女神が奏でる鎮魂歌《レクイエム》2
「ケイ……どうしてここに」
聖主国に戻る自分に対し、彼は離宮に残って情報を取りまとめる、そういう計画だった。ここにいるはずのない譜めくり係が、まるで敵対するかのように佇む姿を見て、リシェルの声が震えた。
「どうしてって、ずいぶんな愚問だな。忘れたのかよ、オレが神父様から与えられた使命を」
その言葉で、初夜の翌朝のやりとりを思い出す。どんなときもリシェルとともにあること——それがケイの譜面。
リシェルとて忘れていたわけではない。だが黒鍵の演奏家は己の裁量で演奏することを許されている。与えられた譜面は大事だが、それをどう披露するかは演奏家の個性だ。
リシェルの提案を、ケイは受け入れたのだとばかり思っていた。だが諾と頷いたはずの彼がここにいる。それはつまり、演奏家であるリシェルの指示に従わなかったということだ。
「なぜ……」
「はっ。何をぼやくかと思えば。オレは初めからこっち側だよ。わかりきった話だろ」
ケイのアーモンド色の瞳が向いた先では、マキシム神父が猫のような笑みを浮かべていた。
「彼は最初からあなたの監視役だったんですよ。だからこそ決して離れるなと命令しました。あなたの譜めくり係ではありますが、それ以前に忠実なる黒鍵メンバーのひとりです」
驚きながらも神父の言葉に納得する自分がいた。黒鍵とはそういう場所だ。もし自分がケイの立場だったら、同じ行動を取ったかもしれない。
以前のリシェルならそう考えて引き下がっただろう。
だが——。
「ケイ、やめて。あんたと争うつもりはないの。あんただけじゃない、私は……」
ちらりと視線を送った先で、神官服に身を包んだ男は、相変わらず胡散臭い笑みを浮かべたままだ。口を挟んだかと思えば黙り、ただ俯瞰する。根っからの教育者である彼は、この成り行きを見守っているようだった。
物心ついたときからリシェルの身は聖主国にあり、黒鍵にあった。年齢不詳のマキシム神父に鍛えられ、演奏家になった。
その人生を悔やんだことはない。ただ——不可解な状況を抱えたまま、黙っていられる性分ではないだけだ。
今ここでケイと闘う意味も、ディランを衰弱させる意味も、まったく理解できなかった。
考えている間にもケイが間合いを詰めてくる。微塵の迷いもない彼の視線と鋭い殺気。まだ十二歳とはいえ侮れない相手だ。彼の鋭い踏み込みに、リシェルは太腿から短剣を抜き迎え撃った。
キンっ!と刃がぶつかる。弾かれた勢いのまま後ろに飛んだケイは、息つく暇もなく再びリシェルの脇腹を狙った。
金属音が何度も響く。だが決定打にはならない。身体の小さいケイは素早さで相手の懐に入り込むしかない。だがリシェルは黒鍵でも一二を争う身のこなしを誇っていた。極めて相性が悪い上に、舞台経験も段違いだ。
それをわかっているはずのケイが、何度目かの切り込みの後、顔を歪めた。
「なんでだよ! おまえは黒鍵のリシェルだったのに……俺たちの仲間だったのに」
今だってそうだと答えたかった。だがそれでケイが納得してくれるとも思えない。こんな状況ではどんなに叫んでも真実が届くことはない。
悔しさなのかやるせなさなのか——複雑な思いを言葉にできず、ただ推し黙る。ケイはその逡巡を裏切りと感じたのか、歪んだ表情から一転、鋭い視線をディランに向けた。
「あの夜、やっぱり逃げときゃよかった。それか、差し違えてでもあんたを殺しとくべきだった」
「え……?」
発言の意味がわからず、リシェルが一瞬目を見開いた隙に、ケイの刃が軌道を変えた。
「ケイっ!」
彼が狙ったのは自分ではない、背後に座り込んでいたディランだ。
だがそれを察知できぬリシェルではない。得物が間に合わないと判断し、足でケイの脇腹を払い飛ばした。小柄な身体が宙を舞う。受け身を取り損ねたケイは石の床に転がり、激しく咳き込んだ。
「ケイ!? 何するのよ! これは私の楽器だって知ってるでしょう」
咄嗟に足が出たのは本能的な反射だ。リシェルの方が上背も筋力もある分、まともに受けたケイの衝撃は相当なものだろう。ディランを庇うように立った自分を前に、彼は脇腹を抑えながらそれでも立ちあがろうとした。
「どけよ、リシェル。オレがやるから。そしたらおまえはまた黒鍵に戻ってくればいい。ここがおまえの居場所なんだから」
「何言ってるの、あんたには……無理よ」
衰弱しているとはいえディランの身体能力は侮れない。下手をすれば黒鍵の凄腕の演奏家たちよりも上だと、身を持って知っている。リシェルにすら敵わないケイが相手にしていい人ではない。
だが理屈をどれだけ並べても、今のケイには届きそうになかった。
「それでもいいから! ……どいてくれ、リシェル」
いつも不遜な物言いしかしない彼の、懇願のような呻き。息を呑むリシェルの代わりに答えたのは、背後で庇われていたはずのディランその人だった。
「リシェル。僕からも頼む。どいてくれ」
「は? あなたいったい何を言って……」
「もう僕の前に立つ必要はない。そう言っただろ」
覇気もなく飄々とした物言いでもない、ただ投げやりな彼の声。
突き放すようなその台詞を聞いた瞬間、——リシェルの中で何かが弾けた。
「何言ってんの! そもそも、元はと言えばあなたが勝手に誘拐されたのがいけないんでしょうが! 絶対わざとでしょ、そうよね!? ほんといけすかないったら!」
突然舞い込んだ衝撃の知らせにどれだけ焦ったことか。ヴィクトリアやロートレイまで巻き込んで大騒ぎした自分を思い出し、羞恥なのか焦りなのか判別できない感情が湧き上がる。それもこれも、すべてこのどこまでも美しい、掴みどころのない男のせいだと思えば、リシェルの開いた口は止まらなくなった。
「いい? あなたを殺すのは私よ。この世の中で、私だけがあなたを殺せるんだから!」
ディランの胸倉を掴まん勢いで叫ぶ。すると、虚空のようだった彼の瞳が一瞬何かを宿した。
紅玉の双眸がまっすぐリシェルに狙いを定める。
「……それはつまり、僕を、愛しているってこと?」
「は……?」
絡み合った視線が止まる。その瞳の奥に自分の姿が映っているとわかるほど澄んだ色合いを見て、激昂していたリシェルの脳の温度がすっと下がった。
冷静になった頭で今のやりとりを思い返してみる。思い通りにいかない怒りに任せて、自分が何を言ったのか理解してみれば——。
「な……っ、違っ」
否定しようにも、焦って言葉がまとまらない。落ち着いたはずの頭が再び沸騰し、頬がかっと熱くなった。
ぱくぱくと口を開けたり閉めたりしていると、ディランの白い手がリシェルの頬に伸びた。いつもは冷たいはずの彼の手の温度が、なぜか熱い。それとも自分の体温が上がりすぎているだけなのか。居た堪れなさから振り払いたいと思うのに、身体は固定されたように動かなかった。視線を外すことも出来ず、彼の瞳に縫い止められて、息すらも止まってしまう。
否定すべきだ、なのに強く言えない。嘘ではない、でも本当だとも認められない。
いろんな感情の波に飲まれながら、ただただ互いから目を離せずにいた、そのときだった。
「あははははははは!」
場違いな笑い声が二人の間を引き裂いた。振り向けば糸のような目をかっと見開き、狂ったように笑うマキシム神父の姿があった。
「ついに愛を知ったのだね、リシェル! 素晴らしい……実に素晴らしい! 私の見込んだ通りだ」
両手を広げて感動を表す彼の姿は、現実のものとは思えぬほど異様に見えた。狂気に満ちた瞳が歓喜に輝き、揺れていた視線がぴたりとリシェルに定まる。
「それでこそ黒鍵のエースです」
いつも冷静で穏やかな彼が見せる、初めての表情。
箍が外れた彼の歪な笑みに、リシェルは息を呑むしかなかった。




