優雅な朝の序曲《オーバチュア》2
幸いなことに飲み干していたカップは、バルコニーの床に落ちても割れることはなく。
何事もなかったかのようにアゼルが回収して、新たな空のカップがリシェルの前に置かれた。
「妃殿下、コーヒーのおかわりはいかがですか。それとも紅茶に変更しましょうか」
「……いえ、コーヒーでお願い。眠気がおもいっきり吹っ飛ぶような、濃いものを」
リシェルの要望を受けて、皇子の背後でケイが新たなコーヒーの準備を始めるのが見えた。尋常じゃない量の粉がドリッパーに注がれている。さすがはリシェルの譜めくり係だ。
「それで、殿下。今、何かおかしな言葉が聞こえたようなのですが」
「おや、耳が遠いのかな? リシェルはまだ若いのに。あぁ、それとも十八という年齢も詐称しているのだろうか」
「いえ、そこは間違いありませんのでご安心を。それで、話の続きをぜひともお願いしたく。何やら物騒な言葉が聞こえた気がしまして」
「物騒というのは、初夜の席で君が私を殺そうとしたことを指すのかな」
「そのことはもう良いのです。不慣れな私がすこーし取り乱しただけのこと。新妻のミスをいつまでも笑っていては夫婦円満は成り立ちませんわ」
「なるほど、確かにそうだ。妻の手料理がどれだけおいしくなかろうと、夫たるもの口を挟んではならないと、“夫の心得”八十三ページにも書いてある」
「殿下ご愛読の教本のことは一旦置いておきましょう! 話が進みません!」
いったいエルネスト皇家は自国の皇子にどんな教育をしているのか。家庭教師もおかず教本丸投げとかではないだろうなと苛立たしく叫べば、新たなコーヒーを注ぎにきたアゼルが申し訳なさそうに謝罪した。
「ディラン殿下は十三の年から戦場に駆り出されておりましたので、いろいろ教育が間に合っておらず……特に情操教育や色恋沙汰に関する教えはまったくなされておりません」
「十三ですって!?」
それでは今のケイとほとんど変わらないではないか。ケイや自分が初めて任務に出されたのは九歳のときだからもっと過酷ではあるが、自分たちは物心ついたときから暗殺者として黒鍵内部で訓練されてきた孤児だ。一国の皇子とは事情が違う。
衝撃的な話に、ふと思い出したことがあった。エルネスト皇国が狂ったように他国を侵略し始めたのはここ十年のこと。それまでは小競り合い程度の進軍をすることはあれど、いたって平和な国だった。
アゼルの話によれば、現在二十三歳のディラン皇子が初陣を飾ったのは十年前。辻褄は合う。
「……白き悪魔や軍神殿下の名前は、伊達ではなかったってことね」
ディランが戦場に立つようになってから、エルネスト皇国は強くなった。そのことを噛み締めていると、彼がふっと笑みを溢した。
「どれも今まで散々言われてきた二つ名だけど、妻に呼んでもらえるのはまた格別だね」
「……」
自分は今、夫のことを褒めたのだろうか。そんなつもりはなかったのだが。
なんにせよ、演技でなく嬉しそうに頬を染める男が只者ではないことだけは確かだ。
ある意味不気味な夫の次の出方を待った。ただの朝食の席のはずが、完全に腹の探り合いになっていた。もっとも昨晩だってただの初夜のはずだったが、暗殺未遂の場に成り代わっている。
だが主導権を取られたからといって諦めるつもりはない。リシェルの演奏はまだ終わっていないはずだ。
ディランはデザート皿に盛られた苺を手に取り、自身の口に放り投げた。ゆっくりと咀嚼しながらふっと瞳を緩める。
「さっきも言った通り、君に殺されるのはとても嬉しい。だから遠慮なくどうぞと言いたいんだ」
「……突っ込み所はありますが、続きをお聞きしましょう」
「あぁ、君の気持ちはよくわかっているつもりだよ。殺すことで僕のことを愛そうと努力してくれているんだよね」
「なんでそうなる!?」
優雅に続きをお聞きしている場合ではなかった。崩れ落ちた伯爵令嬢の設定をさらに足蹴にして、リシェルは立ち上がった。
「あなた、わかってるの!? 私はあなたを殺そうとしたのよ! それがなんで、“愛する”なんて話になるの! っていうかなんで私は今、拘束されてないわけ? あんなオモチャのような足枷でどうにかできるって、そもそも思ってなかったんでしょう!?」
弾みでがちゃりと食器が音を立てる。皇子の背後では無表情のアゼルと、「あちゃぁ」とばかりに顔を顰めるケイの姿。きっとあとで短気を盛大に怒られることだろう、六つも年下のあの子に。
叫び過ぎて息を乱したリシェルに対し、ディランは優雅な仕草でまた苺を食べた。
「僕の妻はずいぶん情熱的な人だったようだ。足枷のプレゼントも気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」
「質問の答えになってないわ。どういうつもりなの!」
取り繕うことを諦めたことで敬語すらも飛んでしまったリシェルの口に、小さな苺がひとつねじ込まれた。反射的に噛めば、甘酸っぱい果汁がじわりと口の中に広がった。
「僕はね、死んでみたいんだ」
「……は?」
「だけどなかなか死ねないんだよ。“呪われた皇子”だからね」
ぽかんとしながらもなんとか苺を飲み下したリシェルは、“呪われた皇子”の記憶を引っ張り出した。
白い髪と赤い瞳は、エルネスト皇家の血筋にはない。
だが、何世代かにひとり、そうした容姿の皇子が生まれるのだという。
かの者が生まれし時代は荒れると、歴史が語っている。ゆえに人々は彼を「呪われた皇子」と呼ぶ——そんな伝承だ。
「馬鹿な……ただの言い伝えでしょう」
「それが、なかなかしぶといくらい本当なんだよ。君も聞いたことがあるんじゃない? “呪われた皇子は絶対死なない”って」
もちろん知っている。暗殺の標的——所属する裏組織・黒鍵の符牒で“楽器”と呼ぶ——についての情報を頭に叩き込むのは、基本中の基本だ。
ここ十年で、大陸のあらゆる国々を制圧し続けているエルネスト皇国。常勝を誇るエルネスト軍を率いるのが、第一皇子であるディラン将軍だ。
戦場にも映える白い髪と血の色の瞳、女性と見紛う中性的な美貌。
皇子という肩書きもさることながら、彼を有名せしめているのはその類い稀なる強さだった。軍の将として、本来なら後衛で守られるべき存在であるにもかかわらず、彼の姿は常に前線にあるという。
剣を振り、雨霰と降り注ぐ矢を掻い潜り、猛き軍馬で真っ先に敵陣を貫くその戦いぶりは、死をも恐れぬ悪魔の所業。大陸で厚く信仰される慈愛の女神に見放された身で、悪魔と契約を交わしたとさえ言われる彼は、敵陣から「白き悪魔」と呼ばれながら、どれほどの難局であっても平然と切り抜けてきた。
そこから畏怖の念とともに広がった噂が、「呪われた皇子は絶対に死なない」というものだ。
だがそんな伝承を学びながらも、リシェルは冷めた態度で受け止めていた。元よりそんな伝承を怖がるようなやわな体質ではない。
何より “黒鍵”に所属する暗殺者たる自分が、そんな不確かな情報に振り回されるわけにはいかない。
噂は所詮、噂。リシェルは自分の目で見て耳で聞いたものを優先する。そうしなければ足元を掬われるのは自分だ。
「でも、死ななかっただろう?」
立ち上がったままのリシェルに、けれどディランはそう問いかけた。そうだ、確かにこの男は昨日、リシェルが焚いた毒の香で死ななかった。それはその通りなのだが。
(絶対に死なないって——殺せないってこと? そんなことあるの……?)
言葉を無くしたリシェルの口に、ディランはまたひとつ苺を押し込んだ。
「とはいえ、新妻をいじめるのは僕の趣味じゃない。君に秘策を授けよう。僕を殺せる方法がひとつだけある」
「え……」
スローモーションのように動く彼の指だけでなく、紅玉の瞳がいつの間にか眼前に近づいていた。
なぜか動けなくなってしまったリシェルの前で、苺を写し取ったような彼の赤い唇がゆっくりと開かれた。
「僕を殺す方法——それは僕を愛すること。僕は、僕を愛する人にしか殺せない呪いをかけられているんだ。慈愛の女神によってね」
苺が押し込まれた隙に彼の指で唇を撫ぜられ、なぜかリシェルの心臓がとくりと音を立てた。