優雅な朝の序曲《オーバチュア》1
コポコポコポと優しい音を立てて、リシェルのカップにコーヒーが注がれる。白磁のポットを操るのは、いつの間にか高くなっていた陽光を受けて白い髪を煌めかせる皇子様、その人。
「君もコーヒー派と知れて嬉しいよ。僕たちの共通点がひとつ増えたね」
「まぁ、私も嬉しく思いますわ。ディラン殿下」
差し出されたカップを受け取りつつ、「にいづま……私は新妻」と昂る己を繰り返し沈めながら優雅に微笑めば、リシェルの前にふわふわのワッフルを載せた皿がサーブされた。
「ソースは三種類から選べます。ラズベリー、チョコレート、はちみつ。どれになさいますか、リシェル妃殿下」
「はちみつを頂くわ。えっと、あなたは確か、結婚式で殿下の介添人を務めていらした……」
「アゼル・ヴァロワと申します。ディラン殿下の侍従を務めております。どうぞお見知りおきを」
丁寧に頭を下げた男に気取られないように、頭の先から爪先まで観察する。
背はディランと同じほど。すらりとした体躯ながら肩幅はしっかりしている。伸びかけた黒髪を肩口で結んでおり、片方だけ晒された瞳は琥珀色。もう片方は前髪と黒い眼帯に覆われ、その下の皮膚には古そうな傷跡があった。
「その傷跡は……」
思わず口にすれば、アゼルは「お見苦しいものを申し訳ありません」と謝罪した。
「いえ、そういう意味ではなかったの。その、今も痛むのだとしたら大変だと思って」
「ご心配ありがとうございます。ですが、よほど冷え込むような夜以外は、特に気になりません」
「ならよかったわ。私の故郷では薬に使われる薬草の研究が盛んだったの。古い傷跡に効くものもあるから、あとで差し上げるわ」
「あぁ確かに、オルディア伯爵家は代々薬師を多く輩出しているという、そういう設定でございましたね」
「設定……」
「失礼いたしました。設定ではなく、事実でした」
優雅に給仕を終えたアゼルはワッフルにはちみつをかけたあと、一歩下がった。食事の準備もメイドの仕事になると、見学同席を促され控えていたケイの表情が、心なしひくついたように見える。
バルコニーからボディスーツとスカートを切り離した元メイド服で逃走しかけたリシェルとケイは、いつの間にどうやって準備されたのかわからぬ朝食の席につかざるを得なかった。
最終のテーブルチェックがなされている間に、部屋に逆戻りして簡素なドレスと本来のメイド服に着替えることを許されたのが、せめてもの救いと言えるのか言えないのか。
「アゼルは僕の元部下なんだ」
「元部下、でございますか?」
こうなればヤケで朝食は食べてしまおう、腐ってもエルネスト皇国の離宮のおもてなしだと開き直ったリシェルは、完璧なマナーでワッフルを切り分けた。さすがは皇城、はちみつは高級品で、ワッフルの焼き加減も絶妙だ。
「彼は元々軍人だったんだよ。だけど目の怪我のせいで引退せざるを得なくなってしまってね。だから侍従として離宮で雇うことにしたんだ。信頼のおける人間というのは貴重だからね」
「……左様でございますか」
痛烈な皮肉ともとれるディランの説明に、リシェルは無表情になった。皇子といい侍従といい、こちらの手の内をいくらか読んでいることだけは確かなようだ。
それがどこまでの情報か。リシェルとケイが偽物の伯爵令嬢とメイドであることは知られているとして、真の正体までバレていると考えるべきか……結論を出すにはもう少し情報が必要だ。
馥郁とした空気が十二月のバルコニーに流れる。コーヒーも朝食も実に美味しかった。遅効性の毒が仕込まれている可能性もないわけではないが、リシェルの身体は大陸のあらゆる毒に慣らされているので大事にはならない。
ぴりぴりとした緊張感の中、正面席に座る夫を今一度眺めた。この男もまた、リシェルが所属する暗殺組織“黒鍵”秘伝の毒を見破り、かつ死ななかった。加えて暗殺を試みたリシェルとその仲間であるケイを捕縛することもしない。
単純な計画のはずだった。エルネスト皇国第一皇子を暗殺する、ただそれだけの仕事。
怪しまれずディランに近づくため、ラビリアン王国のオルディア伯爵令嬢の身分に擬態し、輿入れする手筈を整えた。ちなみにオルディア伯爵家は実在するし、リシェルという娘も確かにいる。だがかの家は数ヶ月後に取り潰しになる予定だ。あまり身綺麗ではない伯爵家には別口の演奏依頼が出ており、“黒鍵”の別のメンバーがすでに潜り込んで調整中である。
戦争の影響で若い男性が目減りしたラビリアン王国の貴族の娘たちが、嫁ぎ先を国外へと求めているという本当の事情も利用して、リシェル・オルディア伯爵令嬢はエルネスト皇国に縁を求めた。そこに食いついた皇国のロクサーヌ皇妃の鶴の一声で、この縁組は整った。
パズルをはめこむかのようにうまく興した譜面。それをふいにしてくれた男を強く睨みつける。
皇子にも侍従にもバレているなら、これ以上取り繕う必要もない。こっちが殺されるならそれまでだ。
所詮自分たちは孤児上がりの、訓練された演奏家。リシェルが失敗すればまた別のメンバーが派遣されることだろう。とはいえ、自分を育ててくれ、自分のことを「“黒鍵”のエースに相応しい」と称賛してくれた神父のことを思うと、申し訳なさが過る。
そんなリシェルの感傷に気づくことなく、ディランはコーヒーのおかわりを注いだ。
「さて、夫婦揃っての初めての朝だ。お互いの事情の擦り合わせでもしておこうか。知ってる? 夫婦の諍いは、初めは小さなすれ違いに過ぎないそうだよ。それが芽吹いて大きくなり、取り返しのつかない事態に発展する——なんとも恐ろしい話だよね。“夫の心得”の教本を読みながら、背筋が凍りそうになったよ」
カップに巻き付く指の形までも忌々しいほどに美しい夫は、よほどあの教本に心酔しているらしい。
自分は死んでも読むものかと思いながら、「賛成ですわ」と返事してカップに口をつけた。
さて、どんな事情が飛び出してくるのか。形のいい顎をつん、と逸らしてみれば。
「最初に言っておくよ。君が僕を殺そうとしてくれること、嬉しくて嬉しくてたまらないんだ。だから思う存分殺りにきてほしい。遠慮なくね」
予想の斜め上の台詞が飛び出して、リシェルの手からカップが滑り落ちた。
同時に、完璧な元伯爵令嬢である設定とやらもまた、音を立てて崩れ落ちた。