥がミルクの泡で描かれていた。


「……すごい」


 レオンが、息を呑んだ。


「こんなこと、できるんですね」


「前は……いえ、なんでもない」


 ——前世では、もっと複雑なデザインも描けたんだけど。今の体は指の感覚がまだ馴染んでないから、これが限界。


「飲んでみて」


 レオンが、恐る恐るカップに口をつける。


 そして——目を見開いた。


「……美味い」


「本当?」


「美味いです。昔飲んだ時より、ずっと」


 彼の若葉色の瞳が、キラキラと輝いている。


「これを、お客様に出すんですね」


「そうよ。私の店では、一杯一杯に心を込める。お客様に合わせて、その人だけの特別な一杯を——」


 言いかけて、私は窓の外に目を向けた。


 夕暮れの領都。行き交う人々。どこか牧歌的で、王都とは全く違う空気。


「この町の人たちは、コーヒーを飲んだことあるのかな」


「……おそらく、ほとんどないかと」


「そっか」


 なら、最初は親しみやすい味から始めよう。ミルクたっぷりのカフェラテ。甘いキャラメルソースを添えたアレンジメニュー。子供でも飲めるカフェインレスの——。


「お嬢様」


 レオンの声が、私の思考を遮った。


「店の名前は、もう決まっているのですか」


 店の名前。


 そうだ。一番大事なことを決めていなかった。


「……『Café Soleil』」


「ソレイユ?」


「太陽、という意味よ」


 私は、窓の外を見つめた。


 沈みゆく夕日が、町を橙色に染めている。


「朝、目が覚めて、最初に飲む一杯のコーヒー。それが、その日の太陽になる——そんなお店にしたいの」


 レオンが、何か言いたげに口を開きかけて——やめた。


 代わりに、静かに微笑んだ。


「……素敵な名前ですね」


「ありがとう」


 私も、微笑み返した。


 ——さあ、開店まであと一週間。


 どんなお客さんが来てくれるか、楽しみだな。



 ◇ ◇ ◇



 そして、開店当日の朝。


 私は、カウンターの中で深呼吸をした。


 外には、小さな行列ができていた。領民たちが、噂を聞きつけて集まってきたらしい。


「お嬢様」


 レオンが、扉の傍で待機している。護衛というより、半分は興味本位だと思うけど。


「いい? 開けるわよ」


「……はい」


 木製の扉を、ゆっくりと開ける。


 朝の光が、店内に差し込んだ。


「いらっしゃいませ」


 私は、心からの笑顔で言った。


「Café Soleilへ、ようこそ」


 最初のお客様が、おずおずと入ってくる。パン屋のおかみさんだ。


「あの、公爵令嬢様……」


「ミレーヌでいいですよ。ここでは私、ただのバリスタですから」


「ば、バリスタ?」


「コーヒーを淹れる人、という意味です。——何がお好みですか? 甘いのがお好きなら、キャラメル・カフェラテがおすすめですよ」


 午前中だけで、三十人のお客様が来てくれた。


 最初は恐る恐るだった領民たちも、一口飲んだ瞬間に表情が変わった。


「なんだこれ! 苦いかと思ったら、甘い!」


「ミルクがふわふわしてる!」


「これが、コーヒーってやつか……」


 嬉しい。


 本当に、嬉しい。


 王都の社交界では、誰も私の一杯を『美味しい』と言ってくれなかった。いや、要人たちは喜んでくれていたけど、それは裏方の仕事だったから、表立って評価されることはなくて——。


「お嬢様」


 レオンが、カウンター越しに小声で言った。


「また、お客様です」


「ありがとう。——いらっしゃいま……」


 言葉が、途中で止まった。


 扉を開けて入ってきたのは、見慣れない青年だった。


 艶のある漆黒の髪。深煎りコーヒーのような、深い茶色の瞳。質素な旅装だが、所作の端々に隠しきれない育ちの良さが滲んでいる。


 そして——その瞳が、まっすぐに私を捉えた。


「……ここが、噂のカフェか」


 低く、落ち着いた声。


 私は、咄嗟に背筋を伸ばした。


 ——この人、只者じゃない。


 前世でバリスタをしていた頃に培った、人を見る目がそう告げている。


「いらっしゃいませ」私は微笑んだ。「ご注文は?」


「……カフェラテを」


「かしこまりました」


 豆を挽く。エスプレッソを抽出する。ミルクをスチームする。


 全ての工程を、丁寧に、心を込めて——。


 カップに注ぐ。今日の図柄は、シンプルなハート。


「お待たせしました」


 青年が、カップを受け取った。


 一口、飲む。


 そして——。


「……完璧だ」


 彼の瞳が、驚きに見開かれた。


「エスプレッソの抽出温度、ミルクのスチーム具合、注ぐ速度——全てが完璧なバランスだ。こんなカフェラテは、隣国の王宮でも飲んだことがない」


 ——え。この人、相当詳しい。


 いや、詳しいどころじゃない。プロ並みの分析だ。


「……お詳しいんですね」


「少しな」


 青年が、ふっと笑った。


 その笑顔が、意外に人懐っこくて——私は、少しだけドキッとした。


「名前を聞いても?」


「カイル。——ただの、旅人だ」


 嘘だ。


 直感が、そう告げている。この人は、ただの旅人なんかじゃない。


 でも——まあ、いいか。


 お客様のプライバシーを詮索するのは、バリスタとして野暮というもの。


「カイルさん、ですね。ご来店ありがとうございます」


「また来てもいいか」


「もちろん。お待ちしております」


 青年——カイルは、最後の一滴まで飲み干すと、立ち上がった。


 そして、扉に向かいながら、ふと振り返った。


「……君を、雇いたい」


「はい?」


「いや、なんでもない。——また来る」


 鈴の音とともに、彼は去っていった。


 私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 ——雇いたい? 私を? 誰に?


「お嬢様」


 レオンの声が、妙に固い。


「あの男、怪しいです。次に来たら、俺が——」


「レオン。お客様よ」


「……はい」


 不満そうに黙り込む幼馴染を横目に、私は窓の外を見た。


 カイルと名乗った青年の後ろ姿は、もう見えない。


 でも、なぜだろう。


 また会える気がする。いや——また会いたい、と思っている自分がいる。


 それは、彼のコーヒーへの深い造詣に興味を惹かれたから?


 それとも——。


「……次は、何を淹れようかな」


 私は、呟いた。


 新しい朝が、確かに始まっていた。



────────────────────



◇第三章「予期せぬ来客」——一杯のカフェラテに溶ける心



 カイルさんは、約束通りまた来た。


 それも、毎日。


「……また来たわね」


「悪いか」


「いいえ、全然。常連さんは大歓迎よ」


 開店から二週間。Café Soleilは、少しずつ軌道に乗り始めていた。


 朝は領民たちで賑わい、昼過ぎは近隣の商人や旅人が訪れる。そして夕方——閉店間際に、必ず彼が現れる。


「今日のおすすめは?」


「エチオピア産の豆を使ったカフェラテ。フルーティーな酸味が特徴よ」


「それを」


 豆を挽きながら、私はカウンター越しにカイルさんを観察した。


 相変わらず、質素な旅装。でも、仕草の端々に滲む気品は隠しきれていない。カップの持ち方、背筋の伸ばし方、会話の言葉選び——全てが、高い教育を受けた人間のそれだ。


 ——この人、絶対に貴族。いや、もっと上の身分かもしれない。


 前世の経験上、こういう『身分を隠している系』のお客様は珍しくなかった。政治家、芸能人、企業の社長——みんな、プライベートでは普通の客として扱ってほしいのだ。


 だから、私も詮索しない。


「はい、どうぞ」


 今日のラテアートは、コーヒーカップの形。


「……また、絵が変わっている」


「毎日同じじゃつまらないでしょ?」


 カイルさんが、珍しく声を出して笑った。


「君は面白いな」


「バリスタとして当然のことをしているだけよ」


「バリスタ?」


「コーヒーを淹れる専門家のこと。——あ、この国ではあまり馴染みがないか」


「いや、知っている。隣国——エスプレシア王国では、バリスタは宮廷でも重用される職業だ」


 ——へえ。エスプレシア王国、か。


 確か、コーヒー文化が根付いている数少ない国のひとつだったはず。王族自らコーヒーを愛飲しているとか——。


「詳しいのね」


「……少しな」


 また、その言い方。


 絶対『少し』じゃないでしょ、あなた。



 ◇ ◇ ◇



 日が経つにつれ、カイルさんとの会話は自然と増えていった。


「なぜ、コーヒーを?」


 ある夕方、彼が唐突に尋ねた。


「君ほどの腕なら、王都で活躍できたはずだ。なのに、なぜこんな田舎で店を?」


「……いろいろあったの」


「聞いてもいいか」


 私は、少し迷った。


 婚約破棄の話をするべきか。でも、それを言ったら、この人との関係が変わってしまうかもしれない。今の『ただの店主と常連客』という距離感が、私は心地よかったから——。


「……元々、私には夢があったの」


 結局、半分だけ話すことにした。


「自分の店を持って、自分の淹れたコーヒーで人を笑顔にすること。でも、いろんな事情で叶えられなくて」


「事情?」


「家の都合とか、いろいろ。——でも、やっと自由になれた。だから今、こうしてここにいる」


 カイルさんは、じっと私を見つめていた。


 深煎りコーヒーのような、深い茶色の瞳。その奥に、何か複雑な感情が揺れているように見えた。


「……自由、か」


「カイルさんは?」


「俺?」


「なぜ、旅を?」


 彼は、少しの間黙っていた。


 そして——。


「息苦しかったんだ」


 ぽつりと、呟いた。


「俺のいた場所は、全てが決められていた。話す相手も、食べるものも、着る服も。——自分の意思で何かを選ぶことが、許されなかった」


 私は、静かに頷いた。


 ——ああ、この人も同じなんだ。


 籠の中の鳥。黄金の檻。自分の人生を、自分で選べない苦しさ。


 それは、元婚約者として王太子の隣に立っていた私も、よく知っている感覚だった。


「だから、旅に出た。誰にも縛られない場所で、本当の自分が何を望んでいるのか、確かめたかった」


「……見つかった?」


「ああ」


 カイルさんが、まっすぐに私を見た。


「見つかった」


 その瞳の熱さに、私は思わず目を逸らした。


 ——ちょ、ちょっと待って。今の、どういう意味?


「君のカフェラテには、淹れた人の優しさが溶けている」


「……え?」


「初めて飲んだ時から、そう思っていた。苦さの奥にある温かさ。——俺の母が淹れてくれたコーヒーと、同じ味がした」


 母。


 彼が、初めて家族のことを話した。


「お母様も、コーヒーを?」


「ああ。母は平民の出だった。王宮では紅茶が主流だったが、母だけは密かにコーヒーを淹れ続けていた」


 ——王宮?


 今、王宮って言った?


「幼い頃、よく母の部屋でコーヒーを飲んだ。『これはお父様には内緒よ』と言いながら」


 カイルさんの表情が、どこか遠くを見つめている。懐かしさと、寂しさが混じった目。


「母は、俺が十二の時に亡くなった。それ以来、あの味に出会うことはなかった——君の店に来るまでは」


 私は、言葉を失っていた。


 この人にとって、私のカフェラテは——ただの飲み物じゃなかったんだ。


「……そう」


 やっとの思いで、それだけ言った。


「大切な記憶を、思い出させてしまったみたいね」


「謝らないでくれ」


 カイルさんが、微笑んだ。


 笑うと意外に人懐っこい、その表情。


「感謝している。君のおかげで、俺は母との思い出を取り戻せた」


 夕日が、窓から差し込んでいた。


 琥珀色の光が、彼の横顔を照らす。漆黒の髪が、オレンジ色に縁取られている。


 綺麗だ、と思った。


 ——あ。これ、まずいかも。


 私、この人のこと——。


「ミレーヌ」


 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。


「君に、話さなければならないことがある」


 彼の表情が、真剣なものに変わった。


「俺の本当の——」


 ガタン、と音がした。


 振り向くと、レオンが入り口に立っていた。いつもより険しい顔で。


「お嬢様。大変です」


「レオン? どうしたの」


「王都から、早馬が」


 レオンの声が、固い。


「王太子殿下が——ミレーヌお嬢様を、王都に呼び戻せと」


 空気が、凍った。



 ◇ ◇ ◇



「呼び戻す、ですって?」


 おばあ様——ベルナデットは、優雅にコーヒーカップを傾けながら、使者を見下ろしていた。


 私は、その隣に座っている。カイルさんは、いつの間にか姿を消していた。


「はい、大奥様。王太子殿下は、ミレーヌ様の帰還を強くお望みです」


 使者の声が震えている。おばあ様の威圧感に押されているのだろう。


「理由は?」


「そ、それは……来月の外交茶会にて、各国要人から『ラトリエール公爵令嬢の淹れる飲み物』のお問い合わせが相次いでおりまして……」


「あら。婚約を破棄しておいて、今さら都合の良いことですこと」


 おばあ様の声が、氷のように冷たい。


「私、覚えておりますわよ。あの夜会で、殿下が孫娘に何とおっしゃったか。『地味で退屈な女』でしたかしら? 『コーヒーは平民の泥水』とも」


「お、大奥様——」


「使者様」


 私は、静かに口を開いた。


「お伝えください。私はもう、王都には戻りません」


「しかし、ミレーヌ様。王太子殿下の命令——」


「殿下の婚約者は、プリシラ・ティーローズ嬢でしたわね」


 私は、微笑んだ。


 完璧な淑女の微笑みで。


「茶会のことは、その方にお任せすればよろしいのでは? 彼女、『紅茶文化の守護者』を自称しておられましたもの」


 使者の顔が、青ざめた。


 ——ああ、なるほど。もう何か問題が起きているのね。


「そ、それは……プリシラ様の茶会は……その……」


「何かあったのですか?」


「各国の要人の皆様が、『あの素晴らしい飲み物はどこへ行った』と……誰も紅茶に興味を示されず……」


(そりゃそうでしょうよ)


 内心でツッコミを入れる。


 私は三年間、各国要人の好みを全て把握していた。誰が甘党で、誰がブラック派か。誰がミルク多めを好み、誰がエスプレッソを愛飲するか。


 プリシラ嬢に、それがわかるはずがない。


「申し訳ありませんが」


 私は立ち上がった。


「私には、もう王都に戻る理由がありませんの。——お引き取りください」


 使者は、何度も頭を下げながら去っていった。


 扉が閉まると同時に、おばあ様が笑い出した。


「見事ですよ、ミレーヌ」


「おばあ様……」


「あの愚かな王太子が、今頃どんな顔をしているか。想像するだけで愉快ですわ」


 ——おばあ様、楽しそうすぎない?



 ◇ ◇ ◇



 その夜。


 私は、カフェの片付けをしながら、一人で考えていた。


 王太子殿下が、私を呼び戻そうとしている。


 外交茶会が崩壊しかけている。


 それは——予想通りではあった。でも、こんなに早く綻びが出るとは思っていなかった。


「お嬢様」


 レオンが、入り口に立っていた。


「まだ残っていたの?」


「……あの男のことです」


「カイルさん?」


 レオンの表情が、複雑に歪んだ。


「調べました。領内の宿屋に泊まっているのですが、身元が——」


「レオン」


 私は、彼の言葉を遮った。


「詮索しないで」


「しかし——」


「あの人が何者であっても、私には関係ないわ」


 嘘だ。


 本当は、知りたい。彼が何者で、なぜここにいるのか。なぜ、私に『雇いたい』などと言ったのか。


 でも——。


「私はただ、美味しいコーヒーを淹れたいだけ。それ以上のことは望んでいないの」


 レオンが、何か言いたげに口を開いて——閉じた。


 そして、低く呟いた。


「……俺は、お嬢様を守ります」


「レオン?」


「何があっても。誰が相手でも」


 彼の若葉色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。


 その瞳に、いつもとは違う熱がこもっているような気がして——。


「ありがとう、レオン。頼りにしてる」


 私は、笑顔でそう言った。


 それ以上の意味を、読み取らないふりをして。



 ◇ ◇ ◇



 翌日。


 カイルさんは、また来た。


「昨日は、急に消えたわね」


「……すまない。事情があった」


 私は、いつも通りカフェラテを淹れた。


 今日のラテアートは——月と星。


「綺麗だ」


「ありがとう」


 しばらく、沈黙が流れた。


 そして——。


「ミレーヌ」


「なに?」


「王都から使者が来たと聞いた」


 私は、手を止めた。


「……情報が早いわね」


「君は、戻らないのか」


「戻る理由がないもの」


「そうか」


 カイルさんが、カップを置いた。


「なら——俺の国に来ないか」


 時が、止まった。


「……え?」


「君を迎えたい。俺の——いや、エスプレシア王国の、宮廷バリスタとして」


 私は、彼を見つめた。


 深煎りコーヒーのような瞳が、真剣な光を湛えている。


「カイルさん、あなた——」


「俺の名は、カイル・ノワゼット・エスプレシア」


 彼が、静かに名乗った。


「エスプレシア王国の、国王だ」


 店内の空気が、一変した。


 ——知ってた。いや、薄々感づいてはいた。でも、国王って。国王って!


(ちょっと待って。私、国王相手にタメ口きいてた? いや、敬語ではあったけど、でも——)


 内心でパニックに陥りながらも、私は表情を崩さなかった。


 前世で培った接客スキル、ありがとう。


「……驚いた」


「そうか」


「でも、お断りします」


 今度は、彼が驚く番だった。


「断る?」


「私、もう誰かの言いなりになるのは嫌なの」


 私は、まっすぐに彼を見つめ返した。


「王太子殿下の婚約者として三年間、自分を殺して生きてきた。やっと自由になれたのに——また誰かの所有物になるなんて、ごめんよ」


 カイル——いいえ、カイル国王陛下は、しばらく黙っていた。


 そして——。


「ならば、所有物ではなく」


 低い声が、私の心臓を揺らした。


「対等なパートナーとして、傍にいてほしい」


 その言葉に、嘘はなかった。


 彼の瞳が、まっすぐに私を見ている。国王としての威厳ではなく、一人の人間としての誠実さが、そこにあった。


「……考えさせて」


「ああ。待つ」


 彼が立ち上がる。


 扉に向かいながら、振り返った。


「君のカフェラテのように——苦さの後に残る甘さを、俺は一生かけて味わいたい」


 鈴の音とともに、彼は去った。


 私は、カウンターに手をついた。


 心臓が、うるさいほど鳴っている。


 ——なにそれ。なにそれ、ずるい。


「お嬢様……」


 いつの間にか、レオンが入り口に立っていた。


 彼の顔色が、蒼白だった。


「今の話、聞いていたの?」


「……はい」


 沈黙。


 重い、沈黙。


「レオン——」


「俺は」彼が、絞り出すように言った。「お嬢様の決めたことに、従います」


「レオン……」


「でも——」


 彼の拳が、白くなるほど握りしめられている。


「お嬢様が幸せなら、それでいいです。それだけが、俺の願いですから」


 彼は、背を向けた。


 その背中が、小さく震えているように見えた。


 ——ああ、レオン。


 私は、彼の想いに気づいていなかったわけじゃない。


 幼い頃からずっと傍にいてくれた。泣いている私に、『大人になったら騎士になる』と約束してくれた。私のカフェラテを、最初に『美味しい』と言ってくれた。


 でも——。


 ごめんね、レオン。


 私は、あなたの想いに応えられない。


 夕日が沈んでいく。


 橙色の光が、店内を染めている。


 新しい夜が、始まろうとしていた。



────────────────────



◇第四章「苦味の果て」——崩壊する王国と、遅すぎた後悔



 ◆◆◆ 王都・王太子の執務室 ◆◆◆



「何故だ……何故上手くいかない……!」


 アルベルト・フォン・クラウディスは、執務机に拳を叩きつけた。


 金髪が乱れ、碧眼は血走っている。王族らしい優雅さなど、もはやどこにもなかった。


「殿下、落ち着いてください」


 傍らで、プリシラ・ティーローズが青ざめた顔でおろおろしている。


「落ち着いていられるか!」


 アルベルトが、書類の山を払いのけた。


 通商条約の草案。国境問題の報告書。そして——各国要人からの苦情の手紙。


『先日の茶会は、いかがなものか』

『我が国の大使は、紅茶ではなく、以前のあの飲み物をご所望である』

『ラトリエール公爵令嬢はどこへ行ったのか』


 全て、同じことが書かれていた。


 ミレーヌ・ラトリエールを返せ、と。


「たかが飲み物だ……! たかが飲み物で、外交が崩れるはずがない……!」


「で、でも殿下、先日の茶会では——」


「黙れ、プリシラ!」


 彼女が、びくりと肩を震わせた。


 先日の茶会。


 プリシラが『紅茶文化の真髄』を披露するはずだった、その茶会。


 結果は、惨憺たるものだった。


 各国の要人たちは、紅茶を一口飲んで、怪訝な顔をした。『これは……違う』と。


 彼らが求めていたのは、紅茶ではなかった。ミレーヌが一人一人の好みに合わせて淹れていた、特別な一杯——カフェラテだったのだ。


 しかし、プリシラはそれを知らなかった。


 アルベルトも、知らなかった。


 誰も、気づいていなかったのだ。『地味で退屈な女』が、どれほど王国の外交を支えていたかを。


「あの女を連れ戻せ」


 アルベルトが、低く命じた。


「使者を送ったではありませんか。断られましたが——」


「なら、力ずくで連れて来い!」


「殿下」


 冷たい声が、割って入った。


 振り向くと、王弟ヴィクトルが扉の前に立っていた。灰色の瞳が、兄を冷ややかに見つめている。


「力ずくで? 公爵家の令嬢を?」


「ヴィクトル……」


「それこそ、各国の笑いものですよ。婚約を破棄しておいて、外交に困ったら力で連れ戻す——王族として、これ以上の醜態はない」


 アルベルトの顔が、朱に染まった。


「何を……!」


「だから言ったではありませんか」


 ヴィクトルが、溜息をついた。


「あの夜会で。『それは取り返しのつかない判断では』と」


 ——だから言ったのに。


 その言葉が、アルベルトの胸に突き刺さった。


「兄上」ヴィクトルが、静かに告げた。「もう遅いのです。ミレーヌ嬢は、二度と戻ってきませんよ」



 ◇ ◇ ◇



「遅い……はずがない……」


 その夜。


 アルベルトは、一人で執務室に籠もっていた。


 机の上には、古い書類が散らばっている。外交資料。各国要人のリスト。茶会の準備計画——。


 全て、ミレーヌの筆跡だった。


「……なんだ、これは」


 初めて、その量に気づいた。


 膨大な資料。緻密な分析。一人一人の要人について、好みや性格、アプローチ方法まで細かく書き込まれている。


 これを、彼女は一人で——?


「私が準備した外交資料を自分の手柄として……」


 不意に、誰かの言葉が蘇った。いや、それはミレーヌが言ったことではない。彼女は何も言わなかった。


 ただ、黙って資料を作り続けていた。


 アルベルトがそれを自分の手柄として提出している間も、何一つ文句を言わずに。


「……なぜだ」


 なぜ、気づかなかったのだろう。


 彼女の価値に。彼女の献身に。彼女の——。


「殿下」


 ノックの音とともに、侍従が入ってきた。


「新しい報告です。エスプレシア王国の国王陛下が、ラトリエール領を訪問されているとのこと」


 アルベルトの目が、見開かれた。


「エスプレシアの国王が……? なぜ、あんな田舎に……」


「それが……ラトリエール公爵令嬢の開いたカフェに、連日通われているとか」


 カフェ。


 ミレーヌのカフェ。


 そして——隣国の国王。


「まさか……」


 アルベルトの顔から、血の気が引いた。


「あの女……隣国と……」


 違う。そうではない。


 ミレーヌがどうこうする前に、自分が彼女を捨てたのだ。


 『地味で退屈な女』と嘲り、公衆の面前で辱めたのだ。


 そして今、その『地味で退屈な女』を、隣国の国王が——。


「……あの女を」


 絞り出すように、呟いた。


「あの女を、連れ戻せ……!」


 しかし、その命令が実行されることはなかった。


 すでにミレーヌは、公爵家の正式な庇護下にあった。祖母ベルナデットの根回しにより、王太子といえども手出しできない状況が整えられていたのだ。


 そして——。



 ◇ ◇ ◇



「殿下! 大変です!」


 数日後。


 プリシラが、血相を変えて飛び込んできた。


「何事だ」


「私が……私が、ミレーヌお姉様を陥れた証拠が……!」


 アルベルトの眉が、ぴくりと動いた。


「何の話だ」


「あの……その……」


 プリシラが、おどおどと視線を泳がせる。


 その瞬間、扉が開いた。


 ヴィクトルが、数枚の書状を手に入ってくる。


「兄上。これを」


「何だ」


「プリシラ・ティーローズ嬢が、ミレーヌ嬢を陥れるために偽造した手紙です。『ラトリエール公爵令嬢が王家への反逆を企てている』という内容で、各所にばら撒こうとしていたようですね」


 アルベルトの目が、大きく見開かれた。


 そして——プリシラを見た。


「プリシラ。これは、本当か」


「ち、違います! 私は、ただ——」


「『ただ』、何だ」


 アルベルトの声が、低く冷たくなった。


「私は、ミレーヌを追い出したかった。だから、お前の言葉を信じた。『あの方は殿下に相応しくない』『私の方がお傍に相応しい』と」


「そ、それは——」


「だが、これは話が違う」


 アルベルトが、立ち上がった。


 金髪碧眼の美貌が、怒りに歪んでいる。


「偽の手紙をばら撒き、公爵令嬢を罪人に仕立て上げようとした? それはもはや、私への裏切りだ」


「殿下、お待ちください! 私は殿下のために——」


「お前のせいだ」


 冷たい宣告が、落ちた。


「お前のせいで、私は判断を誤った。お前のせいで、王国の外交は崩壊しかけている。——全て、お前のせいだ」


 ヴィクトルが、静かに目を伏せた。


 ——愚かな。どちらも。


 ミレーヌ嬢を陥れようとしたプリシラも。


 そして、その甘言に乗って彼女を切り捨てた兄も。


 プリシラの顔が、蒼白になっていく。


「殿下……私を、お捨てになるのですか……?」


「婚約は破棄する。ティーローズ伯爵家には、相応の処分を下す」


「そんな……そんな……!」


 彼女の縦ロールが、ぐしゃりと崩れた。


 『社交界の白薔薇』の仮面が、剥がれ落ちていく。


「私が……私がどれだけ殿下のために……!」


 アルベルトは、もう彼女を見ていなかった。


 窓の外を、ぼんやりと眺めている。


 その目に映っているのは——かつて婚約者だった、蜂蜜色の髪の女の姿だったのかもしれない。


 もう二度と、手の届かない場所にいる女の。



 ◆◆◆ ラトリエール領・Café Soleil ◆◆◆



 同じ頃。


 私は、カフェのカウンターで新しいブレンドの試作をしていた。


「お嬢様」


 レオンが、書状を持ってきた。


「王都からです」


「また王太子殿下から?」


「いいえ。王弟殿下からです」


 ——ヴィクトル殿下?


 私は、封を開けた。


 短い手紙だった。


『ミレーヌ嬢。兄の愚行を、心よりお詫び申し上げます。プリシラ・ティーローズの悪事は全て明るみに出ました。兄は今、深く後悔しております——が、それはもはや貴女には関係のないことでしょう。どうか、貴女の選んだ道で、幸せになってください。王弟ヴィクトル』


 私は、手紙を折りたたんだ。


「お嬢様?」


「なんでもないわ」


 窓の外を見る。


 午後の陽光が、通りを照らしている。行き交う人々。笑い声。コーヒーの香り。


 ——殿下が後悔している、か。


 三年前なら、その言葉に心が揺れたかもしれない。


 でも、今は——。


「もう、関係ないのよ」


 私は、呟いた。


 カップにエスプレッソを注ぐ。ミルクをスチームする。ゆっくりと、丁寧に。


 一杯のカフェラテが、完成した。


 今日のラテアートは——太陽。


 新しい朝を照らす、輝く太陽。


 扉の鈴が、鳴った。


 振り向くと、カイルが立っていた。


「また来た」


「いらっしゃい、陛下」


「……カイルでいい」


「じゃあ、カイルさん」


 彼が、カウンター席に座る。


 深煎りコーヒーのような瞳が、まっすぐに私を見つめている。


「答えは、出たか」


 私は、カフェラテを彼の前に置いた。


「……まだ」


「そうか」


 彼が、カップを手に取る。


 一口、飲む。


 そして——微笑んだ。


「待つと言った。いつまでも」


 その笑顔が、温かくて。


 私の心が、少しずつ溶けていくのを感じた。



────────────────────



◇最終章「甘い余韻」——自分で選んだ幸せを、自分の手で



 季節が、一つ過ぎた。


 Café Soleilは、今やラトリエール領の名所になっていた。


 近隣の領から、わざわざ訪れる客もいる。『あの素晴らしいカフェラテを飲みたい』と。


「お嬢様、また行列ができてますよ」


「わかってる。でも、一杯一杯丁寧に淹れないと意味がないの」


 私は、変わらずカウンターの中にいた。


 朝から晩まで、コーヒーを淹れ続ける毎日。大変だけど、幸せだ。


 自分の手で、自分の夢を叶えている——その実感が、何より尊い。


「ミレーヌ」


 午後三時。


 いつものように、カイルが現れた。


 もう、身分を隠す必要はなかった。彼がエスプレシア王国の国王であることは、領内の誰もが知っている。


 でも、彼は変わらず質素な服装で、カウンター席に座る。


「今日も、カフェラテを」


「はいはい」


 この数ヶ月で、私たちの距離は少しずつ縮まっていた。


 毎日のように店に来て、コーヒーを飲みながら話をする。お互いの国のこと。コーヒーの歴史。好きな本。くだらない冗談。


 彼は、私を対等なパートナーとして扱ってくれた。国王としてではなく、一人の人間として。


 それが——嬉しかった。


「ミレーヌ」


「なに?」


「今日、話がある」


 私の手が、一瞬止まった。


 ——来た。


 なんとなく、予感はあった。最近の彼の目には、いつも以上の熱がこもっていたから。


「……聞くわ」


 カフェラテを彼の前に置く。今日のラテアートは、二つのハートが寄り添う形。


 ——我ながら、わかりやすい。


「俺は——」カイルが、深呼吸をした。「君を、妃として迎えたい」


 店内が、静まり返った。


 他のお客様たちが、息を呑んでいるのがわかる。


「カイル……」


「宮廷バリスタではなく。対等なパートナーでもなく。——俺の妻として」


 彼の目が、まっすぐに私を見つめている。


 深煎りコーヒーのような、深い茶色の瞳。そこに、嘘はなかった。


「君のカフェラテのように」


 彼が、静かに言葉を紡いだ。


「苦さの後に残る、甘い余韻を。一生かけて、味わいたい」


 涙が、込み上げてきた。


 ——ああ、この人だ。


 私を『地味で退屈』だと蔑んだ人とは、違う。


 私の価値を、最初から見抜いてくれた人。コーヒーへの愛を共有できる人。そして——私を、私として愛してくれる人。


「……私」


 声が、震える。


「私、もう一度だけ、確認していい?」


「なんでも」


「私が、このカフェを続けることは——」


「当然だ」カイルが、即答した。「エスプレシアの王宮に、君のカフェを作ればいい。俺の国には、コーヒーを愛する民が大勢いる。彼らに、君の一杯を届けてほしい」


 ——この人は。


 本当に。


「私が、王妃として完璧じゃなくても——」


「完璧な王妃など要らない」


 カイルが、立ち上がった。


 カウンターを回って、私の前に立つ。


「俺が欲しいのは、君だ。コーヒーを愛し、心を込めて一杯を淹れる君。自分の夢を諦めず、自分の足で立ち上がった君。——ミレーヌ・ラトリエール、君という人間が欲しい」


 涙が、頬を伝った。


 嬉しくて。幸せで。そして——やっと、答えが出せた。


「……はい」


 私は、笑った。


 前世から通算して、一番幸せな笑顔で。


「カイル・ノワゼット・エスプレシア陛下。私、あなたのお妃になります」


 店内から、歓声が上がった。


 いつの間にか、レオンも入り口に立っていた。その若葉色の瞳には涙が光っていたけれど——彼は、静かに微笑んでいた。


「……おめでとうございます、お嬢様」


「レオン……」


「俺は、お嬢様の幸せを願うと言いました。——本当です」


 彼の声は、震えていなかった。


 覚悟を決めた、男の声だった。


「ありがとう、レオン」


 私は、心からそう言った。


 そして——カイルの手を取った。



 ◇ ◇ ◇



 その夜。


 おばあ様の屋敷で、ささやかな祝宴が開かれた。


「ようやくですね、ミレーヌ」


 ベルナデットが、コーヒーカップを傾けながら微笑んだ。


「おばあ様、知ってたの?」


「もちろん。カイル陛下が最初にこの領を訪れた日から、私は知っておりましたよ」


 ——さすが、元『影の女傑』。


「良いコーヒーは、良い縁を運ぶものです」


 おばあ様が、私とカイルを見比べた。


「私の言葉、間違っていなかったでしょう?」


「……はい、おばあ様」


 カイルが、私の手を握った。温かい手。


「ベルナデット様。孫娘を、お預かりします」


「ええ。どうぞ、よろしくお願いいたしますね」


 窓の外に、月が昇っていた。


 三年前の夜会と同じ、満月の夜。


 でも、今の私は——あの時とは、全く違う。


 自分で選んだ道を、自分の足で歩いている。


 自分で選んだ人の手を、握りしめている。



 ◆◆◆ エピローグ ◆◆◆



 それから一年後。


 エスプレシア王国の王宮には、小さなカフェができていた。


 『Café Soleil Royale』——王宮の太陽。


 私は今日も、そのカウンターに立っている。


「陛下、また抜け出してきたんですか」


「カイルでいいと言っただろう」


「公の場では陛下と呼ぶって、結婚式で約束したでしょ」


 カイルが、むすっとした顔でカウンター席に座る。


 ——結婚して一年。この人の『拗ねた顔』にも、だいぶ慣れた。


「今日のブレンドは?」


「新しく仕入れたイエメン産の豆を使ってるの。フルーティーで、後味に蜂蜜のような甘さが——」


「君みたいだな」


「……何が」


「甘くて、温かくて、ずっと味わっていたい」


 私の頬が、熱くなる。


「そういうの、一年経っても言うのやめてくれない?」


「やめない」


 カイルが、にやりと笑った。


 ——この人は。本当に。


「そうそう。王都から報告が来てる」


「王都?」


「うちの国じゃなくて、君の故郷の方。——元婚約者、どうやら完全に凋落したらしいぞ」


 私の手が、一瞬止まった。


「……そう」


「聞きたいか?」


「……少しだけ」


 カイルが、書状を取り出した。


「外交の失敗が続き、父王の信頼を失ったそうだ。王太子の座は王弟ヴィクトルに譲られ、本人は地方の領地に蟄居。かつての婚約者プリシラ・ティーローズは、実家ごと没落して、今は行方知れず」


 因果応報。


 自業自得。


 私が手を下したわけではない。彼らは、自分たちの傲慢さで、自ら滅んだのだ。


「……可哀想とは、思わないな」


 正直に、そう言った。


「当然だ」カイルが頷いた。「彼らは、君の価値を見誤った。その報いを受けただけだ」


「でも、ヴィクトル殿下が王太子になったなら、よかった」


「ああ。聡明な男だ。我が国との外交も、彼となら上手くいくだろう」


 私は、カフェラテをカイルの前に置いた。


 今日のラテアートは——王冠と、一杯のコーヒーカップ。


「……これは?」


「私たちの象徴。国王と、バリスタ」


 カイルが、目を細めた。


「君は、俺の妻であると同時に、このカフェのバリスタだ」


「そうよ。私にとっては、どっちも大事」


「わかっている」


 彼が、カップを手に取った。


 一口、飲む。


 そして——あの日と同じ言葉を、呟いた。


「……完璧だ」


「ありがとう」


 窓から、午後の陽光が差し込んでいた。


 温かい光。コーヒーの香り。そして、愛する人の笑顔。


 これが、私が自分で選んだ幸せ。


 自分の手で、淹れ直した人生。


「ねえ、カイル」


「なんだ」


「私、幸せよ」


 カイルが、カップを置いた。


 そして、カウンター越しに、私の手を取った。


「俺もだ。——君と出会えて、本当に」


 その瞳が、深煎りコーヒーのように深く、温かく、私を映している。


 苦さの後に残る、甘い余韻。


 それが、私たちの愛の形。


 一杯のカフェラテから始まった、苦くて甘い恋の物語——。

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― 新着の感想 ―
とても楽しいお話でした♪ ‥が‥だいぶ混乱((。_。).。o? ヴィクトル様は王弟←表記 でも王太子を兄と呼ぶ 何故?? ヴィクトル様が王弟なら 王太子アルベルトは甥っ子では 無いのかなぁ?? アルベ…
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