優雅な朝の序曲《オーバチュア》3
怒涛の朝食を終えたディランは、軍に用事があると言って出掛けてしまった。リシェルはケイを引き連れ、さっさと自室に籠ることにした。夫婦共用の寝室の隣、妃殿下用の居室だ。
気配を読むことに長けているケイが、周囲の様子を伺いながらしばし間を置いたあと、嫌そうに呟いた。
「何アレ。ヤバすぎだろ。さすがリシェル、変なの引き当てる天才だな。まさしく黒鍵のエースだわ」
「全っ然褒めてない褒め言葉をありがとう! っていうかあんたもなに律儀にアゼルに給仕の仕方とか教わってるのよ」
「仕方ねぇだろうが。オレの肩書きは妃殿下付きのメイドなんだ。しかもこの離宮で唯一の女の使用人だぞ」
「は? 女性の使用人いないの? なんで?」
「ここの使用人はすべて退役軍人で固めてるんだと。さっきアゼルとかいう奴が言ってた。くそっ、昨日から全然メイド仲間に会わないからおかしいと思ってたんだ」
「何それ、普通の使用人は信用がおけないから身内ばかり置いてるってこと?」
「昔はただの使用人もいたけど、みんな不審な死を遂げたらしいぜ。あの隻眼野郎、オレを一瞥して、“あなたにも護衛をつける予定だったのですが、必要なさそうですね”、だと。さしずめ全員皇子に巻き込まれて殺されたってとこじゃね?」
ずいぶんときな臭い雇用状況に眉を顰める。大陸一の栄華を極めるエルネスト皇国の皇宮内は、どうやら安全からは程遠いらしい。
「ねぇケイ、いったいどこまでバレてると思う?」
「さてな」
やる気のない返事にむっとするも、彼にも不明ということなのだろうと思い直す。不確かなことは口にしないのがケイの信用がおける点だ。この年で譜めくり係に任命されるだけのものが彼にはある。
リシェルとケイが殺し屋だということが知られてしまったのはもう間違いない。だが、黒鍵の存在にまではまだ届いていないものと信じたい。ディランは先ほど寝室で、リシェルの背後関係について興味があると呟いていた。あの姿に嘘があるようには見えなかった。
「このまま演奏を続けていいものなのかしら。楽器に計画が筒抜けで、なおかつ傍に留め置かれるなんて、前代未聞よ」
「おまけに、“殺してくれ”ってラブコール付きだ。女冥利に尽きるじゃねぇか」
せせら笑うケイのことを全然笑えなかった。とはいえこの件の演奏家は自分だ。ケイは自分とともに行動することを組織から命じられているようだから、二人して留まるか立ち去るかを決めるのはリシェルの役目になる。
「神父様に連絡が取れればいいのだけど……」
暗殺組織・黒鍵を率いるその人を思い浮かべるも、できないことだと息を吐く。
一度黒鍵から演奏の旅に出たら、何があっても組織に連絡を取ったり舞い戻ったりしてはいけないのが掟だ。演奏家は常に自分の考えと責任で行動し、依頼を成し遂げるまで組織に戻ることは許されない。
したがってイレギュラーだらけの今回の依頼の遂行の可否も、リシェルひとりの肩にかかっている。
「よし、決めた」
即断即決。リシェルのいつものやり方だ。目の前でケイがものすごく嫌そうな顔をした気もするが気にしない。
「計画通り、ディラン皇子を殺すわ。それまで黒鍵には帰らない」
「できるのか? 呪われた皇子は死なないんだろう?」
「そんなのただの迷信に決まってる。エルネスト軍やあの人が強いのは事実かもしれないけど、不死身の人間なんていないもの。やり方を選べば、ちゃんと殺せるはずよ」
「ふーん。ならリシェルはあのお綺麗な皇子サマを愛するつもりなんだ」
「な……っ! 馬鹿なことを言わないでよ!」
「だってあの皇子サマ、なんかエロい感じに言い切ってたじゃん。“自分を殺したいなら自分を愛さなきゃ”って。リシェルがあいつを演奏したいなら、あいつのことを好きにならなきゃいけねぇってことじゃねぇの?」
「どこの世界に楽器を好きになる演奏家がいるって……っ」
勢い言い返そうとしてはっと息を詰めた。飛び出した言葉を回収しようとしても、すでに手遅れだ。
不用意な発言が引き金となって蘇った記憶の中で、穏やかに微笑む少女の影が揺れた。かつてのリシェルが姉とも慕っていた、遠い幻。
どくり、と心臓が脈打つ。
いけない、思い出してはならない。その先には何もなく、振り返れば深い悔恨しか残っていない道で、迷ってしまえば自分は二度と戻ってこられなくなる——。
記憶の中の陰影がくっきりと姿を象りそうになるのを、反射的に遮断した。
「……私はそうはならないわ、絶対」
顔を上げた彼女の碧い目には、演奏家としての怜悧な光が戻っていた。
「とにかく、策を練りましょう。楽器を演奏する手段が、必ずあるはずよ」
◆◆◆◆
そうしてケイと二人、あらゆる暗殺方法を考えては実践するのを繰り返して一ヶ月目——。
第一皇子妃としての初めての公の舞踏会で、リシェル妃殿下は巧みな演奏どころか、華麗なる飛び込みと寒中水泳の技を披露することになってしまったのである。
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序曲
オペラやオラトリオなどの最初に演奏される曲。作品の世界観へと誘う導入の役割を持つ。