女神が奏でる鎮魂歌《レクイエム》3
SIZURU様より美麗なファンアートを頂戴しました! 作家人生初のファンアートで舞い上がっております。ありがとうございます!
リシェルのどこか憂を帯びた瞳、差し出した手がまるでこの作品のテーマである「愛」を探しているかのようです。そんな彼女をかき抱くディランの表情も意味深ですよね。
二人がつながっているかのようなネックレスは、リシェルの暗器なんだそうです。作者以上に深い理解を捧げてくださり心から感謝です。
それでは亀の歩みの本編の続きをどうぞ。
今まで見せたことのない歪んだ表情の神父を前に、リシェルは酷く混乱していた。マキシム神父の態度だけではない。彼が発する“愛”という言葉がリシェルの心を激しく揺さぶった。
(“愛”ですって……?)
頭の中がひどく騒がしかった。普段なら敵に容赦なく切り掛かっている最中でもあらゆる可能性を考慮して働くはずの頭が、今は何一つ機能しない。霧の中に手を伸ばしているかのように何も掴めない。
(愛なんて、私にわかるわけない。でも、もし……)
これが愛だというなら、自分が本当に愛を知ったというのなら。
「だったら、ミレーユは……」
かつての姉弟子のことを唐突に思い出す。愛に殉じた彼女に留めを刺したのは自分だ。彼女の愛を否定したからこそできた所業。けれどもし彼女が味わったように、愛というものが何を押しても守り抜くべき大切なものだったとすれば、自分がしたことは間違っていたことになる。
「私が、壊してしまったの……?」
声に出すつもりなどなかった。ただ唇が動いただけだ。けれどマキシム神父は猫のようなあの笑みを浮かべて、彼が信奉する答えを口にした。
「殺すことが、愛を表す方法なんですよ」
まるで聖書を読み聞かせるような、優しい声音。あっさりと引き込まれそうになる自分を寸でのところで戒める。
「だからミレーユは愛した男を殺し、そしてそのミレーユをあなたが殺しました。あなたが愛を完成させたのです、リシェル。愛は、終わりがあるからこそ美しいのですから」
どくん、と何かが胸の底で崩れる音がした。あの日、「なぜ」と問いかけた自分に対し、ミレーユは確かに微笑んだのだ。“愛は素敵だ”と。はっとするほど美しい笑みを浮かべた彼女は、意識を失うその瞬間も自分が手をかけた愛しい男の手を握りしめていた。
だからミレーユの最後の記憶は安らかな寝顔のままだ。彼女の演奏も自分の演奏も、祝福に包まれたかのように色鮮やかで、それでもその記憶を忌まわしいものとして封印してきたのはリシェルの方だ。
何もしていないのに呼吸が粗くなる。これ以上追求してはいけない、思い出してはいけないと頭を振る自分に向かって、神父が足を踏み出した。
「だから終わらせてあげましょう、リシェル」
彼がまた一歩、近づいてくる。
「あなた黒鍵のエースですからできるはずです。愛する人を——殺しなさい」
神父に釣られてリシェルの視線が、背後のディランへと向かう。
「私がディランを……愛している? そんなわけ……」
自問した端から飛び出そうとする否定の言葉を、けれどそれ以上続けることができなかった。振り返った先にあるのは艶を失った白髪と凪いだような赤い瞳。その穏やかな色が、かつてのミレーユを思い出させた。安らかな最期を願った彼女もまた、すべてを捨て去る凪いだ表情でリシェルの行動を受け入れたのだ。
あのときあの場にいたマキシム神父は、どんな顔をしていたのだったか。今のように、どこか冷めた微笑みを浮かべていたのではなかったか。
動けないリシェルを前に、神父が不意に瞳を眇めた。
「あなたができないというなら、私が殺しましょう」
その言葉で、はっと現実に引き戻される。何かを考えるより早くリシェルの身体が反応した。それは徹底的に叩き込まれてきた動きだ。飛びかかる刃の払い方、重心の移し方、避けた反動で攻撃に転じる身のこなし。血の滲むような訓練と掻い潜ってきた死線があるから、息をするよりもスムーズに対処できる自信があった。それでも、訓練で慣れているはずのその攻撃に、リシェルはとうとうバランスを崩してしまった。石畳に膝をつくのをかろうじて踏みとどまる。手のひらがじわりと痺れて痛い。
ケイの攻撃よりもはるかに重い一撃。容赦ない切り込みを受け入れながら、リシェルは唇を噛んだ。
「こんなのおかしい。死を弄ぶなと教えたのはあなたじゃないの! 命を奪う代わりに一瞬で終わらせるべきだと。それなのになんでこんなこと……」
「決まっています。すべては愛のため。これ以上に美しい意味がありますか?」
見慣れた神父の剣が再びリシェルを襲う。重い一手をなんとか受け流すも、手首に嫌な震えが残った。これは訓練ではない。かつてないほどの緊張感の中で、演奏家として培われてきたリシェルの勘がようやく研ぎ澄まされた。
ちらりと目線をやれば、先ほど薙ぎ払ったケイの姿があった。内臓を守るために肋を犠牲にしたのか、まだ動けなさそうだ。
騒がしかった頭の中が、マキシム神父の攻撃のおかげか妙に静まり返っていた。
(あれこれ考えている暇はない。ひとつのことに集中すべきね。今私がやれることは……)
心を覆っていた霧がいつの間にか引いていた。見開いた青の瞳に戻る、確固たる意志と輝き。かつての師を前に、逃げるという選択肢はもうない。
あるのは、ただひとつの希望だ。
(ディランを、死なせない)
そのために神父を止めなければならないならそうするのだと、痺れる手にさらなる力を込める。敵うのかどうかなんてわからない。なぜなら自分に演奏のあらゆる技法を教えたのはこの人だ。孤児だったリシェルに名前以外のすべてを与えてくれた人と言ってもいい。
冷静になったリシェルの心に、走馬灯のように蘇るものがあった。かつて彼から与えられたあらゆる言葉と技の数々。辛辣な嫌味や仕置きまでもが幾重にも連なって、今のリシェルをここまで導いてくれた。
『感情は無駄ではありません。よい演奏には必要な技量です。ですが、それに溺れてはいけません』
『死を恐れる必要はありません。ですが己が死ぬときは満足しながら死になさい』
自分たちはただの演奏家だ。ミスをすれば誰かに取って代わられる、代えのきく存在に過ぎない。それでもマキシムは手を抜かず、一人一人に見合った演奏技術を徹底的に教えてくれた。だからリシェルもケイもここにいられるのだと言っていい。
蘇る思い出を、歯を食いしばってやり過ごす。なぜならリシェルはまだ死ねなかった。
「まだお礼を言えてないし、まだ……っ」
ディランが死んでも自分が死んでも、決して満足はできない。だったら——ただ抗うのみだ。
覚悟を決めたリシェルは、今日初めて自ら踏み込んだ。神父もまた初めて片眉を上げた。リシェルの攻撃を避けたマキシムは、神官服を翻して反撃の一手を打った。服の重さの分、速度が劣った攻撃をリシェルもまた難なく躱す。一度距離を取った二人だったが、すぐにどちらからともなく飛びかかった。リシェルの一突きが銀のストラを掠めたかと思えば、マキシムが放つ一陣がリシェルの頬に赤い線を刻む。その合間に響く鋭い金属音は目を凝らさねば見えぬほどの素早い交差から繰り出されるもので、徐々に二人の息遣いが乱れ始めた。
戦いが長引けば体力で劣るリシェルの方が不利だ。頭でわかっていながらも策が思い当たらない。ぎりりと奥歯を噛み締めていると、不意に神父が何もないところで膝を落としかけた。だがすぐに姿勢を立て直し、再び短剣を構える。よく見れば彼の胸が激しく上下していた。冷静沈着な彼がここまで息を乱すのも珍しい。
(いつもの神父様らしくない。こんなに簡単に息を荒げるなんて)
そう分析したのも束の間のこと。呼吸するたびに動く彼の胸元で、慈愛の女神を刻んだメダルが鈍く光るのを見て、リシェルは余計な考えを振り切った。自分はまだ戦える。まだこの人を超えていないし、まだ女神にしてやられたままだ。
汗ばむ手で短剣を握り直したリシェルは、かっと目を見開いて叫んだ。
「女神だかなんだか知らないけど、この世にまでしゃしゃりでてくるんじゃないわよ!」
呪いたいなら初代の皇王を呪うべきだ。数世代も下った後にまで禍根を残し、生まれ変わりの皇子を待ち続けるなんて、そんな執念が愛を名乗り、あまつさえ皆に崇拝されていることが苛立たしかった。
そもそも愛がなんだというのだ。そんなものに振り回される人生なんて滑稽だ。
そんな人生に翻弄されるくらいなら——自分が愛に食らいついてやる。
「私は、私がやりたい演奏をするわ」
歪な笑顔も穏やかな願いも足蹴にする勢いで、リシェルはしなやかに飛び上がった。狙うはマキシム神父の心臓。躊躇すればこちらがやられる。誰よりも鋭利な光を瞳に取り戻したリシェルに迷いはなかった。素早い剣先が確実に獲物を掠める。カキン、と鈍い音が響き、マキシム神父が顔を顰めて前のめりになった。それを見逃すリシェルではない。渾身の力で神父の鳩尾に膝を入れたかと思うと、そのまま床へと押し倒した。
「かは……っ!」
神父の聞いたことのない呻き声が響いても、手を抜くつもりは一切なかった。こんな目眩しの攻撃に騙されてくれるような人ではない。倒れた彼の肩先目掛けて短剣を振り下ろせば、神父が渾身の力でそれを弾き飛ばした。弧を描いて遠ざかる己の短剣に目もくれず、リシェルは彼の剣を奪おうと手を伸ばす。神父と揉み合いになるも、腕力は向こうの方が上手だった。
得物を守り切った神父が、立ち上がり様リシェルの喉元を狙う。丸腰になったリシェルは一瞬瞳を見開き——次の瞬間、自らその剣を受けるために身体ごと差し出した。
リシェルの白い喉笛が悲鳴をあげる——そう思われたのに。
「ぐわっ!!」
声を上げたのはマキシム神父の方だった。腹部を押さえて床に膝から崩れ落ちる。見ればそこには細身の金属が深々と刺さっていた。そして彼の右手はリシェルの動脈に達する前に、己の短剣を取り落としていた。
石畳の床に転がるのはリシェルが持っていた剣とマキシム神父が落とした剣。そして彼の腹部に突き刺さるのは、リシェルが最も得意としていた細長い暗器だった。短剣が弾き飛ばされ、神父の刃が目の前に迫ったとき、リシェルは本能で隠し持っていたもうひとつの武器を取り出していた。本来は延髄を狙うための得物で身を庇うには不向きの代物。それでも神父に一矢報いたいがために己の身体を差し出す勢いで、体重をかけて彼の脇腹を狙ったのだった。
自身の目論見が見事に命中したリシェルだったが、その唇からこぼれ落ちたのは歓喜の声などでは決してなかった。
「神父様……嘘でしょ。なぜ」
彼の手から滑り落ちた短剣を見つめる。剣先は間違いなくリシェルの喉元を切り裂く軌道を描いていた。リシェルの行動は己を犠牲にした捨て身の戦法だった。それが、自分の刃だけが獲物を捕らえ、喰らい付いたという事実に、彼女は単純に喜ぶことができなかった。
なぜならば。
「今、わざと短剣を落としましたよね」
落ちていくリシェルの声の下で、膝をついていたマキシム神父がついに倒れた。白い神官服が破れ、鮮血がじわじわと広がっていく。
はっと我に返ったリシェルは神父に駆け寄り、腹部から暗器を抜こうとかがんだ。しかしその手を神父が払い除けた。
「神父様! 早く手当しないと手遅れに……」
「……ケイ、聞こえ、ますね」
焦るリシェルを無視したマキシム神父は、顔を動かす力もないのか、天井を見上げたままぜいぜいと声を荒げた。
「当初の指示通り、あなたの演奏を、全うしなさい。私からの……最後の、指示です。すべては譜面、どおり……に」
「……わかりました」
「神父様!? なに、ケイ、どういうことなの?」
ケイを振り返れば、いつの間にか立ち上がった彼がアーモンドのような瞳をぎらつかせていた。その表情からただならぬ気配を察したリシェルが一瞬だけ息を呑む。
そのときだった。鼻をつく異臭に気づいて、はっと扉の方を見やった。自身が蹴り飛ばした扉はすでになく、そこから黒い煙が地を這うように漂ってきていた。
同時にどこからともなく聞こえてくる叫びが耳を突く。
「火事だ! 大聖堂が燃えているぞ!!」
「消火を早く……! 駄目だ、火の手が早すぎるっ!!」
「逃げろ!」
バタバタとした足音までが響き渡る中、リシェルは信じられない面持ちでその場に立ち尽くしていた。




